葉

白浜から東浦路を歩く〜前編
探索2005年4月30日   
 
 実は「下田街道」というのは、三島−下田間の天城越えルートだけではありません。伊東−下田間をつなぐ海沿いの道も下田街道と呼ばれることがあるのです。しかしここではそちらを「東浦路」と呼ぶことにします。それはもちろん天城越えルートと区別するためと、現在は東海岸沿いの道は主として「東浦路」と書物の中などで呼ばれているからです。 

 今回は、白浜在住の強〜い味方、磯崎さんのお誘いを受け、白浜から東浦路をたどって縄地に上がり、縄地金山の跡を探索しようということになりました。その道は、私がいつか行きたいと思っていた道。白浜の勉強会の先輩、佐々木氏はかつてこの道を探索され、砂防ダムで行く手を阻まれるものの、石畳が敷かれているのを確認したとのことです。今回は自分がその道をたどるのです。いよいよか…と、胸がはやります。

 取り付きは、白浜の板戸にあるバスの回し場です。近くに日蓮上人の新しい石像が立っており、立正安国寺の入り口にもなっています。このバスの回し場はかつて鉱石置き場となっていたことがあるそうです。今から登っていく東浦路を、縄地金山、あるいは白浜鉱山から出た鉱石が運ばれてきて、ここで一時貯蔵したとのことです。

 交通量の多い国道135号線を慎重に横断し、魚屋の脇を細い道に入っていきます。こここそが、吉田松陰も松平定信も歩いた東浦路なのです。


      ここは魚屋さんの店先でしょうか 干物を作っていました

 入るとすぐ左手に、新しめの石祠があります。これが板戸のサイの神です。古い人形が供えてあるのは、下田のサイの神の共通点ですね。かつてこの辺にサイの神があると新聞で読み、ひと時代新しい旧国道の方を必死で探したことがあります。でも古い道とはこちらの方だったんですね〜(恥)。


    板戸のサイの神です 古い手作り人形が供えてありました

 さて、国道から入ったばかりの辺りは民家があり、路面もしっかりしていますが、50mほどいくと最後の家の前で道は薮に包まれ、これ以上進めないような様相を呈することになります。右手にはセメントの基礎があって、かつてここに、坑道に空気を送るコンプレッサーを置いた建物があったということです。

          坑道に空気を送っていたポンプ小屋の基礎とのことです

 磯崎さんはかつてここを入って鉱山長屋をかすめ、峠まで行ったことがあるそうで、どんどん奥へ入っていきます。じきに左手のちょっと高いところに3つの石柱があるのが目に入ります。大正と昭和前期に立てられた大日如来石塔です。その奥、足元に穴を埋めたような跡があります。ここに送風管が入り、坑道に空気を送っていたそうなのです。つまり、ここが坑口だったというわけです。


      高さ40cmほどの石柱群 大日如来石塔のようです 近くに、埋もれた坑口跡があります


          こ、この薮をくぐって行くんですか?!

 アケビなどのつるを手でかき分け、どんどん奥に進みます。するといったん視界が開け、放置された古い車や檜林になった山田の跡などのある地点に達します。

 この辺りまで来ると、(なんだ、結構歩けるな。)という思いがしてきます。いえ、これも磯崎さんのお陰。これからどんな道が続いているのでしょう。

 現在歩いているのは、谷の深部です。左右は切り立った山肌。やがて行く手に砂防ダムが立ちはだかりました。が、そこは磯崎さんの案内により、沢の右岸を越えて、らくらくパス。といっても、野バラのとげに手足をかじられ、痛いの何の。古道を歩く楽しみには付きものの傷みです。でも、それも古道を歩く実感になるんですよね。変かな?


      東浦路に立ちはだかる砂防ダム 役に立っているんでしょうか


 ここで、磯さんは沢を左岸に渡ります。その足先には、不思議なことに、コンクリートの堤防が作られています。どうやら治水工事によって作られた模様です。かつて白浜が簡易水道を引いていた時代には、この辺りまで、地元の人たちが道の管理のために道具を持って来ていたそうです。



 と、ここで何気なく空を仰ぎますと、右手にぽっかり空いた穴が目に入りました。よく見ますと、坑口のようです。入り口はきっちり塞がれ、その手前に蜂の巣箱が置かれています。ここからもトロッコの線路が海岸まで延びていたのでしょうか。夢はふくらみます。


      ここからトロッコの線路は出ていたのでしょうか

 さあ、ここで今回の最初の見どころ、東浦路の石畳を紹介してもらいました。積もった土を足でどけてみると、おお、確かにこれは敷き詰められた石畳のようです。ここは沢筋にごくちかいので、水によって道が削られるのを防いだか、足場を確かにするためかに敷かれたのでしょう。 どうですか、きちんと平らな石が敷き詰められているでしょう?



 ところで、ここで珍しい物を見つけました。トロッコの枕木でも落ちてないかな、と下を向いて探している時、木片に取り付けられたボルトを見つけたのです。

  
   こ、これはトロッコの枕木? 犬釘らしき鉄材が木に打ち付けられています

 これは、もしかしたら古い電柱なのかもしれません。残念ながらトロッコの枕木は見つかりませんでしたが、これはこれで、ここが昔の電柱が通っていた主要道であることを示す遺品です。婆娑羅の馬車道峠にある電柱跡と同じですね。

       こ、これは古い電柱を切り倒した跡 婆娑羅の馬車道峠にあるそれと同じです


       これは今でも歩ける古道です いい雰囲気!

 さあ、歩を進めましょう。途中で、上を走る旧道と接続する工事道があったり、放置されたようなみかん畑が左に見えたりします。やがて、磯さんの歩が早まったかと思うと、そこにはひどい竹藪が出現。さすがにここは行けませんね…、と思っていると、磯さんはここを越えたことがあるとのこと。もはや超人と呼ぶしかありますまい。


       こ、これはひどい… ここを越えるのは至難の業でしょう


 さて、以前磯さんはここから半ば強引に旧国道に登ったそうですが、かすかに右に階段のような跡が見えます。もしかしてそちらが峠への道ではないでしょうか。試しに行ってみることにしました。すでに左手には、鉱山長屋が薮の中に茶色く錆びたトタン屋根を覗かせているのでした。


      鉱山住宅から登ってくると思われる石段です


     ここではかつて坑夫さんたちの家族の歓声が響いていたのでしょう

 そうしたら、あれれ? 白浜方面から登ってくるような道もかすかに見て取れます。どうやらこの地点は、白浜から峠に至る道と、鉱山長屋から峠に直登する道が合流しているところのようです。

 じきに道は旧道の上の竹藪に突き当たります。「旧道に下りましょうよぉ。」と促す私に、「いえ、ここは行けるはずですから。」と信念を持って竹藪をかき分けて進む磯崎さん。完全に古道マニアと化しています。いえ、鉱山マニアですね。この先の縄地金山跡が、彼を熱心にいざなうんでしょうね。


 薮をひいひいいいながら越えますと、おお、そこは縄地の峠でした。石柱や地蔵様など、いくつかの石造物が並んでいます。その数、十一体。こ、これは、かつて伊豆新聞で連載していた『東浦路を行く』で紹介されていたお寺の跡ではありませんか!? こんな所にあったんですね…。 感激! ここは新聞で読んでから、どこにあるんだろうと、ずっと探していたんです。旧道からかなり高いところにあったんですね。道路から探しても気づかない訳です。謎は解けた! 今回誘って案内してくれた磯崎さんに大感謝です。


   縄地峠の石造物群です。 お寺がここにあったようですね


               歓喜のうちに後編へ続く
                                             
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