伊豆の東と西を繋ぐ道
伊豆半島の東海岸から西海岸への古道を考える時、それが天城山以南の半島中部の地域なら、河津町から松崎町へのみちが主となると思います。すなわち、河津町の東浦路から下田街道の一部を利用し、あるいは横切り、松崎町の山間部である池代を経由して松崎へと入る街道です。人馬が往来していた時代にはそれが最短距離となったはずです。
今回は、その河津から池代に通じる古道を考え、歩いてみることにしました。
現在なら、河津から松崎に通じる道は、最短距離を考えるなら、
1 河津→国道135号線→下田→県道52号線→(婆娑羅峠)→松崎
2 河津→筏場→国道414号線→下田→県道52号線→(婆娑羅峠)→松崎
3 河津→大鍋越え→池代→松崎
となります。このうち、3のルートは未舗装部分を含む林道であり、あまり一般的ではありません。
上記の道路群は、自動車を利用した時の道です。したがって、できるだけ山や谷など、高低差がある地形は避けて通っています。
しかし古の道はそのようなことはあまり考えずに、いくつかの里と峠を繋ぎながら通してあると考えます。「差し障りのない程度に最短距離を行く」、それが道本来の姿と私はとらえます。
今回歩くのは、河津から松崎への道です。東浦路と下田街道の周辺で、谷と山と峠をつないで人々の生活に供された道…。これを、各地に残る道標や踏み跡を辿って歩いてみたいと思います。
いくつもの道標が示すこと
下田街道の小鍋峠を河津側から越えて下田側に下りますと、そこは八木山の里です。ここは、河津と下田と松崎の村々を繋ぐ街道の要衝として位置づけることができると思いますた。なぜなら、この付近には道標や道標銘が合わせて5つ残っているからです。

高さが130cmほどある立派な道標です
上の道標は、嘉永年間に沼津の海鮮商人、増田七兵衛さんが立てた道標です。「右下 川津東うら 左 みしま 道」と刻んであります。冬の午前中は太陽光線が上手に文字の中に影を造り、くっきりと読みとることができます。
この文字は「右下 川津東うら」なのか「右 下川津東うら」なのか迷うところですが、諸先輩の見解では、「右下」で一旦区切って読むのが妥当だろう、ということです。
「左 三しま」は、小鍋峠から下田街道を北上して天城を越える道を指します。
そしてもう一つ、これが大正年間に立てられた道標です「小鍋ヲヘテ 天城街道二通ズ 大鍋近道」です。この民家の庭先に残っている道標の前を右に行けば小鍋へ行き、左に行けば小鍋峠のもっと奥を通って大鍋に通じます。

ちょっと分かりにくいところにある大正年間の道標
ちょうど外に出てられたこのお宅の御主人に話を聞きました。
「あなたが探しているのは、小鍋峠じゃないかい? 本当の小鍋峠への道は、そこの下にある消火栓のところから入るんだけど、今は薮になってしまったので、行けないよ。」
「ああ、大鍋への道か。昔は大鍋まで行けたけど、今は無理だろうよ。ああ、ここを左に行くと、公民館の上に出るよ。大鍋まではもっと上へ歩いていくんだよ。」
という事でした。

このご主人もかつては山を歩いて大鍋や小鍋へ行かれたそうです
八木山で話を聞く
林道を利用して八木山の集落の一番奥まできました。ワサビの苗を育てているビニルハウスや上水道の水源タンクなどが見られます。
ミニバイクが停まっているので、持ち主を捜してみました。すると、てっきり男性が乗ってきたと思ったミニバイクは、なんと熟年の女性のもので、彼女は道下の畑で野菜の苗の世話をしていました。

