葉

戦線鉱業仁科鉱山の跡を訪ねる 〜最終章
探索 2006年11月18日   
Special thanks for Mr. Isozaki and Mr. KAZU !
 
いくつかの疑問点
 これまで3度の探索をして、仁科鉱山のおおよその姿が見えてきた。逆に、浮かんできた疑問点もいくつかある。それを整理してみよう。

1 インクライン山頂駅から発電所跡までの水平軌道(トロッコ線路)は何を運搬していたのか。
2 トロッコが運搬していたのが鉱石だとすると、どこで採掘していたのか。
3 発電所跡とは言っているが、本当はどんな施設があったのか。
4 発電所跡から赤沢林道を経て事務所(慰霊碑広場)までのルートでは、どんな輸送手段が稼働していたのか。
5 なぜ鉱石を発電所跡からの林道を使わずにわざわざトロ線で山頂駅に運び、インクラインを使って麓に降ろしていたのか。
6 戦線工業仁科鉱山の鉱区はどれくらいの規模があったのか。

 トロ線が敷設されるということは、それだけ恒常的にかなりの量の鉱石を運ぶ必要があったと言うことである。ではその鉱石はどこで採掘していたのだろうか。
 実は、発電所跡の対岸には石垣を組んで広場を作ってあり、その上にも幾重かの石積みの広い場所がある。そして、今は苔むしているが、ズリ(鉱石のかけらや品位の低い鉱石)が無数に落ちているのだ。これが上記の疑問のいくつかを説くカギになっている。

 11月18日午前8時05分。磯崎氏とKAZU氏、そして私の探索隊メンバーが再び集結し、慰霊碑広場に降り立った。ここから赤沢林道を一路、発電所跡を目指して歩くのだ。そして今日はその先にある山岳地帯を彷徨い、鉱石の採掘場所を特定し、仁科鉱山の全貌に迫るのだ。

 KAZU氏は今日の探索に先立って坑口の位置をある程度地図と記憶にポイントしている。私たちは磯崎氏の準備した資料と照らし合わせながら現地の鉱区を見極める。それが今回の最終目的だ。

慰霊塔広場には鉱山事務所の基礎が残っている。傍らにそびえるケヤキの木はとうに樹齢60年を越えているだろう。ケヤキは60年前、この広場で何を見ていたのであろうか。



うっすらと残る掘削跡
 赤沢林道に入り、山神を過ぎると、間もなく石垣と発電所跡への分岐がある。その手前に、山肌にうっすら掘削跡が残っている。KAZU氏の解説によると、もともとあった発電所跡への林道が後に赤川林道を作る時に削られた時の跡である、と言うことだ。



 赤沢林道から離れ、2mほどの登り道を歩く。先頭を行く磯氏の足はいつもより速い。



 いくつかある崩落場所に緊張しながらも、ずんずん標高を上げていく。火薬庫跡の近くにはかなりの規模の石垣があり、それは対岸にも見られる。と、KAZU氏が足元にコンクリート製の橋梁の跡を見つけた。こちらの道から対岸の石垣まで、橋が掛けられていたのだ。
 それは、火薬庫跡から発電所跡までにかけて、対岸との往復をする必要があったことを意味する。何かを運搬していたのだろう。その一つが鉱石であったことは、もはや想像に難くない。





 発電所跡に到着した。導水管の名残を探して上流に登ってみる。が、かなりの急斜面が行く手を阻み、導水管の可能性を否定する。



発電所跡に残るコンクリート製の柱が、何だか墓標のように見えてきた。



対岸で見たものは
 次いで、対岸に渡り、沢の遡上を試みた。すぐに半ば人工的なオーバーハングの窪みを認めたが、それの目的は不明である。また、対岸から発電所跡の上部に至ることも地形からして無理なことが判明した。ここでひとまず発電所跡の探索は区切りをつけ、鉱区の範囲を調べることにした。



