葉

横浜 坂巡り〜その1
散策 2008年12月27日   
 
横浜の坂に憧れて  
 2008年の秋、何気なくページをめくっていた小学校5年生の国語の教科書に、「チョコレートのおみやげ」という童話が載っていました。読み始めて思わず引き込まれてしまった私は、物語に出てくる街の様子をあれこれ想像し、坂に対するあこがれを強く持ちました。



 港の公園のベンチで、みこおばさんはチョコレートの箱を一つ取り出した。坂の途中で買ったのだ。もう一つ同じ箱があるけど、それはお母さんへのおみやげ。
「チョコレートって、おかしの中で、いちばんすてきやと思うな。」と、おばさんは言った。

という書き出しで始まるその物語は、このような話でした。


童話「チョコレートのおみやげ」
 異人館の近くに坂道がありました。坂の途中にはチョコレート屋があり、坂のてっぺんには、風船売りの男が一羽のニワトリと暮らしていました。
 風船売りは毎朝ニワトリに風向きを尋ね、風の吹いてくる方向によって風船を売る場所を決めていました。風見をするニワトリの意見はいつも正しく、お客の集まるところで風船を売ることができましたから、風船売りとニワトリは、そこそこ幸せな暮らしをすることができました。風船売りは、風船がよく売れた日の帰りには坂の途中にあるチョコレート屋でチョコを買って帰り、晩にその日あったことをニワトリに話しながら一緒にチョコを味わったのです。

 ところがある日、ニワトリはいたずら心を出してしまい、風船売りに嘘の風向きを教えました。風船売りはその言葉を信用し、その日行ってはならない港へと風船を売りに出かけました。
 しかしその日は夜になっても風船売りは帰ってきません。翌日も、次の日も、ずっと男は帰ってきませんでした。ニワトリはうそをついたことを後悔し、どうにか男が帰ってきますように、と願いました。

 男がいなくなって3ヶ月たったある日、心配そうなニワトリを見つけた金物細工のおじいさんがが近寄ってきました。そしてニワトリに話を聞き、こんなことを言いました。

「ふむ、訳は分かった。おまえさんが心配のあまり死んでしまっては、もう風船売りが帰ってきたとしても風向きを知らせることはできない。そうだ、私がおまえさんを金物の風見鶏にしてやるから、屋根の上で風船売りを待つがいい。そうすれば、おまえさんが死んでしまっても、風向きを知らせることができる。」

 おじいさんはそう言って、金槌でニワトリの足を一回、カチンと叩きました。すると足が金物になりました。次に体をカチンと叩くと、体が金物になりました。それから頭をカチンと叩くと、頭が金物になりました。そうしておじいさんはニワトリを金物の風見鶏にして、屋根の上に載せてしまいました。

 3ヶ月後、ようやく風船売りの男は坂を上って帰ってきました。ニワトリの言った風向きを信じて港に行ったので、強い風にとばされて、風船ごと遠い町に飛ばされていたのです。
 金物になって屋根の上に載っているニワトリを見て、風船売りは悲しみました。そして、嘘をつかれたことなどちっとも怒っていないことを伝え、どうにかしてもう一度一緒に仕事をしたいと言いました。

 困った男は、バッグに入れてあったチョコを取り出し、ニワトリの口に入れました。すると、チョコを一つ口に入れると足が元に戻り、二つ目を入れると体が元に戻り、三つ目を入れると頭が元に戻りました。坂の途中の店で売っているチョコには、時間を戻す力があったのです。そうして、坂の上でまた風船売りとニワトリは仲良く暮らすことができるようになったということです。
                        (出典 『チョコレートのおみやげ』岡田淳 作 より要約)

横浜へ
 本を閉じた私の瞼には、いろいろな風景が浮かんできました。港に停泊する客船、時々響く船の汽笛、カモメの飛び交う岸壁、赤い煉瓦作りの倉庫、港から山の手に延びる坂道、丘の上に立つ異人館、散歩をする人々・・・。それらの想像上の光景を思い、いつか必ず横浜の坂道を訪ねてみようと、心に誓ったのでした。

