葉

伊豆の国市教育委員会掲載未承認
田京の蔵春院を訪ねる〜その1
 歴史散歩 2008年7月26日   
 
千載一遇のチャンス!
 下田街道に限らず古道や石造物を探索する上で支障となるのは、地の利に疎いことです。未知の土地を歩くには地図などの資料が欠かせませんが、初めて歩くところでは難儀することがあるものです。ですから、その土地に住む方や詳しい人の案内を得て歩くのはたいへんありがたいことです。

 7月のある日の伊豆新聞を読んでいると、伊豆の国市教育委員会で「ふるさと再発見歴史散歩〜その1 田京蔵春院の本尊釈迦如来座像(室町期)を観る」という見学会を行う記事が目に留まりました。あの辺りは普段、車で通過するばかりの土地です。識者に案内してもらえば、効率のよい見学ができるでしょうし、知らないことも教えていただけるに違いありません。「申し込みは不要。現地集合のこと」ということですので、大喜びで現地に向かうことにしました。

さあ、伊豆の国市へ
 伊豆半島には「伊豆市」と「伊豆の国市」があり、何だか市区分がよく分からないことになっていますが、ここはかつての大仁町です。車を駐車場に置き、伊豆箱根鉄道の線路に沿った道を歩いて田京駅に向かいます。


             電車、キター!(上り列車を見送ったところです)

 集合時刻は午後1時です。15分ほど前に行ってみますと、参加者らしい方達が集まっていました。この日は梅雨が明けて暑かったのですが、「クーラーがなくても平気な世代があつまるんだろうね」という声が参加者から聞かれました。すみません、私、クーラー大好きなんですけど…。


         皆さん、たぶん私より高齢 皆さん、きっと大の歴史好き

 駅の入口で受付を済ませ、担当の方から注意事項などを聞いて出発しました。田京駅のすぐ前は江戸時代と明治時代の下田街道が通っています。江戸時代のそれは線路によって分断されていますが、時代の流れによってしかたないことでしょう。

「今日は江戸と明治と昭和と平成の、4つの時代の道が見られますよ。」という言葉にわくわくして足を踏み出すねこ山でした。


              暑いけど、出発〜 歩け歩け

 ふと歩道を見ると、廃レールを利用したガードレールが設えてありました。萌え〜、さすが駅前通りです。


            取り替えられた古いレールでしょうか

江戸期の下田街道へ
 線路は、江戸時代の下田街道を斜めに横切っています。すぐそばの踏切を渡って、そちらへと行きます。


        実はこの時、踏切の警報機が鳴り始めたんです スリルあり!

「ここが江戸時代の下田街道です。人や馬が歩くだけなので、この程度の道幅で十分だったのです。」

そう説明してくださる今回の案内人は、伊豆の国市教育委員会文化財担当のHさんです。ロングな白髪を後ろで束ねた風貌は、まさに現代のサムライ。休憩時間にタバコの煙をくゆらす姿は実にシブい! 刀をペンに持ち替えて、古き時代の記憶を守ろうと東奔西走されている感じです。


          何の変哲もない道ですが、実はここが下田街道なのです

この辺りの下田街道の道幅は、2間(にけん…3.6m)です。じっと目を凝らしていると、江戸時代の風景が見えてくるような気がします。


             幅3.6mが当時の標準規格だったようです

昭和時代の下田街道
 国道136号線の交差点に来ました。平成の時代になって伊豆中央道が通るまで、主役となって伊豆の流通を担っていた道路です(もちろん今でも交通量は多いですが)。
江戸時代の下田街道は、画像中央に見えている「クリーニングのタイヨウ」の建物の向こう側に入っていきます。その後、右に折れて横山坂の方に向かいます。明治期の下田街道はもっと右(東)の方を通っています。


         昔の道と今の道が交差するところ…歴史の交差点です
 
賽神社
 国道を横切り、賽神社へ来ました。境内には大きなクスノキがあります。このクスノキと田京の廣瀬神社と三福の熊野神社の大クスノキの3本は、地図上でほぼ一直線に並ぶそうです。植物学者の先生が調べたところ、これらのクスノキはどれも熱海来宮神社のクスノキの子孫(挿し木か株分けかで増えた)だそうです。はるか昔、そういう操作をする理由があったのでしょうね。


              サイの神様の神社があるとは…


           扁額には「賽神社」の文字が刻まれています

狩野川台風殉難者
 昭和33年10月16日夜半に伊豆半島を襲った狩野川台風は約千人もの人々の命を奪いましたが(助かった人たちが書いた手記を読むと、その被害の悲惨さに読み進めることができず、思わずページを閉じてしまうほどです)、ここ白山堂(しらやまどう)地区でも75人の方々が亡くなったそうです。昭和37年に建立された供養塔があります。


              白山堂に立つ狩野川受難者供養塔

白山神社と多福院跡
 供養塔の脇の道を進むと、奥に広場がありました。狩野川台風によって流出するまで、ここには多福院というお寺があったそうです。それが印に、遊具の奥にたくさんの墓石が並んでいます。


           ひときわ高い木々がそのお堂の存在を知らせています

こちらは白山(はくさん)神社ですが、高台にあったために祠は台風による洪水の被害を免れたとのことです。


          地元の方々の寄付によって立てられた社だそうです

境内には萬霊塔(等の字が当てられています)や念仏塔などが並んでいます。


             境内に立つ石の神々 

 H氏が分かりやすく説明をしてくださいました。

 これらの念仏塔は一つが唯念上人の碑で、もう一つが徳本上人の碑です。
 唯念上人も徳本上人も日本各地を歩いて教えを説きましたが、二人の念仏には違いがあるとのことです。
唯念上人は念仏を唱えることによって今の病気や不幸から救われるという「現世利益(りやく)」の教えを説き、徳本上人は念仏を唱えることによって極楽往生をすることができるという「来世利益」を説いたそうです。徳本上人は1718年に伊豆を訪れて説教行脚をされました。下田ではエイデンの北側に徳本念仏塔が建てられていますね。



