葉

旧三津坂隧道で洸作少年が見た景色は〜その1
探訪 2007年8月29日
 
『しろばんば』と洪作少年
 著名な作家にして文化人である井上靖は、少年の頃、天城湯ヶ島町(現伊豆市)で暮らしていた。その様子は氏の著作『しろばんば』や『夏草冬濤(なつくさふゆなみ)』に叙情豊かに描かれている。

 『しろばんば』の主人公は洪作少年。三津(現在の沼津市)に住んでいた叔母をしばしば訪ねていった。その際、長岡と三津(みと)の境の山を貫く旧三津坂隧道をくぐって三津に行った。トンネルを抜けて三津に下る時、そこから見える三津の街並みと青い空は日本で一番美しい風景だと記している。

 今回はその三津坂隧道を訪ねてみた。果たして洪作少年の見た美しい風景はそこにあるのだろうか。
 ちなみに、この長岡−三津線は、菖蒲御前が伊豆長岡から内浦湾沿いに逃避行する時に通った道(当然、当時はトンネルなどない峠道)、あるいは太宰治も通った道として知られているそうだ。

旧三津坂隧道とは
 明治時代に作られた石巻きトンネルとしてよく知られている天城峠の旧天城隧道の竣工は、明治37年。しかし、実はそれよりも古い石巻きトンネルが旧三津坂トンネル、明治30年竣工、延長170mである。
 ところが天城トンネルは、新トンネルができてから却って伊豆の踊子が歩いた道として注目され、文化遺産として脚光を浴び、保存運動もされている。
 それと正反対に、旧三津坂隧道は現在の新トンネルができてから顧みられることがなくなり、長いこと荒れるに任せていたそうだ。東側の坑門前などは倒木捨て場になって、歩くことができなくなっていたという。
 しかし、数年前、この貴重な石巻きトンネルに光を当てた地元の有志がいた。ボランティアを募り、倒木などを撤去してまずトンネルが見えるようにしたという。(現在の活動団体は、沼津市のNPO法人・奥駿河燦燦会。旧三津坂隧道の整備、三津浜の清掃活動、発端丈山へ続く遊歩道の整備、情報発信などを行っているそうだ)

 では、現在では旧三津坂トンネルはどうなっているのかと、常々疑問に思っていた。
 しかし8月17〜18日に群馬県で行われた職員組合の研修会で、たまたま沼津市立内浦小学校の分会員氏と同じ分科会になったので、尋ねてみた。

 その話ではこうだった。

・現状としては、旧三津坂トンネルは通れるようになっている。
・地元の子供達も、“総合的な学習の時間”で研究テーマに取り上げることがあり、実際にトンネルを見に行っている。
・しかし、入坑すると、東側の出口は泥で埋まっており、出ることは難しい。

ということだった。

 折しも今年は井上靖生誕100年目に当たる。天城湯ヶ島とも繋がる沼津市では、徐々にではあるが、旧三津坂隧道の広報活動を続けている。新三津坂隧道は車専用で、歩道が無い。ハイキングコースとして旧隧道が歩行者専用に整備されれば、旧天城隧道と並ぶ名所になるだろうと読んでいるようだが、しかし実際に訪ねてみて、旧隧道には様々な問題をあることが分かった。このページをご覧の諸氏にもいずれ分かっていただけると思う…。

アプローチ
 洸作少年は、当時住んでいた湯が島村から馬車に乗って修善寺まで行き、そこから駿豆馬車鉄道で長岡まで行った。そこからは徒歩で三津坂に向かい、トンネルをくぐったのだろう。

 現在、その県道130号線として整備されている。

 平成19年(2007年)8月29日、函南のメディカルクリニックで人間ドック受診を終えた私は、午後、その足でパジェミ号を走らせ、伊豆中央道を長岡で降りた。


        長岡−三津間の県道と、それを跨ぐ伊豆中央道の高架橋

 この時はちょっと大回りしてしまい、長岡中学校そばのインターで下りてしまったが、函南からだと、この県道130号線と立体交差しているインターチェンジで降りれば、そのまま三津への道に入ることができる。

