このシリーズも第3部となりました。こんなレポート、楽しんで読んでくださる方はおられるんでしょうか。ま、このHP自体が自己満足の世界で書かれているので、まずは私自身のためにページ製作を続けましょう。感想、ご意見、叱咤激励、何でもメールか書き込みくださいね。
入田浜入り口近くの忠魂碑の前を通り過ぎますと、左手に下りる細い道が見えます。
初めてこの地に赴任してこの辺りを通った時、「これは旧道だ!」と、ピーンときました。だって、いかにも道幅が狭いですし、旧家らしきお宅の脇をかすめていますから。 昔は、今の道のように、そうそう真っ直ぐな道はなかったんです。 畑や田んぼや家々の邪魔にならないように作られているのが普通だったんです。例外もあるでしょうけど。

右が新道、左が旧道ですね〜

旧道の雰囲気、あるでしょ?
白坂の石丁場跡
さて、先のおじいちゃんが話していた「白坂」というのは、この辺りです。 2年前に切り通しが広げられ、ずいぶん通行が楽になりました。それまでは車道も歩道も狭く、通行が不便だったのです。
さて、ここで一つ見どころが。 この辺りは石丁場の跡が多く、ちょっと山肌を見れば、人工的に石を切り出した跡がそこかしこに存在するのが分かります。

石丁場の跡です 民家の裏山などに多く見られます
さて、間もなく吉佐美地区の中心地に着きます。 ではちょっと散歩をしてみましょうか。

白坂の上から見る里条地区です
丘の上の観音堂跡
旧道は、駐在さんの手前のY字路を右に入ります。そして、民家の並ぶ間を、静岡トヨタのお店の辺りまで行って、現国道に接続します。

右が旧道。民宿「白坂」という看板が見えますね。
さて、Y字路を旧道に入って、少し離れたところから酒屋さんの裏手を見ますと、丘の上に2つ3つ、石造物が立っているのが見えます。
小学校の体育館玄関から見ました
酒屋さんの手前の家の脇から上がる石段がありますので、行ってみましょう。ちょっと急すぎて恐いですので、ここは気をつけて登ってください。すると、朝日小学校を初め、吉佐美の里条地区を見渡すことができる高台に出ます。 草原になったそこに、3つの石造物が立っているのが分かるでしょう。
ここは3月の仮赴任時に初めて登ってりました。でも、石柱やお地蔵様に彫ってある文字がよく読めず、謎のままでいました。

今は夏草に覆われて、この通り
その時は丘を下りてすぐに「瀬戸道」さんで店番をしていたおばあさんに聞いてみました。すると、亡くなったおばあさん(義母に当たる方)が、「ここには昔お寺があった。」と言っていたらしいことが分かりました。なるほど、お寺があったのでは、地蔵様などが残っていても不思議ではありません。
とろこで瀬戸道のおばあさんは、稲梓の北湯ヶ野のご出身で、何と北高を卒業されたそうです。だ、大先輩だ〜。
ところで、なぜこの丘の上が「観音堂」跡と分かったかといいますと、知る人ぞ知る伊豆の名写真集『写真風土誌 伊豆 平成7年刊』に、ここが「明治初年に廃堂になった観音堂跡」である、と書いてあるからです。
この書物は、伊豆半島南部の史跡などを40年ぐらい前から撮りためて掲載した写真集で、今後必ずや伊豆の研究史に残ると確信します。
路傍の地蔵様
さて、瀬戸道さんの前を通り過ぎますと、やがて右手に防空壕の跡と、それに並ぶようにして小さなお地蔵様が立っています。