 おそらく露天掘りの跡であろう。石垣を組んだ洞穴がある。



発電所跡の上部、すなわち奥の方は、このように急な斜面がそびえている。これは導水管の存在をほとんど想起させない。



 対岸の広場からは、木立に隠れて発電所跡と思われるコンクリート製の基礎は見えにくい。
 沢を背にして、改めて石垣の組まれた広場を見る。川岸から1段、2段と、山肌を平らに削ってある。そして転がる無数のズリ。こうした様子は、鉱石を掘りだした跡に見られる特徴である。遙か見上げると、目前には私たちの行く手を遮るかのようにしてそそり立つ岩壁がある。とにかく急な斜面を登り、岩壁の取り付きまで行ってみる。



気づかなかった坑口
 細かなズリというか鉱末とでもいうか、そうした土砂が岩壁から剥がれ落ちて堆積したようになっている。KAZU氏が指さす方を磯崎氏がよじ登る。どうやら氏の鉱山レーダーが反応したようだ。後を追う私。土砂の一番上まで到達した私たちの目に前にあるのは、まさに坑口であった。
 



  坑道に潜入を試みる磯崎氏 後に続け〜

 この坑口には、前回私が一人で来た時は気づかなかった。まだ詰めが甘いな、私。レーダーももっと感度をよくしないと…。

 坑道を覗くと、湿った独特の臭気が鼻を突く。底には白く湿り気を帯びた鉱末が堆積していて、足で踏むとふわふわしていた。その奥には落盤の跡があり、黒化した支保坑が幾重にも重なっている。当時はどのくらいの奥行きがあったのだろう。







 どうも最奥部は進入できないようなので、画像を撮って坑口から降り、水平道を奥へ進むことにした。
 少し行ったところで、KAZU氏が斜面の直登を始めた。一つ上の水平道を目指すのだ。山の北斜面にあり、照度が低いので、カメラがブレないようにするのに気を遣う。



 15mほど登って一段上の水平道に入り、西進する。土石流の爪痕が生々しい沢の向こうに、小さな坑口がぽっかりと黒い口を開けているのが目に入った。



坑口は土砂で半ば埋もれており、それは坑道内部にも入り込んでいた。奥行きは7mほどであろうか、試掘の跡のようである。



ここにもトロ線の存在が?
 さらに西進する3人。と、次の沢を渡る時に、石垣があった。緩やかなアールを描いて沢のこちら側と向こう側をショートカットする形でを繋いでいたようだ。石垣だけのアーチ橋だったのだろうか、それとも木製の橋脚を支えていたのだろうか。これほどの石垣を組むからには、相当の橋を架けていたのだろう。人が通行する以外に、やはりトロッコが通っていたと推測するに十分の規模である。ここにもトロ線はあったのだ、きっと!



追補〜レール発見!
 ここで一つ、重大な事実をお伝えする。
 この探索の3か月後、他のメンバーと十郎左ェ門および長九郎山に登った際、帰りにここ仁科鉱山跡を訪ねた。その時、ぼんやりと道案内をしていた私に、背後かららいおんさんが声をかけた。

「○○○があるよ!」

「あー、○○○はありません。」

「いや、あるって。ここに。」

「えええっ!? 今、○○○って、『レール』って言った?」

「そうだよ、あるよ。」

「うっそー!!!」

バビューン! と私が斜面を駆け上って確かめに行ったのは、言うまでもない。すると、あったのだ。そこに。確かにレールが。



荻乗さんの右手によって、レールはしっかり握られていた。それは、ズリの中からにょっきり生えた角のようであった。長さは約3mほど。地中には残りがどのくらい埋まっているのだろう。きっと、廃山処理の時にズリ山と一緒に無造作に崩されたのだろう。しかしこれは大発見であった。やはりトロッコで鉱石を運搬したのだ。らいおんさんに感謝、感謝である。



 話を元に戻そう。やがて水平道は尾根筋へと突き当たった。ここに縦坑のような陥没部があった。いったいこれは…? やはり試掘跡なのだろうか。



「こから先に進んでも沢に突き当たってから登ることになるので、直登しましょう。」というKAZU氏の言葉に促され、尾根をよじ登る。2本の足で土を踏みしめ、2本の手で木の幹をつかんで這い上がる。かなりきつい。KAZU氏は先に一人でこの地を探索したのだ。まさに驚くしかない。

