葉

高根山から七曲がり峠へ〜その1
探訪 2007年1月14日   
 
「十四丁」が消えた!?
 正月ボケがなかなか抜けない1月の13日。古道掲示板に某氏から「どうも高根山の十四丁の石がないらしいのですが、知ってますか?」という書き込みがされた。
 なぬっ!? 十四丁の丁石がない!? それは荒れた山の崩落によって埋没してしまったのだろうか。それとも心ないものによる破壊か。いずれにせよ、早急に見に行かねばなるまい。かくて翌1月14日、高根山に行くことにした。ちょうど1週間後に迫った河津−下田駅伝にそなえての体力作りにもなるだろう(いや、歩くだけではトレーニングにはならないな、やっぱり)。

参道の地蔵様
 自宅からはバイクも車も使わず、歩いていくことにした。帰りは寝姿山方面に下ることにしようと思ったからだ。途中にある陥没地の下にあるという坑口の情報を得ているので、それも見てみたいし。

 取り付きは河内の「一丁」の丁石のところだ。日当たりがよい分、剥落などが進んでおり、「一丁」の文字が読めない。傍らのお地蔵様は、「子供の神様」であるという。


       花や果物をあげてあるのが素晴らしい

 遮断機も警報機もない踏み切りを渡ると、正面に大乗経供養塔があり、その右斜め向こうに二丁の丁石が立っている。そして傍らには、登山者のために用意された手作りの竹杖が何本も置いていある。嬉しい心遣いである。



 砂防ダムを越えたところに地蔵様と大日如来石塔がある。ここの向かって右端にある小さなお地蔵様が実に可愛らしい顔をしており、ここに来るたびにまじまじと見てしまう。何か子供がすねたように口を尖らせているような表情をしているのだ。誰が彫ったか分からないが、きっと上手な石工さんが細工を施したのだろう。
 一方、大きな方の地蔵様は、江戸期の女性の墓標であるという。これから山頂にかけて同じ墓標の地蔵様があと4体立っている。しかしここに彼女は埋まっていない。




         真新しい真っ赤なよだれかけが印象的である

道標
 道にはところどころ倒木が覆い被さり、歩きにくい所がある。しかし毎年河内地区の人たちが出て、道の整備をしてる。もし河内地区で道造りをしないなら、もっと荒れていることだろう。



 麓から山頂までの道のりの、ちょうど中間まで来ただろうか。ひときわ大きな石柱が立っている。道標である。


   
 「右 山道」と書いてある方に行くと、蓮台寺駅近くの諏訪に出るらしい。一度そちらに入ったことがあるが、道は消えているように見えた。しかし、今これを書いている1週間前にM木氏が通行可能という報告をkawaさんち掲示板に書いてられるので、きっと行けるのだろう。それは次回の目標だ。

丁石発見! 
 さて、十四丁である。十三丁までは順調に見つけられたので、そこからおよその距離を勘で測って、位置の見当をつけた。その結果、小さな地滑りを迂回している地点の茂みの裏に、十四丁は埋もれていた。薮から掘り起こしたのは、前日探しに来たKAZU氏であるらしい。



推理する
 ところで、麓から続く十四本の丁石は、その大部分が和歌山の漁師や船主によって寄進されて立てられた。港と漁船の名、そして船主の名などが刻んであることからそれが分かる。しかし1本だけ下田の人が寄進者に入っている。市内四丁目にある冷凍食品卸業の日高屋さんだ。
 これにはなかなかの謎があり、そのいきさつを知るのは面白いと思うのだが、いかがだろうか。
 その謎とは、こうだ。丁石のほとんどに書いてある寄進者の名に「比井」という言葉が入っている。
 最初に見た時は何のことだか分からなかったが、そのうち、これが大阪湾の南にある和歌山の港の名であることが分かった。すなわち、高根山の、漁師の守るという言い伝えを信仰する船乗り達がここにお参りをした時に資金を出して丁石を立てたということだろう。
 ではその中になぜ日高屋さんの名があるのだろうか。調べているうちに、面白いことに気がついた。日高屋さんは今、乾物や冷凍食品、そして学校給食用の食品などの卸業をされている。しかしもとは海鮮問屋だったことは明らかである。すなわち漁師や漁船と深い関わりがある。そして、比井の港の東に、何と日高市という街があるのだ。そこに比井と日高屋さんのルーツがあるように感じずにはいられない。ひょっとして日高屋さんが比井の人たちとのつながりから、その近くにある日高の名を店につけたのかもしれない。あるいは、日高の人が下田に移り住んで日高屋を構えたのか…。
 聞くところによると日高屋さんのおばあちゃんは大変に元気で、お店の切り盛りもされているとのこと。しかも歴史がお好きらしい。いつかお店について伺ってみたいものである。

