“世界で一番小さな鉄道”
豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)、それは明治29年に営業を開始した、小田原と熱海を結ぶ鉄道です。人車の名の通り、人が客車を押して線路上を運行したそうです。そんなことが人力でできるのかとお思いでしょうが、人車鉄道は実在したのです。
一両あたりの旅客数は6人または8人で、その客車を3人の車夫で押したといいます。なお、当時の東海道線(明治22年に神戸まで開通)は御殿場経由だったため、この人車鉄道は東海道線の支線として敷設されたのではありません。
丹那トンネルが箱根の山を貫いて東海道線が熱海経由になったのは1934(昭和9)年ですから、それとは別に、保養地としての熱海を訪れる財政界の大人物や文人がたやすく行き来できるようにと作られたそうです。
そんなことを知り始めた折、熱海歩こう会が主催する「豆相人車鉄道跡ウォーキング」が行われることを伊豆新聞で読みました。これは願ってもない企画です。問い合わせ先(会長さんでしょうか)に電話すると、「誰でも参加できます。申し込みは現地にて」とのことでした。
かくて2008年3月16日の日曜日、熱海から小田原まで、人車鉄道の跡をたどって歩く30kmウオーキングに参加しました。
出発
熱海まで車で行くか電車で行くか迷いましたが、職場のウサギに餌をやりに行かなければならなかったので、時間に余裕を持つことのできる電車で行くことにしました。

7時10分下田発の電車に乗りました
稲梓辺りは霧に包まれていましたが、その他は快晴です。8時42分着の電車を降りて熱海駅に立ちますと、駅前の軽便鉄道モニュメントの前で受付をしていました。さっそく申込用紙に氏名や住所を記入し、300円を払ってメンバーの一員になりました。

この一団が歩こう会のメンバーでしょう
受付に申し込みをする時、財布を忘れて困っているご婦人がおられたので、300円と飲み物代1,000円をお貸ししました。横浜からおいでになったそうですが、電車はSuicaで乗れるのだそうです。いつもリュックに入れている財布を置いてきたそうで…。困った時はお互い様ですから。
参加者総数は35人ぐらいでしょうか、ほとんどは熟年の方々で、ちらほら小さな子供達も親子連れで混じっています。中には、杖をついたご高齢の方もおられます。大丈夫なのでしょうか。この方は、何と91歳とのことです。最年少はたぶん就学前の男の子でしょう。下田からも知った顔の中学生がお母さんと一緒に参加しています。

駅前に展示してある軽便鉄道の機関車
駅前の歩道を占拠して、準備体操をします。

“組体操”もやらされたので、恥ずかしかったじょ
出発〜
9時になりました。いよいよ歩き始めます。あれれ、熱海駅が人車鉄道の起点ではないのでしょうか。リーダーは駅前アーケードを通り越して、海の方へ下っていきます。

熱海のこの辺りは活気があります
かなり下って行き着いたのは、南明荘という大きな旅館です。その玄関前に「豆相人車鉄道熱海駅跡」という記念プレートがあります。ここが今日の出発点です。るほど、この辺りが熱海の中心地だったのでしょう。観光客の利便を図って駅の位置を決めたのでしょうね。
後で知ったことですが、南明ホテルのロビーには人車鉄道に関する展示があるそうなので、次回は訪ねてみることにしましょう。

ホテルの前に記念プレートがあります

立派なプレートです
説明板もあります
案内役の方が、仰いました。
「ここが今日のウオーキングの出発点です。これからところどころに駅の跡などがありますが、早足で行きますので、ゆっくり見ることはできません。今日は下見だと思って、後日、改めて見てください。」
うーん、下見ですか。それだけ急ぎ旅になるのでしょ。恐るべし、30km。果たして私は歩き通すことができるでしょうか。不安です。

裏路地が鉄道跡になっています
華やかな熱海の街も、一歩裏に入れば、こうした昭和テイストが漂っています。

錆びた看板と新しいビルとがミスマッチ・・・
人車鉄道跡は、そのほとんどが現在の車道に吸収されていますので、線路や駅舎の跡は見られないそうです。
海側の道を歩く
国道135号線に出ました。人車鉄道もこの国道を通っていたそうです。もちろん当時はこんなに広く立派な道ではなかったそうです。

