雪に魅せられて
2008年2月上旬、週末になると雪が降る、という珍しい現象が伊豆に起こった。伊豆半島に降り積もった雪は天城峠や梅の木平などを中心に陸上交通機関を麻痺させたが、それら以外の幾多の山々にもその衣を広げ、木々や山肌を神々しいまでに白く染めたのだった。
2月10日の土曜日。天気予報では、「今夜から雪が降り、山間部では10cm以上積もるでしょう。」と言っている。ちょうどこの週は3連休なので、中日の日曜日は都合がいい。どこか古道探索に行きたいが、どこにしよう。そんな試案をする中、心は雪の十郎に魅せられていた。
実は1週間前の月曜日に登ったkawaさんが、十郎左ェ門の山頂(正しくは山頂直下にある通称“テラス”)から、それはそれは見事な雪景色の写真を撮影されたのだ。もしかしたら今週も同じような景色が見られるかも知れない。私もあのような写真を撮りたい。そんな願いがあった。
でも私が十郎に登った経験はまだ2度しかない。それも、先輩方に連れて行ったもらっての「お気楽登山」だった。地図読みもルートファインディングも未経験だ。
頼りになるのは、秋にkawaとらいおんさんと荻乗さんと一緒に登った時の記憶と経験だ。大鍋越えの林道から最短距離を登って、1時間強で山頂に着いた。そのルートなら、まだ記憶に鮮明なので、行ける。行って、雪の十郎や伊豆の山々の写真を撮りたい。そう思った。
しかしkawaさんもらいおんさんも当日はお仕事のご様子。荻乗さんも河津桜のシーズンでは多忙であられよう。M氏とKAZU氏は私の遙か上のレベルを行く山歩きのエキスパート、とても着いて歩けない。
となると、単独行ではないか。行けるか、行けるのか!? 私一人で? しかし行動しないことには次のステップはない。
前夜、私は荷物をザックに詰めて、早めに就寝した。
2月10日
明けて2月10日。玄関を開けてまだ暗い外を見ると、夜空には星が出ている。満天の星空ではないが、晴天は期待できそうだ。
シャリバテ(お腹がすいて血糖値が下がり、歩けなくなること)に備えて、いつになくたくさん朝食を摂った。カメラも2台持ち、バッテリーの予備も持った。GSPも装備。手袋やスパッツ、着替えも予備を入れた。
午前5時30分、パジェミ号のキーをひねり、出発。筏場の7−11で飲み物を補給し、県道155号線を一路大鍋へと走った。
午前6時過ぎ、大鍋の集落に入り、林道へと乗り入れる。夜明けと共に、徐々に空が明るくなってきた。しかし、雪は…ない。仰ぎ見る山肌にも、着雪はない。おかしいなあ…。

結構標高が高いところのに、雪がない〜
30分後、林道の分岐に到着したが、あれれ? M氏KAZU氏の乗ってきたはずの車がない! 氏達は雪の少ないのを看破して、山行計画を変更したのだろうか。

ぽつんと置かれたパジェミ号
車を置いて身支度をし、歩き出す。これからの単独行に胸はワクワク、ドキドキ…。自ずと歩調も早くなる。
いつもの“朝日ビューポイント”からは、夜明け後の薄朱色の朝日が見えた。

静かな夜明けである 今のところは…
林道分岐のゲートから歩くこと20分。山道への取り付きに着いた。横浜ナンバーのワンボックスカーが止まっている。ゲートを開けてここまで入り込んできたのだろう。

前回も入りこんでいたような…
歩き出す
GPSの“MARK”を押してトラックに印を打った。
しかし、ここでひとつ失敗を犯していた。実は、前回の十郎登山ルートの記録を消してしまってあったのだ。ということは、せっかくGPSを持っているのに道案内をさせることができないのだ。これがあとあとあの失態に通じるとは…。
この時点での私の思惑はこうだ。
山道に入ったら、杉林の中の斜面を登っていく。左手に沢が見えてくるので、渡ってから向こう側の尾根に取り付く。そこからは左右に迷い込まずに尾根を辿っていけば、十郎左ェ門の頂に到着するというわけだ。これで間違いはないはずだったのだが…。
歩き始めてまもなく、こんな木橋を渡る。一部が朽ちているので、ちょっと怖い。