山頂にて
 十五丁の石柱の写真を撮っている時、カウベルの音が聞こえてきた。ハンター犬がいるのかと思ったが、音の主は、私と同年齢ぐらいの男性ハイカーだった。彼は寝姿山から来たと言う。蓮台寺駅に行くにはこの道でよいのか尋ねられたので、その通り、と答えておいた。

 山神様は、お世話をするときの事を考えてか、元の位置から参道脇に降ろされている。以前、正月に来た時には赤い布をくくりつけてあるのを見たことがあるが、今年はしてない。お世話する人もここまでは来られなかったのだろうか。



 光背の欠けた信女のお地蔵様が見えると、道は平になり、まもなく山頂である。おお、お地蔵様に真新しいよだれかかけが掛けてある。



 山頂では、相変わらず十八丁の丁石を見つけることができない。それらしき石柱はお堂の前に倒れているが、違う。他にも塔のパーツなどをいくつか見ることができるのに。十八丁はいったいどこに…。

幻の石丁場はどこに?
 山頂にある地蔵堂には、多くの地蔵様が奉納されている。その半数は、昔、地元の人たちが彫塑教室で作った作品である(知った人の名が刻んであるから、それが分かった)。参拝者記名帳には、元旦から昨日までに多くの人が名を連ねている。さっき会った男性の名はなかったので、実際には記帳されている人数以上にこの山を訪れているのだろう。ある意味すごい。



 三角点のあるところからは富士山が見えるはずだが、この日は見ることができなかった。白浜の海も何となく くぐもって見える。



 ところで、今日ここに来たのは、これまで探せなかったいくつかの「あるもの」を見ることにあった。その一つが、高根山の石丁場だ。
 以前、白浜の学習会で探しに来た時には見つけることができたそうだ。場所は白浜側の山頂直下だという。果たして今回私はそれを見つけることができるだろうか。

 テレビ中継塔のある方から防火線を下り始めると、複数の草刈り機のエンジン音が聞こえてきた。近づくと、5人の若い消防団員が防火線の草を刈っている。地元の安全を守るために休日に働く彼らに、私は敬意を表するものである。

 ロープを伝って降りる途中に、北に延びる水平な踏み跡がある。植林のための歩道かとも思ったが、どこか怪しい。
 そこで、そのうちの1本を選んで入ってみた。



 踏み跡は北に延びている。薮や倒木があるので難儀はするが、歩けなくはない。
 しかし一向に石丁場跡には出ず、とうとう山頂から白浜に下るメインの登山道に出てしまった。ここの登山道に敷かれている方形石を切り出した丁場があるはずなのだ。またチャレンジしよう(おいおい、帰るのか…)。


       白浜側の参道に敷かれた方形石

トロ線跡かはたまた…
 麓からは、丁場から切り出した石を寝姿山方面に運ぶためのトロッコ線路が敷かれていたという。それを物語るように、高根山から寝姿山方面へと、かなりの長い距離にほぼ水平の道が続いている。ただし、白浜の学習会の仲間からは「トロ線があった。」と聞いたが、郷土史家のT橋氏は「トロ線はなかった。」と仰っている。当時の写真が資料として出ていないので、はっきりしたことが分からないというのが何とももどかしい。


        水平道が寝姿山の方にずっと延びている

謎の物体発見
 諏訪との分岐を過ぎ、しばらく歩くと、落ち込むようにして沢の源流を渡る地点がある。その傍らに作業後屋があるのだが、中におやっ?と思うような物があった。



木ぞりである。

         ソリは外から見える          傍らには背負子もある

 長さは2m、幅は50cmほどある。古いが、それほど朽ちてはいない。
 このソリは、何を運ぶのに使われたのだろう。かつて仁科の山間部では、林業のためにソリ道を敷き、切り出した木を木ぞりに載せて運び出したという。もしかして高根山のここでもソリが使われていたのだろうか。そしてもしかしてここにあったのは、トロッコの線路ではなくてソリ道だったのでは?

 ところで、ここの沢であるが、道を横切るようにして、パイプが露出している。何に使われたパイプなのだろう。
 沢はこの日は枯れていたが、だいぶ地面を削っている。まるでそこに坑口とトロ道があったかのようだ。怪しい。限りなく怪しい。そして、間もなく私はここに鉱山の一部を目の当たりにすることになる!


        沢の付近に打ち捨てられているパイプ

あ、高根鉱山から、なんて書いておきながら、ちっとも鉱山なんか出てこなかったね。ごめんなさい。次号を待ってて!

                「高根山から七曲がり峠〜その2」へつづく
                                             
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