 伊豆中央道の高架橋をくぐると、その先は鄙びた田舎道となる。


    広い道なのだが、歩道が整備されていないので、歩くのにはあまり適していない

 もしかして近年私が気にしている「屋根のてっぺんに小さな換気屋根(=破風)がついた旧養蚕農家の家屋」が見られるのではないかと、脇見運転をしながら走っていったのだが、わずか県道からは1軒のみ見られただけだった。歩いて探せばもっとあるかもしれない。それは今後の課題だ。

 伊豆中央道との交差地点からは数分で伊豆箱根バスの「三津坂」バス停に到着する(徒歩だと30分ぐらいかかるかな?)。ここが新トンネルと旧トンネルの分岐になっている。


            伊豆箱根バスの「三津坂」バス停

三津坂バス停から
 バス停からトンネルのある西側を見る。もちろん幅員が広く、黄色いセンターラインの通っている方が、新トンネルに至る現在の県道である。

ここを左に入る。


           左に入るのが旧三津坂隧道への道

 現県道の方はそれでも道の写真を撮るのに危険を感じるほど交通量はあるのだが、こちら旧トンネルに至る旧道に通行車両はない。左右に営業中のラブホが数軒建っているのだが、客の出入りはないようだ。
(でも、ここで建物に入る客の車と擦れ違ったら、ちょいドキドキするかも。って、私がそんな思いをする必要はないのだけれど)


        ラブ○って人通りの少ないところにあるよね 旧道が泣くなあ

 そのまま道なりに進むと、林道のような細い道が、左に曲がる舗装路から離れて直進している。この暗い道が旧隧道への道である。


      周囲には案内板はない  「関係者以外入山禁止」の看板はある

 林道(実は旧県道)に入ると急に湿度が増し、土と雑草の草いきれの香り、いや、臭いが漂い始める。あまりいい雰囲気ではない。これはもう、廃道のそれだ。しかし周囲の気温は下がり、ひんやりとする。夏の隧道探索でよいことと言えば、このひんやり感だけだろう。でも湿度が高いので、からっとしたさわやかさは少ない。

 この辺りは、数年前までは倒木がうずたかく積まれていていて、トンネルの姿を外から見ることはできなかったそうだ。それを地元の有志が取り除き、辛うじて目視と通行ができるようにしたらしい。しかしこれでは旧婆娑羅隧道のように金網封鎖がされていないだけで、観光資源として有効利用しているとは言えない。というか、全く見捨てられているのでは?

 舗装路との分岐から50mほど進むと、石巻きの坑門が見えてきた!


         見えた!  これが旧三津坂隧道か〜

じめじめとした空気の中に見えた旧三津坂隧道東側の坑門だ。これが見たかったんだよな〜。遂に来たんだー。


        道を整備したボランティアさんたちの苦労が漂っているようだ
  
 坑門前の道は、むしろきれいに整備されている。新しい苗木の植栽まである。路面の幅員は4m弱。車の相互通行は考えていない作りだろう。しかし明治中期の設計では、人と、人力車か馬車の通行しか想定していないだろうから、至極当たり前の数値と言えよう。


           向こう側の出口が薄蒼い光となって見えている!

坑門はきれいな円アーチを描いている。扁額の文字は残念ながらよく読めない。

アーチ環にはかつて電線を通していたと思われる碍子がのこっている。照明はなかっただろうから、電線か電話線を引いていた名残だろう。


        白い碍子が残っている  電線が通っていた印か

 東側の坑口から西側を見ると、隧道は湾曲しておらず、また、勾配もほぼ変化がないようで、西側坑門を見通すことができる。しかし路面は湧水のためか泥が堆積してぐちゃぐちゃになっている。この点は話に聞いた通りだ。


        うっ、ホントにかなりの泥が溜まっている…

いよいよ入坑
 さて、泥の深さはどのくらいなのであろうか。そして隧道の内部はどのような状態になっているのだろうか。

 まず、この隧道がまったく清掃されていないどころか、一時はゴミ捨て場になっていることが分かった。井上靖の小節にある美しい描写とは真逆の様相だ。これを見たら、どんな人でもがっかりしてしまうだろう。


