葉

M越鉱山
探索 2007年8月8日   
 
M越鉱山の成り立ち
 M越鉱山で鉱区が発見されたのは、1914年(大正3年)であったという。1932年(昭和7年)にM越金山株式会社が設立され、1934年(昭和9年)にS越鉱山を買収して、S越鉱山がM越支山として本格的操業を開始した。1936年(昭和11年)には朝鮮半島の諸鉱山を買収してTG鉱業株式会社が設立され(日本国の中でも外でも発展するようにと、「中外」という名が使われたという)、M越鉱山はその傘下に入った。そして1938年(昭和13年)、S越で新鉱脈が発見され、政府の産金奨励策と重なり、採掘が盛んに行われた、ということらしい。M越鉱山が最盛期を迎えた頃には、3000人といわれる鉱山町が鉱区に形成されたという。

 ここで、探索の後に自宅で見つけた書物から、当時のM越鉱山の写真を紹介する。(いらない本捨てろ、と家族から言われて渋々押入から出した本に、これらの写真があった。禁無断転載にて、版権者様、ごめんなさい)

 書物の名は、『静岡県の昭和史 近代百年の記録 上下巻 昭和58年9月30日 毎日新聞社発行』である。
 まずは、精錬所全体の写真。見事な陸橋が谷川を跨いでいる。大沢坑ほかから運ばれてきた鉱石を運搬していた陸橋だろうか。なお、これらの写真が撮影されたのは、すべて昭和11年とのことである。


        「M越鉱山遠望」と題された写真 上流側の工場から写した1枚と思う

その陸橋が精錬所と接続する部分を写したと思われる写真だ。精錬所の位置からすると、かなり高いところにこの陸橋が架かっていたことになるのだが、どうだろうか。


            この採光窓のある建物は、今でも残っている

下の1枚は、また別のトロ橋と思われる。一体精錬所のどこに・・・。


       橋の上のトロ線  向こうには連結されたトロッコが見える

そしてこれが持越鉱山の主坑道であった「O沢坑」の坑口である。トロ線が複線で引き込まれている所からすると、かなりの幅員を持っていたものと思われる。


               O沢坑である  立派な坑口だ


            M越川の上流側にあったという鉱山住宅

先の書物に載っていたM越鉱山の写真は、以上の5枚である。もっとほかに写真がないかな〜。

いざ、探索へ
 下田から車(パジェミ号)で国道136号線を北上。天城トンネルを越え、落合楼の辺りで左折して、県道天城−仁科線に入る。道は美しい渓流に沿って西進する。ここはまだ来たことのない道だ。初めて走る道はわくわくする。


    伊豆市湯が島を左に折れ、持越川に沿ってゆるやかに登っていく  いい天気だ

積年の思い
 地図を見てこの道沿いに湯が島鉱山やM越鉱山の文字があることは見ていた。また、以前、湯が島鉱山を訪ねた磯崎氏のレポを見て、(いつ行けるかな〜、行きたいな〜)と思っていた。その持越鉱山を今、訪ねようとしているのだ。はやる心。久々に味わうワクワク感だ。

 道はやがて私たちを湯が島鉱山の麓に導いた。

ここにあの「伊豆の金山(かなやま)」の案内板が立っている。これだ。まずはこれが見たかったのだ。


   ここに来たかったのだ  湯が島鉱山の所在地と、持越鉱山へとつながる道

 橋を渡ると突き当たりに湯が島鉱山跡があり、右折だとM越鉱山跡を経て西伊豆スカイラインに達する。左折は行き止まりとのことだが…、もしかしたら知られざる鉱山跡があるのかも知れない。


  湯が島鉱山に掛けられた「伊豆の金山」の看板と、その上に見えるホッパーの遺構

 「湯が島鉱山は後で来るからさあ。」と私の隣で言うのは、今回のパートナーであるS川隊長である。パートナーと言っても、完全に私は連れてきてもらっているのであるので、実際は隊長がリーダーである。(だから「隊長」なんだけど)