みなさんひたすら歩いています
今日はいい天気なので、南伊豆方面に行くツーリングライダーが目立ちます。バイクはかっこいいです〜。

ハーレー軍団がたくさん通り過ぎました
途中、馬頭観音が歩道脇に設置されていました。でも立ち止まって銘を読んだり写真を撮ったりするのは至難の業です。ゆっくりしていると置いていかれてしまうからです。みなさん、それほどに速く歩いているのです。

銘をゆっくり読めないのが残念
伊豆山駅跡
車で行く時はいつも熱海ビーチラインを通るので、この辺りのことはよく分かりません。やや古い街並みの見られる所に来ました。

いつもは通らない道です どこ?
と、熱海子爵所の出張所の壁に、記念の説明プレートが貼ってありました。

こんなところに記念プレートが
伊豆山駅がここにあったそうです。

「この辺りだったとされています」という記述が泣かせます 誰も知らないんだ…
道の傍らを、スーパービュー踊り子号が通り過ぎていきます。111年の時を隔てて…。

徒歩と人車鉄道とスーパービューが交差します
途中で道端に立っていた石碑は、昭和前期にこのちかくの東海道本線の工事で起きた事故で亡くなった線路工夫の慰霊碑だということです。表面が剥落しているので、銘が読めません。知っている人が説明しないと何の石碑なのか分からなくなるなんて、時代の流れというものでしょう。

鉄道工夫殉職の碑ということです(右)
探索したい!
歩き始めて1時間半ぐらいでしたでしょうか、伴走車から会長さんが降りてきて説明をしてくれました。人車鉄道はこの辺りで今の道路を離れ、下の道との中間を進んでいたそうです。昭和30年代までは線路敷きが確認できたそうですが、今では薮に埋もれてしまい、それを確認することはできないそうです。うーん、人車鉄道跡探索ツアーならその部分こそが探してみたい所なのでしょうけど…。残念です。また来るか?!

「この辺りで線路は上の道とした野道の間を進んでいたんですよ」
歩きながらの説明ですので、あわてて振り返って写真を撮りました。何だか下に降りていく道がありますが、そちらなのでしょうか。行ってみたいなー。

下に降りていく道が見えます そっち?
ところで、史跡巡りのウオーキングでは大事なことがあります。それは、なるべく列の先頭を歩くことです。先頭を歩いていれば全体のペースがつかみやすく、遅れることはありません。それに案内役の人の話をよく聞くことができます。情報を得ることができるのです。
今回も、案内の人が道すがら話す思い出話などを聞くことができました。残念ながら駅舎跡などでしてくれる説明は、後尾の方を歩いている人たちには伝わらないことがありました。地元の人たちならよいかも知れませんが、私は初めて歩く道です。なるべく先頭近くを歩きました。
猛者たち
1時間半歩いてやっと休憩をとったのですが、だれものんびり休んではいません。リーダーが「ちょっと先を見てきます」と言って少し歩いていくと、少しでも先へ行きたいと思う人たちがついていくのです。すると他の人たちも追随するわけで、結局みなさんが歩き始めてしまいます。かくて休憩なしでウォーキング。すごい人たちだ…。
そうこうするうち、道は下から来る道路と合流しました。これは熱海ビーチラインではありませんか。ここまで来たんだー。感無量であります。(まだ先は長いのに)

熱海ビーチラインだ〜
前を行く参加者のリュックには、「早春○○ウォーク60km」という刺繍がしてあります。後で聞いた話ですが、60kmを12時間ほどかけて歩いたそうです。すごすぎる…。

60kmウォークだなんて、そんな…
湯河原へ
海沿いを走る現道から左折し、一本山側の細い道へ入りました。

昔の主要道はこちらなのでしょう
門川(もんがわ)駅跡
小さなオートバイ屋さんの前で皆さん何やら見ています。そこには案内プレートが道に嵌め込んでありました。

みなさん、何やら道を見ています
ここに門川駅があったそうです。

道にプレートを嵌め込むとは、良いアイデアかも
裏路地のようになった軌道跡を歩いていきます。途中、こんな古い建物がありました。これ、銀行の支店の建物だったんですかー?