それから2ヶ月。思いの外早く、その夢は叶うことになりました。冬休みの日曜日に、私は横浜の街に立つことができたのです。


      横浜ランドマークタワー展望室から見たベイエリアの夜景


       深夜まで人の波が途絶えることのない中華街

早朝散歩
 異郷にいてもいつもと同じように早起きした私は、朝食までの時間、少しだけ坂を歩いてみることにしました。手元にある地図では、朝日を見るには高台にある山の手の住宅地へ行けば、朝日が見えるようです。


             中村川とその上を通る高架橋


              橋を渡って元町方面へ行きます

高田坂
 夜のうちはとても華やかな中華街は、朝を迎えると閑散とし、歩道にはゴミが集められています。すでに空を明るくしている太陽の弱い光はビルの陰になり、どこから朝日がさしているのか、方向がよく分かりません。

 そんな街を通り抜け、淀んだ川を渡って、元町商店街へと来ました。とにかく山の手へ上ってみようと思いましたので、最初に地図で見つけた「高田坂」を歩いてみることにしました。


              人影がまばらな元町の一角

高田坂の始まりは、代官坂の始まりでもあるようです。つまり一つの起点から高田坂と代官坂が始まって、それぞれ別の道筋で山手通までつながっているのです。



               右に行くと代官坂と高田坂があるはず

 地形から見てここが高田坂であろうという石段を上っていきました。道の曲がり方が地図と同じですので、ここが高田坂なのでしょう。坂名の標柱や石標は見られません。


               高田坂は石段の坂でした

 かなり上ると、右手に誰もいない小さな空き地のような公園がありました。浜開港時から大正期まで浅間の見晴らし台と呼ばれた、眺望のよい所だった百段公園です。 そこから元町の方を見下ろすと、様々なビル群が朝日を浴びています。



 港の方は?と目をやりますと、様子がよく分かりません。もしかしたら、港の見える丘公園に行かないと朝日は見えないのかもしれません。こうして私の「横浜 坂巡り」は失敗から始まったのです。


            百段公園からはビル群しか見えません

汐汲み坂
 車の通り抜けができないせいか静かな高田坂は、やがて石段から普通の舗装路になりました。


      坂の左右は洋館風の建物が並ぶ高級住宅地になっています

 高田坂を上り切りますと、そこには山の手通りが東西に通っています。
 山手通は、山の手の一番高いところ、山で言えば東西に延びる稜線に当たる部分を道路が通っていますので、そこから南北に降りる道はすべて坂道になります。地図にはいくつか名のついた坂道が見られますが、そうではない、名のない坂もあります。


                一番上から見た高田坂

 高田坂を上りきりますと、隣りに下から上がってくる坂道がありました。汐汲坂です。そちらも歩いてみたかったのですが、朝日が見たいと思いましたので、山手通りを東に向かいました。


          高田坂(右)と並んだ汐汲坂(左)の下り口です

代官坂
 やがて四辻に信号があり、そこが代官坂の下り口になっていました。その一つ東にも、細い坂があるようです。


       空に突き刺さるような教会の尖塔


           山の手通りのバス停「代官坂上」


      残念ながらごみに被せるネットが坂の景観を壊しています

代官坂を左手に見た後で山手通りを少し歩きますと、小さな坂道がありました。名前は特にはついていないようです。


          この坂には名前がついているはずですが、さて…

額坂
 名のない坂の次に見られたのは、額坂へ通じる坂道です。ここまで来ましたら、元町公園はすぐ目の前です。


                静かな額坂への下り口

 代官坂も額坂も下りずに山手通りをさらに東に進みますと、まもなく左手に元町公園が広がり、太陽の光はその反対側の通りから現れました。しかしもうすっかり日は高くなり、朝日とか日の出とか、そういう感じではなくなっています。そうそう何度も来られる街ではないので、残念に思いました。

 公園の中にはエリスマン邸などがあり、立ち寄ってみたいところでありました。道の向かいには山手聖公会があり、山手十番館という洋館も建っています。また、猫の美術館や山手資料館もあります。ゆっくり訪ねて来るならぜひ見てみたいところです。
 それらの建物の外観を見ながら歩いていきますと、この辺りの地図が掲示してありました。よく見ると、いくつかの坂に名前が記してあります。