まだ暗いのでブレてしまった
斜面につけられた道を歩いて徐々に標高を上げていく。
この辺の道には覚えがあったつもりだが…
やがて沢が見えた。慎重に降りて、徒渉。向こう側の山肌に取り付いて、斜めに上がり、尾根筋に入った。ここからは尾根筋を外さないように歩いていけば、十郎の山頂に立つはずである。

ここで沢を渡る…というのも合っていたはず
沢を渡ったら、対岸の尾根筋に向かって巻き道を歩いていく。
これも見覚えのある道、のはずだった
そして計画通り、尾根に取り付いた。と、それは前回に登った時と同じルートと同じと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。ここで今回の山行は歯車が大きく狂い始めたのだ。

前回歩いた尾根の道もこんな感じだったんです…(本人弁)
山仕事道との交差点
しかし、どこかおかしい。確かにこの前歩いた道のはずである。が、こんなところ、あっただろうか。

尾根道のある箇所はこんな風になっていた
杉林の中の尾根を歩いていると、左右から等高線に沿うようにして私の進路を横切る道がある。登山道ではなく、炭焼きや木々の伐採が盛んに行われていた当時の作業道であろう。

明らかな踏み跡と出会った 道である
道は尾根を巻くようにして東西に延びている。こうした道を、GPSを携帯して歩き回れば、この辺りの山道事情をもっとよく知ることができるだろう。それもまた面白い山の歩き方かも知れない。でも私は…。

こういう道がかなりある模様だ
この道がどこにつながっているのか、歩いて見てみることができたら嬉しいのだが…、とそんなのんんきなことを思いながら歩いていたのだが、この時すでに私は「道を間違える」という致命的な過ちを犯し、違う道(間違った道、ということではなく)を既にかなり歩いてしまっていたのだ。
GPSを携行していながら!
どうやらこういうルートをとってしまったらしい…
デジャブ
私の場合、困ったことがある。“デジャブ”である。
(あ、ここ、通ったことがある。)と思うのだが、それがはるか昔のことなのか、つい10秒前に見た風景なのか、分からなくなるのだ。私はこれを“困ったデジャヴ”と呼んでいる。目の前の景色は、先月歩いた時のそれと同じだろうか? そうならこの道でいいはず。でも“困ったデジャヴ”だったらどうしよう。

この木、前回来た時もあったようななかったような…
この時は、おそらくは通ったことのある道だろうと合点して行ったのだが…。
森林に潜む危険な罠
構わず進んだ。途中で十郎の山容が杉林の間から見えた。
しかし十郎方面の写真を撮って進行方向を向いた時だ。いきなり左の眉間に痛みが走った。
「グサッ! 痛っ!」
見ると、杉の木の幹から細く短い枝が出ていて、こちらに伸びている。
危なかった…。ちょっと位置がずれていれば、枝は私の眼球を直撃し、下手をすれば失明していたことだろう。登山道に潜む危険な罠。気をつけなければいけない。

この枝で額を傷つけた ちょっとずれていれば目ン玉直撃! 恐いことだ
そうこうして歩いていると、一旦小ピークを越えたところにまた巻き道が現れた。おかしい。横切った巻き道が2つある。2つ、って・・・、そんなに道があっただろうか。それに、小ピークを下ることも前回はなかったように記憶しているゾ。
さすがのボケた私も、この頃には道が違うことに気づき始めていた。

小ピークから見下ろしたコル また道がある・・・
雪の出現
標高を上げるうち、徐々に雪が見られるようになってきた。

ようやく雪が見られるようになってきた
谷や沢筋だけに見られていた積雪はやがて尾根道をも白く染めるようになり、私は雪を踏み締めて歩くようになった。左手に時々見える十郎にも着雪はしているようだ。
十郎が見えているので、(あ、あそこに行けばいいんだ)と思った。ただ単純に。

