葉

戦線鉱業仁科鉱山の跡を訪ねる〜その3
探索 2006年10月14日   
 
トロ線の行き着く先にあるもの
 インクライン山頂駅から4つの隧道を抜けて1kmほど歩いただろうか。辿り着いた先には広くなった場所があり、何カ所かの石垣が見られる。そこにはやはりかなりの規模の施設があったことを伺わせている。また、沢を隔てた対岸にも、同じような石垣を組んで、かなりの広さを確保した場所がある。一体ここには何があったのだろうか。

消えた施設
 トロッコ線路跡は、消えるように広場に吸収されている。ここから先は石垣などで一段高くなっているので、線路はここまでなのか、それともスイッチバック方式で下方に折り返しているのだろう。その折り返している地点に立ってふり返ると、軌道跡と思われる道が赤沢林道方面に下降するように続いている。いずれこの先も探索してみたい。

 さて石垣の脇には明らかにそこが通路であったと思われる坂がある。それをよじ登ると、先ほど見てきたインクライン山頂駅にあったようなかなりの規模のコンクリート基礎群が、そこにはあった。

 これらの基礎は、何を載せて支えていたのだろう。トロ軌道が到着するスイッチバック地点からは一段高いところにあるので、ホッパー(鉱石の積み込み施設)かとも思われるが、それにしてはトロ線跡から離れすぎている。では、それらのコンクリート塊をご覧いただこう。



人の背丈と比べてその大きさを想像していただきたい。かなりの大きさと重量をもつ機械が載っていたと思われないだろうか。









コンクリート基礎の意味
 磯氏の資料には、この地には「発電所」があった、とある。確かに電灯やバッテリーの充電のために電気は必要だろう。
 ではどうやって発電していたのだろうか。もちろん傍らに沢が流れているので、水力発電が使われていた可能性が最も高い。しかしそれには十分な長さをもった導水管が必要だったはず。その管が設置されていた跡を探したのだが、見つけることはできなかった。
 となると、ディーゼルエンジン発電機が利用されていたのだろうか。それとも、当時の電力事情はよく分からないが、白川の里から電柱で電線を導いていたとは考えられないか。するとこのコンクリート基礎は、何のために…?

謎の縦坑
 さらに一段上に登ると、そこにはこんな穴が開いている。
 

     1.5m×2m×深さ3m?ほどの縦坑である

石垣を組んで作ってあるので、何らかの施設の一部だったのだろう。先のコンクリート塊に設えてあった設備と関係があるのだろうか。


    底があるのだろうか、それとも排水坑として沢につながっていたのだろうか

対岸施設との関わりは?
 対岸に見える石垣はかなりの範囲に渡って組まれている。となると、そちらにも何らかの施設や目的があって石垣が組んであったと考えられる。いったいこのコンクリートの上に据え付けられていた機械は何だったのだろうか。発電所か、鉱石の集積機械か、それとも対岸の施設と何らかのやりとりをしていた動力機械だろうか。

 縦坑のある平らな場所で昼食をとりながら、しばし考える。
 ここから山頂駅まで水平のトロッコ線路が敷かれていたということは、かなりの量の鉱石が運び出されていたのだろう。重量のある物を頻繁に運び出すからトロ線が敷かれていたのだ。ならば今私たちがいる場所は、鉱石の集積所だったのかもしれない。
 では、ここは発電所だった、という見方はどうなのだろう。残念ながらそれを裏付ける現地の状況や物証はやや少ない。あるいは小型のエンジン発電機があったかも知れないが、コンクリート塊との関係は、現地を見る限り、分からない。ならば対岸の石垣との関連はというと、対岸には石垣はあるもののコンクリート製の基礎などはなく、そちらとの関わりも見えてこない。何かきっかけがないとこの謎は解けないのかもしれない。当時のことを知っている人を探して話を聞いてみたいものだ。探索や推理によってその謎が解けないのはちょっと悔しいが…。

