葉

そうだ、吉佐美、行こう! 2
探訪2005年7月24日
 
 さて、鍋田から元の国道に戻り、吉佐美方面へ探索を続けることにしましょう。

峠の切り通し
 鍋田浜から引き返し、再び国道に戻りますと、道はやがて「下田第2隧道」をくぐります。ここも親子隧道なんです。
 じきに道は左右に大きく開けた切り通しを通ります。
 古い資料本『伊豆の傳説』によりますと、ここはかつて隧道が通っていたような事が書いてありました。
 古い地図を見てみたところ、確かにここは隧道だったようです。


  昔はトンネルだった切り通し この辺りから朝日小学校区になります

峠の地蔵様
 広い切り通しを過ぎますと、道は緩やかな下りになります。その最初の民家の入り口に、祠に納められたお地蔵様が立っています。
 
後で聞いた話ですが、このお地蔵様はかつて切り通しのある峠付近にあったそうで、この下の家でこちらに移動して祀っているということでした。信心深いお宅なんですね。


  お地蔵様と石祠 下の家の方が由来を知っていそうです

ここは旧道?
 やがて道がいったん下り切ったところに、多々戸入り口の信号があります。その手前、ここの画像をご覧ください。信号の手前が深い沢になり、その前に右に入る細い道があります。勘のよい読者の方はピンと来たでしょう。そう、旧道は谷を真っ直ぐ渡らず、右手に山裾を巻いて進んでいたのです。
 また、ここが旧道であることには確証がありました。この先にある旧家の方が、ここが古道であることを教えてくださってあったのです。ではそちらをご案内します。



  右手に入るのが、昔のバス通り 旧道です


      旧道の雰囲気がぷんぷんします

防空壕と富士ラビット号
 旧道に入ってすぐのところに、防空壕がぽっかり口を開けています。中を覗きますと、中は左右に二室あり、かなり奥が深そうです。実は吉佐美地区にはこうした防空壕の跡が至るところにあるのです。ちょっと気をつけて歩けば、山裾などに開けられた穴に気がつくことでしょう。


     防空壕跡 中にはゴミが散乱しています

 その後、旧道は国道とやや離れたところを並行になって沢を渡ります。橋ではなく、土を盛って道にしたような感じです。

 その手前、なまこ壁のある民家に、古いスクーターが停まっています。ここのおじいさんが現役で乗っている、富士重工製「ラビット」ですね、これは。10年ほど前までは、下田の荒木医院の先生ちにもこれの大きいのが2台あって、往診に使っていたようですが、今はもう見られません。おじいさんのは貴重な一台です。(でもまだパーツが供給されているのかな?)


 
「そのラビットください」などと訪ねていかないこと!


      ここを昔はバスが通ったんですね…

道は再び国道へ
 沢を渡った旧道は、T字路に突き当たります。ここを右に行くと、一本上の旧道として下田や吉佐美につながります。そちらの探索はまだ後日。ここでの旧道はT字路を左折して、現国道へと接続します。


        
間もなくこの先で国道に戻ります
 
峠の切り通し
 今私がみなさんと歩いているのは、昭和の時代、バスが走った旧道です。ここの部分は、ちょっとだけ谷間を迂回して、すぐにまた現国道に合流します。
 以前話を伺った時は勘違いしてしまい、民宿「美波荘」の辺りから山に入って峠を越えるのかな? と思っていたのですが、そうではなかったのです。(旧道は、食堂「喜作」の脇へ出て国道につながります。)

 まだ私が勘違いしている間、美波荘の脇を山の方に入ってしまったので、ちょうど納屋でトマトの選別をしているここのひいおじいちゃんちに話を伺ってみました。
 そのお話によりますと…

「旧道は、美波荘の入り口前を通って谷間を迂回している部分のみ残っている。後の部分は拡張され、現国道と同じルートである。」

「これから行く峠は、切り通しで越えている。その後、大川モータースやお地蔵様の前を通り、(ここからが新しい情報!)民宿「和小路」の前を通って「小川建設」の裏を回り、「いんぼ地蔵」の前に至る。」

「いんぼ地蔵からは、また山裾に沿って進み、「忠魂碑」の前を通って、一旦、現国道から離れ、やがて合流して、「白坂」を下る。」

「その後、駐在所辺りで右(北)に外れ、酒屋「せどみち」の前を通って、西に延びていく。」

 地名ばかりでは地元以外の方には分かりにくいですね。いずれ地図をアップしないと…。


  いろいろ話を聞かせていただきました

 
ここで伺った話は、戦前、バスが通い始めた頃の話のようです。よく聞くのは、戦時中に、南伊豆町の湊に海軍病院ができたため、いきなり広い道路が作られて、現国道が出現した、ということです。本当に土地のお年寄りからは必ずと言っていいほど、その「海軍道路」の話が出ます。

 食堂「喜作」の脇で国道と合流しますと、左右の高い切り通しで峠を越えます。この近くで「峠」という屋号のお宅があり、貴重な古い品々を大事に保管しておられます。昔のお話も聞かせていただけるので、ありがたいことです。


      右に大きくカーブした切り通しで峠を越えます

喜作食堂
 
旧道から国道に戻るところに、喜作食堂があります。
 
以前からここを通りたびに看板の「手打ちラーメン」という文字にひかれていました。私は蕎麦と同じくらいラーメンが好きなのですが、前からずっと思っていました。スープの旨いラーメン店はあっても、麺のうまい店は少ない! たいていのお店が機械打ちの縮れ麺を使っており、私にはイマイチなんですよねー。 という訳で、(探索の帰り道に)寄ってみました。


       
多々戸の信号脇 木曜定休

 そうしたら、麺良し、スープ良し、お店の接客も良しで、満足できました。思わずスープも全部飲んでしまいましたから。古道探索も時にはこんな楽しみがないとね。


      
ラーメン 530円 んまー!