(いつまでこの登りが続くのか〜)と弱音を吐きそうになった頃、ようやく踏み跡の傾斜が緩やかになり、視界が一気に開けた。

そうやって、私たちは長九郎林道に到達した。



林道からは、長九郎はもちろん、猿山などの山々も一望することができ、西伊豆の山懐の深さを感じた。

下降開始せよ!
 さて、林道を歩くこと十数分。唯一とも言えるカーブミラーのある地点から、下降を開始した。
KAZU氏は当たり前のように降りていく。しかし、ここは崖か、と思われる急斜面である。
 ではなぜカーブミラーのある地点なのか。それは、3週間前、M氏は十郎左ェ門の帰路にここを降下して坑道を発見したからだ。恐るべし、イノシシ隊…。



標高を下げること十mほど。下降時間4,5分で、今日3つ目の坑口に達した。



内部には割れた茶色いガラスびんが落ちており、侵入するものの足を傷つけようと罠を張っていた。いったい誰の仕業なのだろう。



デジカメのフラッシュを発光させて撮影した画像がこれである。坑道のやや右に見えるのが、割れたガラス瓶。要注意である。



 次いで、再び数m標高を下げる。KAZU氏の瞳の先には、4つめの坑口があった。

 こちらはKAZU氏が独自に見つけた坑口である。

「どうやら露頭を見つけては試掘をしたようですね。」

と氏は宣う。そう、山肌から岩が剥き出しになっているところを掘って地質調査をしたようだ。いずれも坑道の深さが7mほどでとまっているのは、鉱床の地層を調べたのだろうということだ。

 下がその坑口である。



この坑道の奥行きも7m程度であるが、何と中に坑道の守り神のようにして1匹のコウモリがぶら下がっていた。



 4つ目の坑口からしばらく下ると、水平道があった。ここが長九郎林道に最も近い、最上部の水平筋のようだ。

西進するKAZU氏の後を追う磯崎氏と私。と、磯氏が「こんなところに(坑口が)あるような感じがするんですよね〜。」と、いいありげな事を言う。見ると、足元にズリがいくつも落ちているではないか。しかし坑口は見えない。

が、忘れてはならない。

「ズリあるところに坑口あり」

 ふと見ると、左の斜面の上が怪しい。珍しく私の坑口レーダーが反応した。先を行く磯崎氏とKAZU氏を放っておいて、7mほど斜面をよじ登った。するとそこにあったものは…、
 


・・・・・ここにはもしかして…、もう少し上へ!



こ、坑口だ〜っ!



そこにあったのは、紛れもない本日5つめの坑口であった。
声を張り上げて仲間を呼ぶ私。引き返してきた2人と共に、内部を確認した。

やはり奥行きは7mほどだ。ここで一つ、まとめをしよう。坑口発見のキーワードは、「ズリ」と「露頭」である。



次いで、KAZU氏の引率により、西に50mほど歩いたところで、このような高所にある坑口を見つけた。崖の上部、画像中央に黒く写った坑口が見えるだろうか。



 これは高い! ほぼ直立する山肌を直登する術はない。どうやら左右から登って回り込み、坑口の上から下降するしか進入する手立てはないようである。

 朽ちた枯れ木をつかまないように注意しながらよじ登る。その最中、坑口は見えなくなるので、仲間に指示してもらいながら、まずKAZU氏が先に進入。私も続くが、これほど高所で怖さを感じたことは久しぶりであった。いったい試掘した人はどういう足場を組んでここを掘ったのだろう!?