さあ、戻ろう、山頂駅へ
 謎は解明できないまま、再びトロ軌道跡を通って山頂駅へ戻ることにした。まだ一つ、大きな目的が残っているからだ。そう、インクラインの下降である。

 改めてトロ軌道跡を観察しながら歩き始めた。と、間もなく錆びた鉄片が落ちているのが目に入った。


   長さは40cmほど ずいぶんと重い

 どうやらレールのジョイント金具のようだ。きっと回収から免れて60年間、ここに落ちていたのだろう。すっかり錆びて黒くなっている。手に持つと、ずっしりと重い。記念に持ち帰る、ということはせず、土手の木の根に差してきた。

 今度はトンネルを東からくぐる。隧道特有の臭気が鼻孔をくすぐる。何というか、錆びたような、湿った生物が発するような臭いだ。あまりいい気持ちはしないが、すぐに鼻が慣れてしまうし、探索意欲をかき立てるような面もある。興奮が冷めないままだが気持ちに余裕ができてきたので、枕木や岩壁の様子を見ながら歩く。


       4つある隧道の中で最も短い第3号隧道

再び山頂駅へ
 1号隧道から山頂駅までは、そこそこ距離がある。隧道の記憶を足音と共に脳裡に刻み込むように歩く。やがて山頂駅に着いた。
 改めてプラットフォームを見る。ここでKAZU氏の洞察が光る。「この傾斜を昇降していたトロッコ貨車は相互入れ替え式だろうから、重い鉱石を積んだ貨車は自重で下降していたはず。その作用で、空になった貨車はたやすく麓駅から引き上げられたいただろう。となると、山頂駅の設備にはプーリーの他に制動装置があっただろうが、モーターなどの動力装置はなかったと考える。」 ううむ、鋭い! では、落ちている碍子は…、電灯のような灯火装置に用いられていたのだろうか。



下降開始!
 かつてはここを明礬石をつんだトロッコが昇降を繰り返していたであろうプラットフォームは、黙って山の北を向いて、上ってくることのない空のゴンドラを待ち続けていた。

 さあ、行こう。奈落の底に何が待っているのか、この目で確かめるのだ。

 見上げるようにして堅牢なインクラインの隔壁を眺める。当時、どんな音を立ててトロッコはこのプラットフォームを昇降していたのだろう。





 まずKAZU氏がインクライン軌道跡に踏み跡を記し、磯氏が続く。
 幅10m、深さ3mのインクラインの軌道跡は、すっかり木々が茂り、落葉で軟らかくなっている。当時はもっと硬い土が8本のレールを支えていたのだろう。



どこまで続くか分からない軌道跡を、私たちは降りていった。行き着く先には何が待っているのだろう。



 インクラインの傾斜度は、この通りである。30度ぐらいであろうか。もしこれがスキー場だったら、初心者には下れまい。私たちも登山靴のエッジを効かせて、右に左にターンする形で降りていく。カメラ片手の下降なので、ちょっとつらいものがある。



ポイント跡か
 斜面はガレていて、ズリのような石が多数転がっている。200mも降りただろうか、斜面が荒れてきて、ますます下りにくくなってきた。
 と、KAZU氏が「ここにコンクリートの段があるんです。」と指さす。と、みると、確かに苔むしたコンクリートの段差が残ってる。ここで山頂駅の4つのプラットフォームから下ってきた4路線の線路がポイントによって上下2路線に収束されていたのだろうか。はっきりした線路の図は見えてこないが、それはまもなく麓駅が近いことを示していた。



 250mほど下降してポイント跡と思われる地点を通過しても、インクラインの軌道幅は減少しない。傾斜もきついままである。山頂駅は遙か上になり、姿をうかがい知ることはできない。ここを何トンもの鉱石を積んだトロ貨車が昇降していたのだ。大変な作業だったに違いない。