       内部のゴミ  家庭から出された廃棄物のようだ

 路面はかつて簡易舗装がされていたのが剥がれてしまったのか、フラットな部分とえぐれた部分がある。
 堆積した泥の深さは平均で10cmほどだ。普通の靴ではもちろん泥に埋もれてひどい目にあってしまうだろう。長靴を履いていてさえ、ぐちゃぐちゃした足の裏の感触はよいものではない。この惨状をもし洪作少年が見たら、悲しく感じることだろう。

おや、路面には、轍が残っている。近い過去に何度か車両の通行があったようだ。普通の乗用車ではあるいはこの泥の堆積した東口を通過することはできないかもしれない。4DW車や二輪のオフ車なら、あるいは通れるかもしれないという様子だ。


    わずかに轍が残っている 四輪のも二輪のもある 誰が通った?

 天井を見てみよう。石巻きの壁面に、鉄の棒が埋め込まれている。強度を増すためのロックボルトか、それにしては細い感じがする。


      照明用のポルトかなあ…  照明はなかったようだが

 路面の両脇に排水溝には、なぜかビニールシートが敷かれている。それも長くかなりの面積を持つシートだ。まさか路面を覆っていたのではあるまいな。これも困った廃棄物となっている。


           何のためのビニールシートだろう

それと、一部にはこんな白濁した汚泥が溜まっていた。うーん、気持ち悪い…。


         きったなーい  足早に通り過ぎた

 それと、延長170mの中央部分では、所々にこのように崩落が見られた。隧道全体の崩壊には繋がらないだろうが、遊歩道として整備するなら、こららの対策を講じなければならないだろう。大変な仕事だ…。


          崩落のある部分  ちょい恐い

 ようやく西側の坑口が近くなってきた。初めから向こう側の出口が見えているので、一人で歩いていても、それほど恐い感じはしなかった。でも、やっぱり淋しさと気味悪さはあったけど。


      この辺りは露天掘りのような感じだ  煉瓦が剥がれたのかな

さあ、いよいよ西側(三津側)の出口に近づいた。洪作少年の見た三津の美しい景色はどんな風景なのだろうか。


       三津側からの光  この先にはどんな風景が見えるのか

 路面は全長を通じて湿潤していた。舗装も剥がれ(あるいは初めから未舗装だったのかも)、荒れていた。やっと通り抜けた時には、正直、ほっとした。


           西側の坑口も荒れているようだ

見えた! けど…
 三津側の出口は50m先で左に大きく曲がっている。真っ直ぐ目を見据えると、森の向こうに海は見えない。あらら〜。洸作少年が見た時代から相当な年月が過ぎたので、木々が生長したのだろうか。


がっくし… il||li_| ̄|○il||li     (o´_`o)ハァ・・



        三津側出口からは街と海が見えるはずなのに

 気を取り直して、西側(三津側)の坑口を振り返って見た。周囲からの落石が目立つ。この日の天気は曇りだったためか、夏なのにひんやりしていている。東側の坑口よりもずっと冷気が立ちこめている感じだ。


          落石がある  車の通行も難しいだろう

離れて見ると、このように靄が立ちこめている。鉱山の坑道前と似ている。


          冷気のために靄が立ちこめている

古い峠道あり?
 坑口の南側には、わずかに踏み跡が見られる。もしかしたら隧道の上を越える歩道かもしれない。となると、旧隧道が開通する前はこの道を通っていたのだろうか。涼しくなったら探索してみよう。


          涼しくなったら、この踏み跡を辿ってみたい

 坑口から出てカーブを曲がると、そこはおびただしい草が繁茂していた。これでは車は通行できまい。歩くのにも難儀する草深さだ。虫がいそうで、ヒイ〜ッ、っと言いながら通り抜けた。

 前方では、男性がエンジン草刈り機で雑草を刈り払っている。挨拶をして通り過ぎた。後にこの男性に話を聞くことができたのだが、それは後編で紹介することにしよう。果たして洪作少年の見た“ 日本で一番美しい景色 ”を改めて私は見ることができるのだろうか。


          向こうで草刈り機を振る男性が後にヒントをくれた


「旧三津坂隧道〜その2 洪作少年が見た景色は」へ続く

                                           
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