ここがかつてのメインロード バスも通ったそうです

路傍のお地蔵様 高さ70cmほど 童女の墓のようです
いつもきれいにお世話されているので、どなたか信心深い人が、というよりお地蔵様を大事にする方がいるのでしょう。すぐ蕎麦のいえの人かな? と思っていたところ、この日はちょうどお地蔵様の隣の家からご主人らしい方が出てきたので、尋ねみました。
そのお話によりますと、「お世話をしているのは別の家のおばあさん。」だそうで、「何のお地蔵様か、由来は分からない。」「年号も書けていて分からないし」とのことでした。 ただ、「『童女』とあるので、何かの理由でここでなくなった子どものお墓だろう。」と話してくれました。
また、「吉佐美にはところどころにこうしたお地蔵様があり、小学校の裏山を越えたところにある墓地にも、こんなお地蔵様がたくさんあるよ。」 また、「仏谷山には行った? あそこにもたくさんあるよ。」とと教えてくれました。
ついでに、今はゴミステーションになっている防空壕も中を見せてくれました。戦時中は、各戸でこうした防空壕を掘り、敵機が飛来した時に身を隠したそうです。稲生沢や稲梓地区に比べて吉佐美地区にこうした防空壕がたくさんあるのは、固い岩盤の斜面が近くにあるからでしょう。と、単純にそう思いました。

防空壕跡を利用したゴミ置き場です
揚林寺跡
吉佐美幼稚園を過ぎて少し行きますと、右手になだらかな傾斜が広がり、田んぼが緑の葉を風に揺らしています。
右手に入る小径がありますので、そちらに入ってみましょう。やがてたくさんの石造物が固まって納めてあり、そこが墓地の入り口であることが分かるでしょう。
この寺院跡がもとは揚林寺というお寺であることも、『写真風土誌 伊豆』によって知ることができました。
お寺のあったと思われる辺りには民家が建っているのですが、実は、わが家の駄ネコ、プリモ(バカプリとも言いますが)をもらってきたお宅がここなのです。
プリを別れの涙と共に持たせてくれた奥様はお元気なのでしょうか。ご主人は数年前に亡くなったと聞きましたが…。
さて、この石造物群は、大体が無縁さんのようです。が、中にひときわ大きな石柱があります。よく見たら、上半分が欠損しているのですが、庚申塔でした。基部にくっきりと「見ざる言わざる聞かざる」の三猿が浮き出ています。どこか道ばたに立っていた塔をここに運んできたのでしょうか。それは私の背後で稲の葉を揺らす田んぼのみが知っています。

無縁さん群と庚申塔

見ざる 言わざる 聞かざる 外界からの情報を絶つ、という事でしょうか
庚申塔に三猿が彫られているのは、猿が青面金剛の使いであり、人間の謹慎態度を示すための戒めとしての役目があるからだそうです。

北条地区に広がる田んぼ トンボも飛んでいました
元海軍道路脇に立つ秋葉神社常夜灯
戦時中、南伊豆町の湊に海軍病院が作られ、そこまでに行く道も急いで作られたそうです。この辺りの人々は、その道を「海軍道路」と呼んだそうです。突貫工事で作られたこの道を、海軍の偉い人が通る時、沿道の人々は頭を下げて見送ったと言います。
当時は道だけ他より3mほど高くつくったそうで、その後道の周囲を埋め立てて、路面と同じ高さにしたそうです。
その元海軍道路(今は国道136号線)の静岡トヨタ近くの信号脇に、大きな常夜灯が立っています。

嘉永六年 秋葉神社常夜灯 高さは2m以上ありますね
風化が進んでおり、セメントで補修した跡が見られます。 銘を読むと、「嘉永六年(1953年) 秋葉山」と書いてあります。 ということは、この近くに秋葉神社があるはずです。きっと周智郡にある秋葉神社から分祀してきたのでしょうが、どこにあるのでしょうか。
実は、すぐそばを大賀茂川が流れており、目の前に亀沢橋という橋があります。その橋を渡って民家の間の路地を入り、突き当たりの山裾を登りますと、小さなお社に着きます。それが秋葉神社です。