帰る時に撮った写真なので、誰もいません
仕事の手を休めて彼女がしてくれたのは、こんな話でした。
「この前もこの辺りの古い道を歩いているという人が訪ねてきたねえ。その人はこの下の家のおじいさんに話を聞いてきたと言っていたけど、何でも“黒岩”というのを探していると言っていましたよ。そんな岩があるのかねえと聞いたら、この奥の山にあると聞いてきたそうで、探しに来たそうですよ。」
「行ってみたら、大鍋に行く道を少し下ったところにあった、と言っていました。私に道を聞いていったものだから、見つけたよと言わなくちゃならないと思ってまた来た、と言っていました。」
「『あ、次に来る人のために目印を付けてこなかった。』、と言っていましたから、他にも仲間がいるみたいですよ。」
「えっ、その人はもしかして役場の方ではないでしょうか?」
「いえ、もう60歳を越えて仕事はしていないと言っていました。伊豆の新しいナンバーをつけた車で来ていましたよ。」
「お不動さんですか、ありますよ。あのタンクの奥にね。昔はよくお参りに行ったものでしたが、今は7月29日にあげ物をしてお祀りをしています。」
「その林道はこの上にある水源地のタンクに行く道です。お不動さんの横を通って、沢を向こう側に渡って、登っていくんです。くねくねした道を登っていくんですよ。」
「大鍋にも行けますが、今は同でしょうか、道が消えて、行けないんじゃないでしょうかねえ。私も昔は行きましたが、今では分からないと思いますよ。」
「大鍋からの林道があるんですか。その道のことは知らないですが、池代へは須郷から行く道があったと思います。」
「50年前は、杉の木が高く売れるから、みんなで木を植えに行きましたよ。今50になるうちの女の子が赤んぼの時、よく行ったものでしたよ。
この上は、こんなにくねくねと曲がった道でね、その上に行くと少し広くなっているところがあって、そこが八木山の草刈り場になっていました。そこに杉の苗を植えたんですよ。それが今じゃ何にも値打ちが無くなっちゃって…。こんなになるなんて、誰も思わなかったからねえ。」
「大鍋と池代の道標ですか。あなたよく知っているね。今でもありますか。」
「須郷に行く道は、あちらの洞ですよ。あちらの方が近いです。ええ、お地蔵様のあるところからね入るんです。この道を向こうに行くと分かれ道になって、右に少し入ると広いところがあるので、そこから歩いていくんですよ。
私らはその道を通って須郷に行きましたよ。ええ、ここからも行けますけど、遠くなりますからね。」
と、たくさんのお話を伺うことができました。その中でも「(くねくねした道ですよ、というところに萌えてしまいました。(道があるんだ!)と私は一気に探索意欲が高まったのでした。
さあ、パジェミ号を水道タンクの脇に置いて、いよいよ歩き始めます。
タンクの向こうに沢があり、道はさらにその向こう側にあります
さて、実はこの道は2年前にTAKE兄さん(地元ハンターであり私の道の先生でありK子さんの従兄弟)とおじナベ先生(イノシシ隊メンバーにして職場の先輩)と、一度探索したことがあります。
その時は逆に「右大鍋−左池代」の道標から沢を下ってお不動さんに着きました。確かTAKE兄さんは沢を下りながら「本来の道はこの少し上にあると思うよ。」と話していました。今回はぜひその本来の道を行きたいと思っていました。しかしはて、お不動さんはどの辺りにあったでしょうか。とにかく登ってみることにしました。いよいよ河津−池代間の探索開始です。
お不動様を探して
沢の左岸から踏み跡を辿って登り始めました。すぐにお不動さんがあると思っていたのですが、それは思い違いだったようです。なかなかお不動さんはありません。(沢を間違えたかな?)と思ったほどです。

右は水源地に行く道です そちらを行けばよいのです
お不動様がすぐそこにあると思ったので、沢を歩き始めました。本当は、水源地に行くしっかりした歩道を行けばよかったのです。
登り始めて50mほど歩くと、別のの水源タンクがありました。そこから辺りを見回すと、少し上に踏み跡が見えました。
(あっちかー)と思ってジグザグに登っていきますと、今度ははっきりした道が右方から来ています。あの道がお不動様への道か! そして池代への道であるんだな、と思われました。さあ、しっかりした道に合流しましたよ。
これが水源のタンクですが、道はもっと上に(手前側)にあります
いい感じで道は登っていきます。と、ああ、砂防ダムが出現しました。これは砂防ダムを建設する時に資材を運んだクローラ道ですね。

しっかりした道は、この砂防ダムへ通じていました
引き続き砂防ダムの右を登っていきたいところですが、そちらは山肌を切り崩してあるために登れません。しかたなく前を横切って沢を渡ります。そちらに道がついているからです。

ダムの右側は登れないので、左へと回り込み、上流へ進みます
道はぐるりと砂防ダムの上を回り、すぐにまた沢の左岸に取り付きました。踏み跡はかすかに残っている程度ですが、ずっと上の方に道らしき筋が見えたので、登っていきました。

砂防ダムを越えて、さらに道を探して登っていきます
おお、また踏み跡がありました
踏み跡が山肌を降りるようにして沢に至ると、向こう側にお不動様が見えてきました。こんな上の方にあったんですね…(だいぶ見当違いをしていました)。

あー、あれがお不動様でしょう
お不動様があるのは、滝のそばであることが多いです。滝の持つ力強さがお不動様の念力と通じ合うからでしょうか。そういえば中村の幻の滝にあるというお不動様の石像、見たいのですが、KAZUさん、連れてってくれないかなあ…。(←内輪ネタですみません)