 ここで一人のゲストが紹介されました。ここ白山堂にあった多福院やこれから訪ねる蔵春院に土地を寄進した地主さんの子孫の方です。私たちが訪れることを知って、杖をついてわざわざ足を運び、そのいきさつなどを話してくださいました。郷土を愛する心に、一同が胸を打たれたのでした。


   篤志家M氏

来朝塚
 田んぼの中の農道を歩いていくと、やがて平らな土地に何かありそうな木が見えてきました。



近づいていくと、木の周囲にたくさんの石造物が立っているではありませんか。そこだけ異質な空間のようになっています。



「来朝」とあるので、頼朝が訪れた所かなと思いましたが、関係はないようです。来朝というお坊さんが日本中を巡った後でここにお経を納め、阿弥陀仏の像を彫ってお参りに北人々に分けやった場所であるそうです。



ザ・田京 不思議ミステリー
 案内役のサムライH氏が説明してくださいました。製造物群の中でひときわ目を引くこの大きな板碑は、享保九年(1724年)に武州埼玉郡忍行田町の了博という人が願主として建てた石碑ですが、なぜか表に刻まれていた文字をあえて削り取ってあります。
 いつ誰がどんな目的で削り取ったのかは分からないのですが、そうする理由が石碑を立てた後で生じたのでしょう、という事でした。まさに田京不思議ミステリーです。



 ここで新しい知識を一つゲットしました。この馬頭観音石柱に刻まれている「天」の文字ですが、例えば「天明○年」の「年」の字を「天」に替えて彫ることがあるそうです。「天」は「年」と響きが似ていて、供養塔に合った文字だからでしょうか。そういえばさっきの白山塔に立つ「三界萬霊等」も「塔」を「等」にしてありました。2つには共通点があるのかもしれません。今度Ss木先生に聞いてみようっと。


               「天」という文字が見えますか?

 来朝塚には、他に享保二十年(1735年)の庚申塔、宝暦十二年(1762年)の廻国供養塔、文化十三年(1816年)の馬頭観世音、寛延四年(1751年)の西国秩父板東観世音菩薩供養塔、年代不明の奉納大乗妙典六十六部塔などが立っています。古の人々の願いが込められた来朝塚には、不思議ワールドが展開されて然るべきかもしれません。


         左 廻国供養塔  右 西国秩父板東観世音菩薩供養塔 


         「次、行きますよー。」って、まだ私、写真撮ってます 置いていかないで〜
    
久昌寺六角堂跡
 来朝塚を後にして再び街の中に入りました。江戸期の下田街道に接する辻に、久昌寺六角堂の跡がありました。ここに昔、久昌寺というお寺があり、お堂が建っていたそうです。今はその礎石だけが残っているそうで、時の流れを感じさせていました。








          六角形の断面を持つ柱を立てた跡が礎石に見てとれます

 ここにもいくつかの石造物が集められています。天保十二年(1841年)の大乗妙典六十六部供養塔、天明六年(1762年)の大乗妙典塔、元禄十年(1697年)の地蔵塔などです。他には、ここに田中学舎という寺子屋(?)があったことを示す石碑があります。


               左の大きな石碑が「田中学舎碑」です

 六角堂跡の前を南に曲がっていくのが江戸期の下田街道です。現代の道と違って家々の間を縫うようにして通っているのが特徴です。あなたの身の回りに曲がりくねった細い道があったら、それは古道かもしれませんね。


       この辻の右に六角堂跡が接しています 街道は左に曲がっていきます

 さて、ここからいよいよ蔵春院を目指して歩くのですが、どの辺りにいるのかなと思っていたら、何と、酒飲みの聖地「良酒倉庫」の前を通りました。ここが下田街道だったんですね、管理人失格です・・・。


             この店の前が下田街道だったなんて・・・

 「良酒倉庫」の前で国道(昭和期の下田街道)を横切って、いったん韮山の横山坂方面へと向かいます。


        向こう奥に伸びている細い道が江戸期の下田街道です

蔵春院への道標があったところ
 再び伊豆箱根鉄道の線路を踏切で渡りますと、線路に並行して明治期の下田街道が通っています。
下の画像で左上から右下へと通っているのが明治の下田街道で、左下から右上へと通っているのが江戸期の下田街道です。5年ほど前に私がここを訪れた時には、この新築のお宅の場所にはスーパーマーケットがあり、その脇に蔵春院への道標が立っていました。道標はこれから行く道の蔵春院に近いところに移されたそうですが、まさかスーパーマーケットがなくなるとは…。


    江戸期と明治期の下田街道が交わるところ まさに古道の交差点
  

          この辺りに「従是蔵春院道」と彫った道標がありました

 
         昔あったスーパーと                     その脇にあった当時の道標

下の画像で突きあたりを左に行くと横山坂(三島方面)に至ります。蔵春院は突きあたりを右に行きます。



六角堂跡から20分ほど歩くと、ようやく蔵春院への分岐に辿り着きました。いよいよここから参道に入ります。




      「田京の蔵春院を訪ねる〜その2」へ続く

                                             
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