 足元はさらにガレてきて、木々の幹を掴みながらの下降を続けた。私は転倒もし、肘や膝に傷を作った。

 と、KAZU氏の示す先に、ようやくインクライン麓駅が見えた。



インクライン麓駅
 山頂駅の規模から比べると、それはごく小さな施設であった。鬱蒼と茂った森の中で、それらは永遠に到着することのないトロッコを待って佇んでいた。





 まず目につくのは、インクラインの傾斜に向かって立ちはだかるようなコンクリート壁である。万が一トロッコのブレーキが故障した時に、その暴走を止めるための擁壁だろう。
 その手前に小規模のプラットフォームがある。ここで、降下してきたトロッコから明礬石を降ろし、次なる運搬手段の何かに載せたのだ。

 インクライン麓駅からは、さらに少し下って川を渡らないと林道まで到達しない。鉱石もまたここから川を越えて林道を運ばれていったのだろう。
 コンクリート遺構からは廃林道が延びている。が、そちらに歩むと、石垣の組まれた畑となり、鉱石運搬の道なのかどうかは不明である。おそらく麓駅からはそのまま下に降ろし、木橋か何かで林道まで運んだのだろう。こちら側の沢の河床も異様に赤かった。


     ここを橋で鉱石を渡したのだろうか

 川の流れを飛び石をしながら渡り、後ろを振り返る。しかし山頂駅から続いていたインクラインの跡はすっぽりと森に飲み込まれ、それを見てとることはできない。ここを訪れた者の誰がそこに何百人もの人々が従事した鉱山施設やインクラインがあったことに気づくだろうか。いや、一人も気づくまい。


 インクライン跡は画像左の森の中にすっぽりと呑み込まれている

インクラインを後にして
 磯氏の資料によると、この仁科鉱山のインクラインの規模は、高低差や斜度、稼働距離などにおいて、東洋一に数えてもおかしくないくらいの大きさであるという。しかし戦争史跡という負の要素を持つために、歴史の谷間に埋もれ、人知れずその威容を森の奥深くに隠しているのであった。

 インクライン麓駅からは、林道を1kmほど歩かないと慰霊塔広場には着かない。
 まもなく広場、というところで、磯崎氏が歓声を上げた。何か発見されたようだ。

 聞くと、ここにもレールが敷かれていたのではないかと言う。確かに氏の靴の踵で削られた林道の面には、枕木のような材木が埋もれていた。


  麓駅から赤沢林道の分岐まで、鉱石をトロッコで運んだのではないだろうか

降り出した雨は
 午前8時に始めた探索を終えて車に戻ったのは、午後2時35分であった。インクラインを下降して林道を歩き始めた頃からぽつりぽつりと落ちてきた細かな水滴はやがて小雨となり、私たちと慰霊碑を濡らした。それは、鉱山跡を訪ね歩いた私たちの足音を聞いて、亡き犠牲者達の流した涙雨だったのかもしれない。



一色の法雲寺を訪ねる
 帰り道、仁科一色の法雲寺を訪ねた。ここにも中国人犠牲者たちの慰霊碑がある。戦後になって発掘された遺骨を一時保管したお寺なので、碑を立てたのだそうだ。


  
 車で入るには細い道なので、歩いて行った。そこには白い花の飾られたレリーフがあり、ツルハシを方に背負った坑夫が鉱山のあった方を見て望郷の念を投げかけていた。



探索は続く
 法雲寺を後にした私たちの傍らを、1台の車が通り過ぎた。と思ったら、その車は停車した。降りてきたのは、何と同時間帯に十郎左ェ門に入山していたM氏であった。

 私たちの探訪の様子を聞いたM氏は、「珍しい写真を撮ったよ。」と仰る。デジカメの小さな液晶画面に映し出されたそれは、まさに山肌にぽっかりと口を開けた坑口であった。十郎左ェ門から下山途中、長九郎林道を越えて赤沢に下降を始めた時に偶然見つけたと言う。にわかに色めき立つ私たち探索隊。そして再びこの地を訪れる約束を交わしたのであった。次号を待て!



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