 内部は奥に10mほど掘ってあった。見事に支保坑が残っている。しかしこの坑道はうっかりしていると入り口から転落してしまうぞ。試掘者に何か成果はあったのだろうか。



 坑道の画像を撮り、這々の体で降りてきた。ああ、恐かった。
 この坑道を見つけた水平筋の奥には、コンクリート製のブロックが2つ落ちていた。しかし新し目のブロックである。観察した3人の結論は、おそらく近年になって上の林道から捨てられたものであろうとまとまった。 時刻は午前11時50分。一息入れつつ、水平筋で昼食をとりながら午後の作戦を練る私たちであった。


 午後12時20分、行動再開。都合6つの坑口を見て心もお腹いっぱいになった私たちは、発電所跡に戻った。磯崎氏の持参した資料と併せて、かなりの範囲に鉱区が存在したこと(あるいは鉱区を広げようとしていたこと)を突き止めることができたのだ。


  水平筋間の移動にはやはりこのような急下降が必要だ

 実は磯崎氏の資料によると、発電所跡の上部(北側)にも上鉱(質のよい鉱石)が分布していたとある。
 そこで発電所跡の奥の石垣を上り詰めてみることにした。行ってみると、下から見上げたのでは分からない石垣が、そこにはあった。





 しかし坑口はおろか、掘削や露天堀りの跡も、ズリも見られなかった。あるいは探した地点がまだ鉱区に達していなかったのだろうか。掘削前に終戦を迎えた可能性もある。この点は、さらなる資料との照合が求められるところである。

 結局、この発電所跡の石垣広場は、発電施設があったことは確定しなかった。むしろ、鉱石の集積場所だったのかもしれない。そしてコンクリートの基礎に載せられていたのは、ホッパーやベルトコンベアーの設備だったのかと思われた。

意外な真実
 探索を終えて帰路につく私たち。数日に渡る探索中で最も強い感動を覚えた4つの隧道をくぐって帰ろう、と意見が一致した。
 今回は、歩幅を数えながら歩いた。KAZU氏はGPSのデータを持っているが、GPSはやや大きめの値を表示するらしいのだ。

 トンネルを越え、もうすぐインクライン山頂駅に到着、というところで、「おーい。」という声が聞こえてきた。

 ん? 私たちと同じ探索者が? と思っているとその声は徐々に近づいてきた。「おーい。」と返事をした私たちの前に現れたのは、オレンジ色のジャケットを着たハンターであった。

「おや、あんたら、こんな所で何しているんだい? え、山歩き。よくこんな所を知っているなあ。そうか、下にあった赤い車は、あんた達のかい。」
「いやあ、(猟)犬がいなくなっちゃってさ。あんたら、見なかったかい? おーい!」
「ああ、この先にトンネルがあることは知っているよ。え、その先の建物の跡? いや、それは何があったか知らないなあ。」
「当時、ここへ来たかって? いや、来なかったよ。ほら、軍がからんでいただろう? 簡単には入れなかったよ。だから当時の詳しい様子は分からないな。」

が、70歳手前かと思われる面長の白髪ハンターおじさんの言葉により、新たな証言が得られた。

「坑口かい? 穴なら、ほら、向かいの山にいくつもあるよ。慰霊碑の後ろの山さ。」

えっ、慰霊塔広場の裏山に坑口がいくつもある? そうなのか…。そして、

「トンネルの先の行き止まりから林道へ下る道? ああ、そこにもトロッコの線路があったよ。」

えっ、トロッコの線路があった! やっぱり!



 ああ、やはりそうだったのだ。動力源はともかく、あの発電所跡から赤沢林道に通じる幅2mほどの道は、トロ軌道跡だったのだ。
 
 トロッコは、人が曳いたか牛馬が曳いたか…。しかし鉱石の搬出に供するには、空貨車といっても帰りの登りを引き上げるのは大変だっただろう。だからインクラインが建設されたのだろう。詳細は分からないが、地元の人から聞くことのできた、重要な言葉であった。

「この辺はいつも(犬を連れて)来ているからさ、いなくなっても、一匹で車まで戻ってくるだよ。」

というハンターおじさんと共に山を下りた。

後に磯崎氏が国会図書館まで行って入手してきた資料を拝見したが、それによると、発電所跡の上部にあるのが「伊豆仁科鉱山一号鉱床」で、その対岸に認められた坑道群が「伊豆仁科鉱山新一号鉱床」と呼ばれていたことが分かった。)