      元町公園から東に下る坂の向こうが朝日で華やぎ始めています


              この建物がエリスマン邸でしょうか

南坂
 エリスマン邸の向かいにある、朝日に包まれた坂は、南坂です。


              朝日の見えそうな南坂

この坂を下れば朝日が見られるのかな、と思って少し下ってみましたが、建物の間を下っていくだけのようになってしまいましたので、引き返してきました。

山手通には、瀟洒な建物や路地がいくつも見られました。


               東を向いた路地


          南欧風の外観を持つ邸宅があちこちに


              こちらも教会の塔です

 歩道を歩いていると、掲示板に地図が貼ってありました。これは観光ポスターでしょうか。どこかで手に入れたいものだと思いました。

            色は褪せていますが、よい地図です

貝殻坂
 このやがて左に外国人墓地の看板がありました。手元にある地図を見ますと、山の手から元町にかけての斜面に貝殻坂がある、と記してあります。そちらを見下ろしてみますと、外国人墓地の脇を下る石段に坂があり、緩やかに曲がりながら降りているのが見えました。


        この山茶花の生け垣の向こうが外国人墓地です

ふと気づくと、傍らに坂名を刻んだ石標があります。これが貝殻坂なんですね。  


         外国人墓地の際をなぞるように下りていく貝殻坂

見尻坂
 貝殻坂を下りずにそのまま行きますと、見尻坂へ下りる道となりました。元町へ下りる坂になっているようです。


             見尻坂と元町につながる道です

陣屋坂
 見尻坂への道と向かい合っているのが陣屋坂です。こちらも車の通行がほとんどない、静かな坂のようです。よく見ると、「陣屋坂」と彫った石標が立っています。その時には気づかず、後で写真を見て分かったのですから、まだまだアンテナが低い私です。


         ゆるやかに下る陣屋坂 石標どこにあるか探してください

港の見える丘公園へ
 もう朝日を見るには遅い時間になりましたが、とにかく港の見える丘公園へ行ってみることにしました。公園は、教会のある曲がり角を真っ直ぐ東に向かう道の先にあるようでした。それは朝日に照らされたアルファルトの上の、まるで光の条痕をそのまま辿っていくような眩しい道でした。


             いよいよ港の見える丘公園に来ました

丘の上のニャン
 さあ、この信号を渡ると港の見える丘公園です。丘からはどんな風景が見られるのでしょうか。
 入ってすぐの水飲み場に、一匹のネコがいます。ノラ?ですよね。はじめは何をしているのか分からなかったのですが、どうやら誰かが水飲みの栓をひねってくれるのを待っているようです。頭のいいニャンです。どこかの家で飼われていたらきっとかわいがられて幸せな生活ができるのに…と、残念に思いました。


           とても淋しそうに一匹で佇んでいました

横浜の港と吉田松陰先生
 ここは公園のほぼ中央部に当たります。訪れている人たちは思い思いに犬の散歩やウオーキングをしています。
 公園の中を進んで、いよいよコンクリートのテラスの上に立って港を見てみることにしました。 と・・・・、私の視界に飛び込んできたのは…、


             いよいよ港を見下ろす丘に来ました

何ですか、これはーっ


            この橋だけが唯一よい感じがしました

 港の見える丘から見えたのは、無数に林立する港湾施設の大型クレーンやビル群、車の行き交う専用道路などでした。この光景は、いったい…。見ていてもちっともロマンチックではありません。
 そういえば嘉永7年(1854年)3月、海踏の志を抱いて横浜に来た吉田松陰先生はこの港の沖に停泊していた黒船に乗ろうと試み、漁師に小舟を貸してくれるよう、探していたのでした。結局その目論見は失敗し、動き始めた黒船を追って下田へと急いだのですが…、この港の様子を松陰先生がご覧になったら、きっとびっくりされることでしょう。