峠の地蔵様
 生コンの工場を左に見るところ、そこが峠の部分です。昔はもっと路面が高かったのかな、江戸期の古道はどこにあったのだろう、などと思いますが、この辺りは歩道が片側しかなく、しかも極端に狭い(というより側溝の上を歩くかたち)ので、環境は悪いです。撮影の際も命がけでした。夏休みなので通過車両が多いですからね。

 右にカーブしながら切り通しを越えて、僅かに下ると、右に立派な兵隊さんのお墓が立っています。その先、石丁場跡のように岩肌がくりぬかれたところに、数体のお地蔵様が立っています。


   一番高いお地蔵様で高さ80cmほど

 立っている環境が悪いせいか、剥落などが見られ、銘が読みにくくなっています。
 向かって左から3つ目のお地蔵様の光背には、「六十六部」「當村笹本氏」などと彫られています。「六十六部」とは、六部とも言い、六十六部廻国聖のことを指します。これは、日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者のことです。ですから、この地に巡礼者が来たことを記念して立てた廻国塔なのかもしれません。

山裾を通った旧道
 この辺は国道がS字のカーブを描いて西進しています。旧道は、民宿「和小路」の方へ入り、小川を渡って山裾を大回りして入田の方へ続いていたそうです。そちらに行ってみましたが、今は小川建設の資材置き場になっていて、道らしき跡は認められませんでした。


    カーブミラーを右に入ると旧道です


  そして旧道はぐるりと山裾を回っていたそうです


 S字カーブの内側ですが、この辺にも歩く方の古道はあったでしょうね

いんぼ地蔵様と供養塔
 その旧道があったという所と国道が合わさる所に、大きな石塔と、見逃しがちですが小さなお地蔵様が祀られています。


       草が刈られ、きれいにお世話されています いったいどなたが…

 中央の自然石を利用した大きい石塔は、「奉請普門品一万養…」と彫ってあります。基部が土に埋まっているためこれ以上読めませんが、まだ文字は下に続いているようです。何を供養するために建てられたかは分かりません。

 もう一つの石柱型の塔には、前面と両側面にそれぞれ「明治七年」「奉請普門品一萬養供養塔」「奉請清水霊石白衣観世音菩薩」と刻んであります。発起人の名が十数名刻まれています。「進士」や「笹本」「土屋」が多いので、土地の人々ですね。いずれ古老に尋ねてみることにしましょう。

 さてそのお隣、小さなお地蔵様は、「いんぼ地蔵」さまだそうです。稲梓の箕作にも「いんぼ地蔵」さまがありますね。お地蔵様の意匠は大分違いますが。


   ほほえんだようなお顔をされているいんぼ地蔵様ですね

 言い伝えとしては、やはりイボができた時に、お地蔵様の前の石を一つ拾って持ち帰り、イボをこすって治したそうです。治ったらその石ともう一つ別の石を持ってお礼参りをし、2つの石を置いてくるのだそうです。

 この話を教えてくれたのは、屋号「峠」の奥様で、嫁いできた時のおばあちゃんが若い頃から既にこの話が伝えられていたそうです。

 おばあちゃんのお話では、

「自分が小さい頃、イボが顔にあって、そのイボが取れるようにと、自分のおばあさんがこのお地蔵さんの石を借りてきてはそのイボをこすっては返し、そこで拝み、また借りてはこすり…を繰り返して治ったんだよ。だから『いんぼ地蔵』と言ったものだよ。」

ということです。そのおばあちゃんは大正十年生まれだそうなので、そのさらにおばあちゃんですから、江戸末期の方、ということになります。昔から伝わる民間信仰。いい話です。

 でも今はお参りする人はいないでしょうね。だってイボのある子なんて見ませんもの。いんぼ地蔵様はお仕事あがったりでしょうけど、忘れられることなく身の回りがきれいにされているので、いつまでもこの地にあって大事にされることを祈るばかりです。

そして入田へと
 国道がS字カーブを曲がりきる辺りで、山裾に入る古道が見られます。もはや道としての機能はありませんが、昔は田んぼが広がっていたのでしょう。道はその田んぼを巡る形で山の際を通っていたのだと思います。


      旧道は、電柱と白い看板の間を進んでいたそうです

 先のおじいさんに聞いた忠魂碑ですが、個人宅が管理しているようで、国道からちょっと入った所に、きれいに管理されて立っています。


    忠魂碑 「發起人 朝日村令会 賛助 朝日村 奨兵會」

 旧道はこの先に一部残っておりますので、次にそちらへ入ってみることにしましょう。

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