葉

戦線鉱業仁科鉱山の跡を訪ねる〜その4
探索 2006年11月4日   
 
 磯崎氏とKAZU氏との2度の探索を終えた私は、トロ線跡の一番奥にある発電所跡から白川林道へのルートが気になっていた。インクライン山頂駅から発電所までの水平軌道跡の様子は分かった。ではそこから線路はスイッチバックしてどのように戦線工業事務所のあった広場までつながっていたのだろうか。知りたかったのは、その点である。

発電所跡への道
 11月4日(土)午前10時過ぎ。歯医者にかかって遅れた私は、一人で慰霊塔広場に降り立った。既に7時頃に十郎左ェ門と長九郎山を登るべく出発した後藤氏一行とKAZU氏の車が停まっている。私は午後2時にここに戻り、氏と合流する予定でいる。
 さあ、ここから赤沢林道に入って、発電所跡までのルートを探ろう。今日は発電所跡の対岸にも渡ってみよう。何か新しい発見があることを期待して。



 林道は、朝の木漏れ日によって暖かい雰囲気を醸し出していた。
 山神社の前を通り過ぎ、しばらく行くと、左手に石積みが見える。何かの建物があった所だろう。その右手には、八瀬橋(やせはし)がかかっていて、歩く者を対岸に導いている。





 八瀬橋を渡らず、手前の石垣をよじ登ると、目の前に廃道のようになった幅2mほどの道が出現した。



 その道は左手に下っている。やがてそれは今私が来た赤沢林道に合流するのだろう。(しかしそんな合流点には気づかなかった。おかしいな…)


  廃道は赤沢林道に合流するような形で傾斜をもって下っている

 一方、石垣から東を見ると、そちらにも左手北側の斜面を登る幅2mほどの道が見られる。T橋先生のスライドにあったインクライン跡を探しにこの地に入ったとしたら、目を皿のようにしてこの山の南斜面を見回したことだろう。

 やがて道は先に歩いた水平トロ軌道跡と同様の幅を保ちながら、こうした切り通しを通過しつつ、私を奥へと導いていく。



こうした立派な石垣をもって道は作られている。



左手斜面には、U字型をした溝がいくつか直下している様子が見られる。初めて私がここを歩いたとしたら、きっとこれをインクラインの跡と信じて疑わなかったであろう。


  傾斜度40度ぐらいの山の斜面を真っ直ぐ見上げたところ


  この残った岩塊も、かつては人々の行き来を見つめていたのだろう

謎のコンクリートボックス
 汗をかきかきかき登ること40分。左手に異様な光景を目にした。そそり立つ岩壁を背にして、コンクリート製の直方体が立っている。



 これは一体何なのだろう。トイレか? 通信室? それとも脱走しようとした人たちの独房? いずれにせよ鉱山時代の遺構には違いないと思う。



対岸にはまたしても石垣が見え隠れしている。何か所かこうした石垣が見られた。



 登ること1時間。途中に崩れた箇所もいくつかあったが、やはり戦線工業事務所から発電所跡まで、一定の幅を持つ道がつながっていた。



 そして今回は発電所跡から対岸の石垣に渡ってみることにした。そこには何があるのだろう。



対岸を探索する
 いったん沢に降りてから、登りやすそうな地点を見つけて対岸に渡った。あるいは鉱山稼働期には橋が架けられていたのかもしれない。そして対岸には広範囲に渡って石垣が点在し、段々になった水平な広場が存在していた。



そしてそれらにはズリと思われる石塊が無数に転がっていた。



 この辺りは、今でこそ杉林となっているが、明礬石の露天掘りをした跡であろう。インクライン山頂駅から続くトロ線の最深部に採掘場所があったのだ。ここから労働者の苦役によって思い鉱石がトコッロに載せられ、インクラインに運ばれていったのだろう。急な勾配を、人力に頼って運搬、集積していたのだろうか…。
 この時、背後にある岩壁を捜してみれば、後述するアレを見つけることができたのだが…。それはこの探索記の最終章(未アップだが)をご覧いただきたい。

 さて、既にKAZU氏は単独でこの奥の高い部分を探索されている。そこで氏が見つけたあるものがこの戦線工業仁科鉱山の全体像を示す鍵となるのだが、その様子は次のアップに譲る。今日の探索において、私一人の眼力ではそれらを見つけることは叶わなかったからだ。