残る探索地は
 山を下りると、先にほいほいと慣れた足で降りていたハンターおじさんは、2人の仲間と共に、3人で林道の分岐広場にいた。2台の車はゲートを越えて赤沢林道の橋を渡って停まっていた。
 KAZU氏の見立てによると、この林道分岐広場は、鉱石の一時集積所だったのではないか、との事である。鉱区から降ろした鉱石の一部(もちろんそれらはズリだろうが)で沢を埋め立てて拡張したのだろう。確かにに白い肌を見せたズリが転がっているのが見える。

 KAZU氏は、「一人のハンターにある事柄を尋ねたが、知らないと言うことだった。」と話した。

 その事柄とは…。
 最後にこの地の最終探索について触れたい。

 263人が強制連行された中国の人々。途中での物故者を含めて、そのうち83人の人たちが過酷な労働と栄養不足によって命を落とした。その亡くなった人たちの埋葬場所を特定したい、というのが、氏の願いなのだ。

 資料によっておよその場所は分かる。が、地元のハンターでさえ、それは知らない。となると、略地図を頼りに自分たちの足で探すしかない。

 慰霊塔を跡にし、仁科方面に下る。道の北側にそれらしき場所を探していると、林道から細い道が分岐しているのが見えた。

 路肩に車を寄せ、徒歩で分かれ道に入り、場所の特定を試みる3人。分岐した未舗装林道は、炭焼き小屋をもって人が一人歩けるほどの細い山道に姿を変えた。



 そこから杉林の中に入り、アップダウンを繰り返してそれらしい場所を探すKAZU氏。私が暗い森の雰囲気に気圧されて、半ば探索の意欲を失っていた。だってあまりいい気持ちがしなかったんだもん。
 が、KAZU氏の執念は私の思いより強かった。暗い森を彷徨うこと20分間。KAZU氏の眼力によって、遂に中国人宿舎跡と、その近くにある埋葬場所を、99%特定することができた。

 その地はかつては石組みの平地であったことが分かるが、今は昼なお暗い杉林となっていた。中国の人たちの血と汗と涙の染み込んだ土の養分を吸って成長した杉は、異様にすっくと高く立ち並んでいた。


  これは上から奥に位置する歩道から見下ろしたところ。 画像左手前に、元埋葬場所がある

 気がつけば、宿舎跡から炭焼き小屋まで、しっかりした山道が一つの木橋で枯れ沢を越えてつながっている。だから現在でも炭焼き小屋から宿舎まで、直に歩いていくことができる。

 重苦しい場所の雰囲気に胸がいっぱいになり、帰路につく3人。しかし数回に及ぶ探索を終えて、疲れてはいるがやり終えた充足感で心は満たされていた。

 車が走り出してすぐの所に、朝鮮から来た労働者たちが住んだ宿舎跡の石垣がいくつも見られた。この一帯に、当時は2千人からの人々が住み、働いていたというのだから、驚く他はない。 このほかにも何カ所か宿舎跡を撮影したのだが、なぜか一脚を用いて撮影してもブレた写真ばかりだった。


 当時の宿舎を支えていた石垣 ここにはどんな建物があり、どんな人たちが住んでいたのだろう

エピローグ
 以上をもって、戦線鉱業仁科鉱山の探索に一区切りつけることにする。

 巨大なインクライン、山頂駅から赤川林道入り口(一時鉱石集積地)までのスイッチバックしたトコッロ線路、最奥部の謎の施設、そしてその奥に展開する広大な採鉱区…。それは、アルミニウムの輸入が叶わなくなった戦中の日本が何とかしてアルミ生産を自国で可能にしようとする余り、戦争という狂気の時代にあって隣国に多大な迷惑を掛けた汚点の一つであった。

 しかし本格的な採鉱を始める前に、戦争は終末を迎えてしまった。インクラインも試掘坑道群も、十分な役割を果たさぬまま、その機能を止めたのではないだろうか。

 じっとして動かぬ慰霊碑の坑夫が見つめる先にあるのは、八紘一宇の合言葉の元、軍人や会社によって翻弄、いや蹂躙された中国の人たちが送り込まれた欲望の地の残映だったのだ。

 この探索で私には、たとえ坑口を見つけても喜ぶことのできない重い気持ちがいつもつきまとっていた。これから先、少しでもこの事実が後世の人々に語り継がれ、私たちが二度と過ちを繰り返さない決意を固めることを誓いたい。

 記録の最後に加えたいと思う。ここまで私を導いてくれた磯崎氏とKAZU氏に、感謝の気持ちを。両名がいなかったら、ここまで探索することはできなかっただろう。

           改めて Special thanks for Mr. Isozaki and Mr. KAZU !