うっすらと十郎左ェ門の姿が見えている
と、ここでまた巻き道と交差した。これで3つ目だ。

十郎左ェ門の周りにはこうした道がたくさんあるのかもしれない
やがて尾根道には雪が目立つようになり、靴の踵が徐々に埋まるようになってきた。

雪が白くぼやけて写った ハレーションかレンズの曇りか?
どんどん上がる標高。と、ようやくおかしな事に気がついた。(ここはどこ?)と思うような小ピークに着いたのだ。おまけに、道が左右2つに分かれている。こんなところはさすがに記憶にない。気がつくと、十郎がやけに左手(西)に見える。
ゾ、ゾーーーーッ!
・
・
・
道、間違えたかも
ここはどちらへ進もうか。肝心のGPSにはトラックバックのためのルートは入れてない。コンパスも持っていない。地図はあるが、縮尺が2万5千分の一なので、細かいルートは分からない。完敗だ・・・。
とりあえず十郎の見える方に歩き始めたが、谷が深く落ち込んでいるので、引き返した。その左の谷の向こうにある尾根が、前回歩いたところか。
右手の方に尾根が続いているようだ。
雪は既に脛に達するほど積もっている。半ばラッセルするようにして、進んだ。
不幸中の幸い
しかし幸いだったのは、今日の天候が晴れて無風だったことだ。
普通、風速が1m強くなると体感気温は1℃低くなると言う。しかし今日はそれがない。おまけに日中の気温は上がると天気予報が流していた。森に積もった雪が溶け、雨音のような大きな音を立てて山肌に落ちている。
そして道端の木にくくりつけてあった、この赤いテープ。ここが頂上に至る道であることをはっきり示している、と思った。道は間違っているが、歩いていってもよい、ということだと思った。

赤いテープに勇気づけられた
尾根道が東に延び、北へ反転したところに、こんな石標があった。

大きさは縦20cm×横20cm×高さ40cmぐらいか
文字の彫りが浅い上、若干の風化もあるが、かろうじて「大鍋」「村」などと読める。
しかしその石標の存在は、取りも直さずこの道が私にとって初めて通る道であることを明白に示していた。
南の面には「村・・・」と彫ってある
さあ、どうする。戻るか。でも十郎はそこに見えている。この尾根を行けば辿り着くことはできそうだ。
行くは勇気。戻るも勇気。「冒険=無謀」ではない。むむむ・・・。
しかし私の心はこの時、未知の道にあって既にハイになっていた。突き動かされるように、何かに引き込まれるように、先へ先へと歩を進めた。いや、そのように脚が動いていたのだ。それを私の中に潜む野生と呼ぶには、安易すぎる。何だか分からない、湧き上がる気持ちの源流のようなもの、とでも言えようか…。

白い尾根がさらに奥へと私を導いていった
行くことにしたのである。ここで戻るのは敗退である。なぜなら、雪道には私の足跡がくっきり残っているからだ。危険を感じて戻ると決めた時、この自分の足跡を辿れば戻ることができるはずだ。そう考えたのである。
現れる十郎の本性
雪の尾根は、石標を過ぎてもしばらくは私に道を与えていた。

雪の下にはきっと踏み跡があるのだろう
しかし・・・、石標から100歩ほど進んだところで、私は行き先を失った。目の前にあるのは、白い壁だけであった。
それは雪の十郎左ェ門が私に与えた鮮烈な試練であった。十郎は目の前にそびえている。しかし道はない。戻るには奥まで来すぎたのだ。

十郎左ェ門の頂は、しかしなかなか近づいてこない!
少し登れば、本来の尾根に出るかも知れない。幸いにもこの雪は重い質量を持っており、アイゼンをつけていない登山靴でもかなりきちんと受け止めてくれる。これまでしてきたように、木の根や枝をつかんで這い上がれば、新しい局面が開けるかも知れない。そう思った。
変わる局面
しかしこの辺りから、木々から落下する雪の量が増えてきた。気温の上昇に伴って融雪が進み、木の枝の保持を振り払って雪が一斉に落下してきたのだ。もはやカメラの写りはこの通り。フィルターの内側にも水分が進入したのだろう、部分的に曇ってしまった。
木々への着雪量が急に増えたと思ったら、落雪も一気に増えた
雪に足がかりを求め、生きた木の感触を手に確かめながら、懸垂をするように重い体を引き上げて雪の壁をよじ登った。ここに足跡を残して起きさえすれば、最悪ここから戻るとしても大丈夫だろう。
しかし現れたのだ、こ奴が。頂上を極めんとする私の前に、白い巨体を持って立ちはだかる岩壁が…。

その姿は、まるで“白い仁王さま”であった
そして尾根道は・・・消えた。
雪の十郎左ェ門が、初めてその牙を剥いたのだ!
「雪の十郎左ェ門に彷徨う〜2」に続く
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