 さて、ズリの落ちている広場から、西に道がついている。何か見つかるかもしれないと思って歩いてみたが、林業の作業道のようでもあり、10分ほど歩いて尾根筋に達したところで引き返してきた。



 石垣とズリ、炭焼き窯跡以外には特に遺構を見つけることができなかったので、発電所跡のある側の岸に戻った。対岸に何かあるはずだという臭いはプンプンしているのだが…。(しかしこの一帯が採掘場所であろう事に目星がついたことが、実は大きな収穫であった。もっとも、それは後日磯氏とKAZU氏と共に再びここを訪れた時に明白になったのであるが…)

 一人昼食を摂りながら何気なく辺りを見回してみると、当時のものなのかどうなのか、香を焚くような瀬戸物のかけらが落ちていた。



 さて、正午を回り、そろそろ戻らないと午後2時に間に合わない。またしても懐中電灯を置いてきてしまった失敗を繰り返した私は、車のキーに付いている、キー穴を探すための小さなLEDを頼りに、4つの隧道をくぐって山頂駅へ向かうことにした。帰路は、山頂駅から尾根を下るつもりだったのだ。

 第4号〜3号の隧道は、灯り無しでも歩くことができた。が、最長を誇る第1号隧道だけは崩落地点を灯り無しで歩き通すのは難しかった。しかも頭上では何やら「チチチッ!」とつぶやく声がするし、その上パタパタッ!という音がするに至っては、その音の主がコウモリと分かっていても鬢の毛が逆立つ思いがした。

山頂駅での邂逅
 今回の強い味方は、一脚である。カメラにつける一本足の杖みたいな棒。これを使って撮影すると、ぶれる率が格段に減る。暗い森の中で撮影をするには大変よい。
 それを使って、山頂駅の遺構を撮影していると、何やら複数の男性の声がする。おやおや、私みたいに探索をしている人がいるんだ、と思って「こんにちは〜」と挨拶しながらプラットフォームの下から這い上がると…、そこにはたった今十郎左ェ門から下山してきた後藤様ご一行が、にこやかな笑顔を湛えて私を迎えてくれた。





 後藤様と固い握手を交わして再会を喜び合う。と、氏はせっかくだから4つのトンネルをくぐってみたい、と仰る。ここから直に下らないと予定の到着時刻を回ってしまうが(事実、慰霊碑広場で待つKAZU様にはこの後50分間の待ちぼうけを食わしてしまうことになった)、リクエストにお答えしてご一緒することにした。

 「ヘッドランプも持っていますよ」、と言うご一行。たった今、車のキーに付けたLEDでここをくぐってきたことは、とても恥ずかしくて言えなかった…。





そして謎の一つが明らかに
 例のコンクリート製のボックスも見てもらった。トレイか、独房か…、と問う私を含め、4人で考えを巡らす。岩壁をくりぬいて嵌め込むようにして作ってある状況、穴を開けた跡のない固い床、これまたコンクリート製の壁で区切られた小さな3つの部屋、波板トタンのひさしがついていた跡などを見て、私たちが下した判断はこれだった。

 すなわち、雨に濡れてはよくなくて周囲から守られる必要があった施設、しかもそれは他の建物から離れたところに作る必要もある…、ということになると、それは独房ではなく、通信施設でもなく、ましてトイレではない。



それは、「火薬庫」である。トロ線の隧道を作る時に使う発破を入れてあったのだろうか。

 午後2時50分、慰霊塔広場に着くと、そこには待ちぼうけを食わされたKAZU氏が私たちを待っていた。氏は十郎左ェ門を下山途中に後藤氏一行と別れ、先にM氏が見つけた坑口の周囲を探索してきたと言う。そして、かなりの収穫があったと話してくれた。それこそがここ戦線工業仁科鉱山のほぼ全貌を突き止める最後の探索だったのだ。

 今回の単独探索では、鉱山事務所跡から発電所跡まで、トロ軌道またはトラック車道かのどちらかの可能性を残した廃道を確認した。いや、今日登山者が通ったのだから、廃道ではない。60年前に鉱山労働者達の足音を聞いていた道は、今なおこうして私たちを奥山へと導き、鉱山の残像を見せてくれるのだ。その道を通っていたのは何だったのか。そして動力は…?
次回、仁科鉱山探索記最終章、「いよいよ仁科鉱山の全貌が明らかに!」で、その詳細をお伝えする。


   慰霊塔広場に戻ってくると、誰が供えたのか、塔の前には花が添えられていた



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