谷戸坂を下って
 そろそろ朝の散歩の時間は終わりに近づいてきました。港の光景に落胆した私は、残念な思いを胸に公園を後にすることにしました。水飲み場ではさっき犬を連れた人が通りかかったために逃げていたニャンがまた蛇口の下にいましたので、水を出してやりました。冷え切った石の上に座って、これまた冷たい水を、でも愛おしそうに飲んでいました。カリカリを持ってくればよかった…。


       足が冷たそうです 丘の上のニャンに幸あれと祈るばかり

 港の見える丘公園前の交差点からは、北に谷戸坂が元町へと下っています。「谷戸」という言葉には、平地が谷になって山に入り込んだ麓の部分、という意味があります。港の見える丘公園前から下る谷戸坂は、陽の陰になっており、やや寒そうなところになっていました。隣にある細い坂道の方も風情があるのですが、そちらの坂には名前がないのでしょうか。


          左に下る車道が“谷戸坂” 右は名のない坂


         途中から見下ろした谷戸坂 微妙な曲線に趣があります

谷戸坂を下り切りますと、右手にフランス山という森があります。港の見える丘公園から続いているようです。

いくつもの“発祥の地”
 この辺りには、ひっそりとして目立ちませんが、「クリーニング店発祥の地」、「ボーリング発祥の地」などを示す石碑が立っています。開国前後の頃、外国の文化が入ってきた横浜ならではの碑でしょう。

 下の画像は、“クリーニング業発祥の地”の記念碑です。

1859年(安政6年)、 横浜が開港されて西洋人が多く居留するようになりますと, 必然的に西洋式の洗濯の需要が増加しました。多くの業者が開業し, これが現在のクリーニング業に発展しました。 記録によると, 一番最初の業者は 青木屋忠七という人で、明治中期には833名の業者が協会に記録されているそうです。そして

「西洋洗濯どこからはやる はやる横浜谷戸の坂」

などというはやり唄がうたわれたと言われます。

碑文
 安政6年 神奈川宿の人 青木屋忠七氏 西洋洗濯業を横浜本町1丁目 現在の5丁目にて始めついで岡澤直次郎氏 横浜元町に清水屋を開業 慶応3年 脇澤金次郎氏これを継承し近代企業化の基礎を成した この間フランス人 ドンバル氏 斯業の技術指導 および普及発展に貢献された これら業祖偉業を顕彰し こゝにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する   
 
          昭和48年10月吉日     神奈川県クリーニング環境衛生同業組合   全国クリーニング同業者有志一同    


           “クリーニング業発祥の地”記念碑

 下の画像は、その近くにあった“ボーリング発祥の地”の記念碑です。しかし最初の発祥の地ではなく、元祖は長崎の1861年で、横浜の1864年は2番目、ということだそうです。ちなみに3番目は神戸の1696年だそうです。

碑文
 1864年(元治元年)横浜外国人居留地内に 長崎に次ぎボウリングサロンを開場した記録がある。協会発足30周年を記念し、ここに横浜ボウリング発祥の碑地を建立する。 平成7年10月26日 神奈川県ボウリング協会 神奈川県ボウリング連盟 神奈川県ボウラーズ連盟 全国実業団ボウリング連盟神奈川県連合会


              横浜ボウリング発祥の碑

 これらの記念碑の他にも横浜には多数の「発祥の地」記念碑があるそうです。ちょっと列記してみますと、

「鉄道創業の地碑」、「鉄(かね)の橋碑」、「アイスクリーム発祥の碑」、「日本写真の開祖写真師 下岡蓮杖顕彰碑」(←下田出身の職業写真家ですな)、「外国郵便創業の局」、「電話交換創業の地碑」、「西洋理髪発祥の地碑」、「我国最古の公園碑」、「日本洋裁業発祥顕彰碑」、「日本国新聞発祥の地碑」、我国西洋歯科科学発祥の地碑」などがあります。発祥の地ばかりを探して訪ね歩いている人もいるようです。


          坂を下ったところに坂名の石標がありました


        「横浜 坂巡り〜その2」に続く
                                             
トップ アイコン
トップ

葉