こんな山の中にお不動様が… ここが街道であったことの証でありましょう
お不動様は、新旧2つの石像が祀られていました。しかし建立年などは不明です。残念。

左の新しい方のお不動様像が高さ1mほどです
道はどこに
お不動様から上には、クローラ道はありません。何となく続く踏み跡を探してさらに登っていきます。どうやらこの辺りまではかつてワサビ田が作られていたようです。沢を渡った少し上に、踏み跡がありました。(いいぞ〜、ここかー。)と思い、登っていきます。

沢の右岸(画像では沢の左側)を登っていく古道
途中に「山火防林」の標識がありました。これは心強いです。

標識の前にはっきりとした道が残っています
しかし、しばらくすると、道が消えました。しかもその先は沢が分岐しています。ど、どちらでしょう…。
と、高みに水平敷きらしき地形の部分が見えます。あれが道か!? となると、道は沢の分岐を左に行くのか!? そう思って高みへとよじ登った時です。それは、炭焼き窯の跡でした。

道はどこ〜? あの高みのが道か?(ホントは道は右に延びていた)
ふうふう言いながら山肌をよじ登ってみると、立派な炭焼き窯の跡がありました。

2つの沢が合流する地点にはよく炭焼き窯の跡が見られます
左の沢を見上げてみましたが、どうもこちらからは道の臭いはしてきません。こっちじゃない!

うーん、道の臭いというか、オーラが感じられません
道は…、左の沢にはありません。道も踏み跡もついていないのです。
では、と辺りを見回してみると、左の沢はごく浅いですがそれに比べて右の沢は深く、なにやら踏み跡らしきものも見えます。意を決して、斜面を滑り降り、右の沢へと進むことにしました。

道があるならこっち! 右の沢に降りてみました
古道歩きを楽しむ
沢に降りて踏み跡を辿ろうとしますと、突如、明らかにここが道!というU字をした窪みが見つかりました。というより、道がそこで私を待っていた、という感じです。
おお、道があった! 私を待っていたのねん
道は、あったんです。おそらくはお不動様の辺りからずっと。さっきのご婦人の仰った「お不動様の上で(沢を)渡って、そこからはこんなくねくねした道を…」という道が…。
だって、ほら、沢の浸食に侵されないしっかりした道があなたにも見えるでしょう?

あった、あったー ほら、ほら〜!
つづら折りの道
辺りの景色を確かめながら、わくわくどきどきしながら歩きました。ある、ある、ある…。ここから先にも、そこから先にも…。道は続いています。

道は右に進んで左に折れています

日の当たる南斜面を登っていきます

右に進んで左に曲がって

左に進んで、その上で右に回り込んでいます

誰が置いたか、ペットボトルがありました 目印のつもりでしょう ゴミなのに
標識と道 安心できる景色です

徐々に傾斜が緩やかになってきました
あ、右に見える稜線は、きっとかつて小鍋峠から尾根筋を辿って大鍋越えに行かれたというkawaさんやM木さんの歩いた尾根でしょう。この先の427.1mの手前で合流しているはずのルートです。

右手に別の稜線が見えました
道は、沢を離れ、南向きの斜面をつづら折りになって上がってきました。そしては一気に標高を上げ、その後、緩やかになり、檜林の中に入りました。この道がこんなに多彩な表情を見せるなんて…。私は道を踏み締め、全身全霊で古道歩きを楽しみました。いい冬休みだ…。
途中、分かれ道らしきところがありました。周囲を歩いてみますと、左はどうやら木こり道(森林の保守道)のようで、じきに消えてしまいます。
この分岐は右(ほぼ真っ直ぐの方向)に進みます。なぜか白い紙が倒木にくくりつけてあります。まだ新しい紙なので、さっき話に聞いた伊豆ナンバー車の男性がつけたのでしょうか。

中央の分岐が見えますか ここは右に行きます
じきに目の前は檜林になり、道を見失ってしまいました。しかし稜線が低くなり、空が近くなってきてもいます。2年前に歩いた時の山の雰囲気に似ています。ということは、そろそろ小鍋峠から来る稜線に近づいて、私が目指す道標も目前にあるはずです。

道を見失いました ちょっと不安になりましたが…
やがて稜線に
うーん、来る、来る。ピピッと道の存在の予感がします。この檜林を東(左)にトラバースするように稜線を目指すと…、杉木立の中に低木が混じり、やや下りになって、ほうら、来るよー、ここでしょう〜?

檜林の中に低木が混じる森林形態は…
ちょっと檜林の中を登り過ぎていたようです。本来の道が下に現れました。さあ、この道を進みましょう。方角としては、檜林をぐるりと左に回って南西に向かっています。

再び道を見つけました
さあ、この辺りへ来ればもう分かりますよー。
あの檜の木の向こうにあるはずですよ〜。
何が、って、私が探しているあれが・・・。
ほら! あった!


「八木山から池代へ〜その弐」へ続く
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