強制連行された朝鮮や中国の人たち〜追記2009年3月1日
 後に資料を探すと、戦時中にたくさんの朝鮮と中国の人たちが日本に連行され過酷な労働に従事させられたことを示す記録が何点か見つかった。ただし、資料によって記載されている人数に違いがあるように思う。戦時中のことゆえ、正確な記録を残すことができなかったのだろうか。

強制連行中国人とその就労先(図説 静岡県史 平成10年 静岡県)
連行先事業所 連行人員 所在地(当時)
戦線鉱業仁科鉱山  178人 賀茂郡仁科村
宇久須鉱業宇久須鉱山  199人 賀茂郡宇久須村
熊谷組富士作業所  501人 富士郡富士町
清水港運清水華工管理事務所   156人 清水市松原町
日本鉱業峰之沢鉱山  182人 磐田郡瀧山村

強制連行朝鮮人とその就労先( 同 )
日本鉱業河津鉱山(蓮台寺支山)  238人 賀茂郡稲生沢村 西松組富士川第二出張所   − 榛原郡松野村
戦線鉱業仁科鉱山  486人 賀茂郡仁科村 清水港運送   74人 清水市松原町
宇久須鉱業宇久須鉱山  488人 賀茂郡宇久須村 鈴与   40人 清水市入船町
中外鉱業持越鉱業所   49人 田方郡上狩野村 日本鋼管清水造船所    8人 清水市三保
土肥鉱業土肥鉱山  364人 田方郡土肥町 黒崎窯業清水工場  113人 清水市三保
土肥鉱業湯ヶ島鉱山   33人 田方郡上狩野村 豊年製油清水工場   42人 清水市新港町
伊豆運送伊東営業所    1人 田方郡伊東市 日本通運静岡支店   47人 静岡市栄町
日正興業    1人 熱海市熱海 大倉土木日本坂出張所  427人 志太郡東益津村
熱海化学工業    1人 熱海市熱海 大倉土木徳山出張所  535人 志太郡徳山村
富士瓦斯紡績小山工場  334人 駿東郡小山町 長尾炭鉱   − 榛原郡中川根村
共立水産興業大場工場   20人 田方郡中郷村 間組久野脇出張所 1734人 榛原郡中川根村
東京麻糸紡績  771人 沼津市大岡 伊東鉄工所    2人 榛原郡川崎町
永倉精麦   44人 駿東郡長泉町 古河工業久根鉱業所  458人 磐田郡佐久間村
川島下駄工場    1人 富士郡元吉原村 日本鉱業峰之沢鉱山  471人 磐田郡龍山村
日本通運富士支店    2人 富士郡富士町 中村組  427人 磐田郡二俣村
大石細布織物工業    4人 富士郡元吉原村 日本通運浜松支店   37人 浜松市板屋町
土屋組   50人 富士郡原田村 鈴木式織機  118人 浜名郡可美村
大倉土木芝川出張所   − 富士郡芝富村 遠州自動車運送    3人 引佐郡気賀町
日本軽金属蒲原工場   − 庵原郡蒲原町 只木化学工業所    9人 引佐郡三ヶ日町
飛鳥組富士川第二出張所   − 庵原郡富士川町

遺骨発掘と慰霊祭
 1954年(昭和28年)、現地、仁科の中国人埋葬地において遺骨の発掘と供養が行われた。遺骨はその後、日中友好協会を通じて中国に送られたそうだ。
 しかしこれは中国から連れてこられた人たちに限ったことで、朝鮮から来た人たちの事情については、不明になっている部分が多いとのことである。図書館に、遺骨発掘と供養をする記事が載っている本があった。あまり下の方まで画面をスクロールさせない方がいいかもしれない。一度見たらなかなか忘れられない写真だから。




                                             
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