 湯が島鉱山から車で5分も走っただろうか、右にこうした看板が見える。


     M越鉱山は、TG鉱業となって金のリサイクル事業を行っているという
 

TG鉱業株式会社はHPを持っており、その会社紹介のページには、こう記してある。

「当社の中核である精金事業は1914年のM越鉱山発見に端を発する歴史を持ち、その伝統ある技術をふまえ、都市型鉱物資源(産業廃棄物)を原料とする金・銀・白金・パラジウム等貴金属類のリサイクル事業を展開し、地球環境保全に貢献しております。

金を採掘しなくなってからは、現代の社会で生き延びるためにリサイクル事業を展開しているらしい。それもまた大事な仕事であろう。

精錬所跡へ
 さあ、いよいよ来たんだ。さあ、ここでどんな鉱山施設を見ることができるのか。

 まず、看板の次に山肌をふり返ってみると、精錬所なのか、見事な木造の建物が目に入った。


   下の市道からみたM越鉱山の精錬所 建物はまだ健在である(でも進入不可)

赤いトタン屋根を纏ったそれは、出窓を均一に並べて、往事の姿を留めていた。入りたいナ〜。

車は道なりにぐるりと工場の周りを回る。右手にはこんな工場が見える。金属製の煙突から煙は出ていない。今日は日曜日だから、操業していないのだろうか。何となく「廃プラント」という臭いがしてくるのだが。また平日に来てみようか…。


     廃墟のような工場だが、操業しているのだろうか?

また、川の上流の向こう側にも大きな工場がある。しかしこちらも煙突は煙を吐いていない。人気も一切感じられない。


   上流側にあるもう一つの工場 やはり稼働していないように見えるのだが…

鉱山跡の施設
道路の両脇には、鉱山稼働時代の施設が散見される。


     下の工場近くにある建物 倉庫か? やはり使用はされていないようだ

立派な事務所もある。しかし、人の出入りはない。中に人がいる気配も感じられない。この日は日曜日なので誰も出勤していないのかな、と思ったが、ここに70年前に来たという、隣の商店のおばあちゃんに尋ねたところ、今はどの施設も無人で(!)、工場の入り口の受付棟に守衛さんが1人常駐しているだけという。


     下の工場前にある事務所  やはりひっそりとしていた

 橋の近くには、慰霊碑が建っている。見上げるような高さだ。かなり大きい。銘を見たが、裏面には年号も目的などが刻まれていない。なぜ…?


       「慰霊碑」以外の文字は表にも裏にも一切刻まれていない

 後に資料を見て分かったのだが、ここM越鉱山のO沢坑では当時、大規模な火災事故があったそうだ。

 それは1937年3月のこと。M越鉱山O沢坑で坑内火災が発生。有毒ガスが発生すると共に酸素も徐々に欠乏したため、助けに入った仲間も次々に倒れた。やむなく坑道を封鎖し、火災が鎮火してから改めて救出に向かったという。しかし結局、火災事故は労働者48人の生命を奪ったという。その際の犠牲者を慰霊する塔であろう。

O沢坑を探して
 そのM越鉱山の大沢坑は、精錬所から南西に延びる県道沿いにあるという。この日はまだ過去の火災事故について知らなかったので、特に思うこともなく探しに行った。
 隊長が聞いてきたO沢坑の位置は、「精錬所近くの橋から上流側250mのところ」で、「県道からは10mも入れば坑口は見つかる」という事だ。その辺りの空き地に車を止め、装備を固めて探索に入った。すると、次々とこのような遺構が目に入った。


   仁科峠方面に車を進めると、気になる遺構が  何の施設があったのだろう


     うーん、気になる  でも何の施設跡なのかは分からない

 これらは当然、鉱山の施設跡だと思った。高い石垣に、ホッパーを思わせるコンクリートと木材の基礎。そして、同じくコンクリート製の水槽などを見つけることができた。しかし残念ながら、それからはいくらこの辺りを探しても、これ以上の施設跡はなく、まして坑道などは痕跡すら見つからなかったのだ。きっと私たちは何か大きな見当違いをしているに違いないのだ、というのが2人の気持ちだった。