この奥へと入ります 恐いよ〜

コンクリートブロックの石段 蚊が多いです

秋葉さんです ようやく参詣することができました
入り口は暗いし、入ってすぐに無縁さんがいくつも倒れているしで、不気味です。行きたくないよ〜、という感じ。でも、古道探索家(笑)としては行かないわけにはいきません。くもの巣を払いのけ、蚊に刺されながらも、行くんです。
お社には、何年か前に補修を施した時の発起人のお名が書いてありました。今でも定期的にお祭りをしているのでしょうか。土地の人に伺ってみたいものです。そういえば7月24日のヒトボシ地蔵様のお祭りに行きそびれたニャー…。
国道の方を振り返ると、ちゃんと常夜灯が見えました。
あの常夜灯を目印にしてこのお社に来る人はいるのでしょうか
銭瓶峠へ行く途中にあるお地蔵様
さて秋葉神社からとって返し、国道を南に進みましょう。拡張された道路には立派な歩道もつき、古道の雰囲気は全くありません。ま、仕方ないところです。東海バスの車庫がある辺りは金原(かなばら)地区といいますが、この辺は旧道を拡張して道を作ったのではないでしょうか。

旧道と国道との合流点です
ケーキ屋「フォンテーヌ」やカラオケ「テイク1」を過ぎますと、道は銭瓶峠に向かって緩やかな上りになります。
その途中、パチンコ店の手前に、祠に納められたお地蔵様があります。

銭瓶峠の方から振り返って撮った画像です

何を供養するために立てられたお地蔵様でしょうねぇ
今回初めて歩を止めてよく見てみました。よだれかけを付けているのでよく分かりませんが、お顔はセメントで作ったような…、ん? セメント? 一度お顔がなくなって、それを補修したのでしょうか。体の部分は石で作ってあるようですが、どうもはっきりしません。 修繕をした時に浄財を寄付した人たちの名が列記してありますので、この辺では知られたお地蔵様なのでしょうか。そのそもの由来は何でしょう。調べてみる必要がありますねー。
珍しいもの
この「お巡りさん人形」は、かなり昔からあったような気がします。私が高校生の頃だったでしょうか。
交通事故が多発した1980年代には、この手の人形があちこちに設置されたように覚えています。しかし老朽化したり道路が拡張されたりした時に一つ、また一つと撤去され、下田で残っているのはここだけではないかと思います。

「そこのドライバー、停まりなさい!」って、あなた誤解されるよー(キャンディーを食べているようにも見えるけど)
でもこの人形、実は問題があるんです。ほら、笛を鳴らす仕草をしているでしょう? 人形を設置した当時の規約では、何も動作をしていない、直立人形でなければならなかったそうです。だって、運転中の人がこの人形を本物のお巡りさんと見間違え、「あっ、おまわりさんが私を見て笛を吹いている。停止しなくちゃ。」とブレーキを踏んでご覧なさい。その後ろの車に追突されかねません。 交通事故防止のためのお巡りさん人形によって交通事故が起きる…。 これでは本末転倒というものです。
が、歴史の証人として、この「ぴーぽ君人形」(あ、違った)にはいつまでもこの地にいてほしいものです。
湊の海軍病院とは
ところで、吉佐美地区を貫く広い道が元は湊の海軍病院へ行くための道だったということに触れましたが、海軍病院とはどんな病院だったのでしょう。 聞けば、今でも建物が残っているというではありませんか。 では、行ってみましょうか。
銭瓶峠を越えて竹麻小学校の前を通り、弓ヶ浜大橋の前をかすめて弓ヶ浜へ行きます。 浜の手前、現在は国立湊病院になっている敷地に入りますと…、おお、これですね。奥の方に建物がありました。
うーん、大きい。巨大なお化け屋敷という感じです。

ツタがからみたい放題です
近くに寄ると、昔の学校という雰囲気です。
さくらの木も植えてあるし
板張りの壁が懐かしいです。

病院と学校は似ていたんですよね
あれ? ドアが開いています。ちょっと覗いてみましょうか。

ちらっ、 シャッター パシャ! 今は物置になっているのか…
これ、本当に戦時中からの建物でしょうか。一度改築されているのかもしれません。調べてみれば分かるでしょうけど。
次に吉佐美の浜の方へ行ってみる |