山の神社へ

 「この上に神社があるから、行ってみようよ。」

と、隊長の声。隊長は数年前に単独探索をした時、精錬所跡側の斜面に一つのお社を見つけたという。 もしかしたらその神社が鉱山と関係があり、施設跡へのアプローチになっているかもしれないというのだ。
神社だったら、鉱山と関係がないとしても見ておきたいと思う私。何か石造物があるかも知れないし…。 

即決して、行ってみることにした。

 M越鉱山事務所前からは、実は西伊豆スカイラインに通じる舗装林道が分岐している。林道と言っても2車線の、アスファルトの舗装も新しい見事な道である。(一旦スカイラインに達するまで上り詰めてみたが、途中のコーナーが連続する辺りには自動車のタイヤがつけた黒いブラックマークがいくつも残っていた。きっとドリフト小僧達が練習場所としているに違いない)

少し行ったところの一般車向けの駐車場からは、上流側の工場がよく見えた。


        上流側の工場を見渡せる場所に来た

神社への参道は、この駐車場の向かいにある。


      山神社かな・・・  殺風景な参道を上がっていく

 コンクリートでできた手水鉢は空っぽで、もはや誰も参拝していないように思われた。

 緩やかな勾配を持つ石段の参道は、境内までの距離が100mほどある。参道からは、精錬所跡などの鉱山施設も現在の工場も見ることはできない。
 石段を上り詰めて境内に着くと、お社があった。小さな木祠を更に大きな祠で包むように作ってある。神殿を拝殿で覆ったような感じ、と言えば分かっていただけるだろうか。


     神社の建物の中には木製の祠がある  二重構造か

 しかし鳥居は、ない。取り外した跡もないので、初めから作ってなかったのかもしれない。
 外側の祠の内部には、神事に用いる太鼓や椅子や台が置いてあった。いずれも久しく使われていないらしく、すっかり艶を失って、埃をかぶっていた。かつては、新年やお祭りの時期に多くの人たちが訪れ、賑やかに神事やお祭りが行われたのだろう。


     昔はしばしば使われたであろう太鼓や簡易祭壇が納められていた

 ところで、この神社は何を祀った神社であろうか。このような山の中腹にあるからには山神社かと思われるが、M越鉱山との関連はどう見たらよいのだろう。
 「鉱山あるところに山神社あり」とは、これまでの鉱山探索で得られた慣例である。縄地鉱山然り、蓮台寺鉱山然り、大松鉱山然り…。それらには、鉱山との関連を示すお札や石灯籠などが奉納してある。大松鉱山などは、鉱石が境内に鎮座しているほどである。

 しかし境内にはそれらしき石造物はない。常夜灯や鳥居もないのだから、淋しい限りである。もしそれらの品々があれば、例えば奥山鉱山跡に残る「鉱夫中」と刻まれた常夜灯のように、この山の神社がM越鉱山の守り神様であることが証明できるのだ。

  さあ、どうする?! どうしたらいい? 

 かくなる上は、大変畏れ多いことではあるが、拝殿の扉を開けて(あわわ・・・)、ご神体を拝むことにした。

もし拝殿の中に鉱山に関連する文字の記されたお札や棟札などがあれば、ここが持越鉱山を守る山神社であることになる。そして山神様は、私たちをきっとM越鉱山跡にお連れしてくれるに違いないのだ。

 そこで、決して失礼のないように、ていねいに二礼拍手一礼して・・・

ドク、ドク、ドク、ドク・・・。

心臓の音が徐々に高鳴り、私の脳下垂体はアドレナリンを放出せよと言う命令を副腎髄質に下す。発せられたアドレナリンは血液に乗って体内を巡り、脳にも到達。指は震えて目は虚ろになった。 

一歩、二歩、三歩・・・

ギギー・・・ッ・・・

こわばる足で拝殿の石段を登り、そっと扉を開けた。

すると、そこに鎮座していたご神体は・・・、

       ・
    ・
    ・
果たして鉱山関連のご神体なのか・・・
    ・
    

    ・

 アワワワ・・・、これは・・・!

   キ、キタ、キタ、キタ キタ───ッ





              「M越鉱山〜その2」へ続く
                                             
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