横浜銀行湯河原支店って… これが?
もちろん皆さんは信じないで、「看板だけよそから持ってきてこの家の修理に使ったんだろうよ」と言っていましたが…。」
吉浜(よしはま)駅跡
線路跡は再び海沿いの道に出ました。海水浴場の近くにあるのは、吉浜駅の跡です。

やはり歩きながら見るだけです

駅のあった所のお宅が「テイシャバ」という屋号だった、と書いてあります
そのすぐ先に地蔵堂がありました。戸を冊子に付け替えて、今でも使っているような様子です。講があるのでしょうか。

地蔵堂の前にはお地蔵様がいます
ようやく真鶴駅へ
真鶴駅にたどりつきました。現在の駐輪場がある辺りに城口(じょうぐち)駅があったそうです。

ようやっと真鶴駅に着きました お腹空いた!

城口駅があったことを示すプレート

「城口駅があったと思われます」って・・・
ここで会長さんが説明をしてくれました。昭和35年頃、駅の裏にセメント工場を造る計画ができたのですが、その一部が鉄道敷きにかかり、そのことによって鉄道跡がなくなってしまうことが明らかになったそうです。
すると近所の人々が立ち上がり、「人車鉄道跡をつぶして工場を建てるのは絶対に反対する!」と抗議したそうです。わが町を通っていた人車鉄道の跡を人々は守りたかったのでしょう。工場側は譲歩をし、鉄道敷きは守られました。今では町道に姿を変えて残っているそうです。
いい話ですね。
昼食タイム
駅裏の湯河原町立真鶴中学校の校庭で昼食をとりました。ここから小田原まで20kmあるそうです。運動場では、少年野球のチームが、お母さんチームと対戦をしていました。きっとお別れ会のゲームなのでしょう。春3月は、そういう季節なのですね。
出発する時、参加者のお一人が「去年、一昨年と、中山道164km、奥州街道145km、日光街道129kmを歩いてきました。まだまだ行きますよ。」と話しておられます。
その方の年齢は、何と82歳とのこと! いやいやとてもお若く見え、80歳を越えているとは思いもしませんでした。まだまだやれますね。私も80歳を越えても歩きたいですし、車もオートバイも乗りたいです。元気で長生きするぞーっ!

82歳の方(左)と91歳の方(右) すごい!
やがて大きなセメント工場が見えてきました。この工場ですか…。

大きな工場の脇に…

路地があります ここが線路敷きだったそうです
この部分はパンフレットの地図とは異なるそうで、正しくはこの細い道を線路は上ってきたということです。会長さんだけが知る秘密?
やがて道は見晴らしのよいところに出ました。いつもは車で渡る海上橋が見えました。

あれは有料道路の橋ですね こう見るとすごい施設です
そして間もなく私の次ターゲットが見えました。これが見えるだろうと、密かに期待していたんです。

すでに知られてはいる廃隧道ですが
ある街でこんなお宅を発見。どんな車が入っているのでしょうか。まさかあひる号のお友達が?

こういう雰囲気、大好きです
山間部の旧道を行きます。辺りにはみかん畑が増えてきました。相模灘の温暖な海風と暖かな太陽の光を浴びて、みかんが黄色に色づいています。私が生まれ育った東伊豆町の風景と似ていますので、何となく懐かしい思いが胸に湧いてきました。

人車鉄道の時代も景色がよかったのでしょう
江之浦(えのうら)駅跡
再び街に入りますと、江之浦駅の跡がありました。跡といっても、プレートが嵌め込んであるだけです。

ほらここに、と会長さん
説明板を読むと、人車鉄道の線路はもっと山側にあったと書いてあります。現在の道路の上に線路があったのではないのですね。微妙に蛇行していたということなのでしょう。

道から70m山に入った所に駅があったそうです
採石場あり 丁場?
途中、採石場への道があり、「小松石」という石が名産であることが看板に書いてありました。石丁場は現役で稼働しているようです。古い丁場もきっと眠っていることでしょう。
足、痛い
残り18kmぐらいになって、足の裏が痛み始めてきました。ちょっとつらくなってきました。マメができているのかな、という感じです。足の裏をいたわるように、だましだまし歩いていきますが、大丈夫かな、私…。
日曜日の午後、伊豆での行楽から小田原方面に帰る車で有料道路は渋滞気味です。私たちの歩いている旧道へも、渋滞を嫌って迂回する車が入ってきます。そのたびに道路脇に身を寄せます。歩道がないので、危険きわまりなく、歩行者にやさしくない道路事情が災いしています。
根府川(ねぶかわ)駅跡
根府川駅の跡に着きました。眼下には東海道新幹線の線路が見えています。新旧の線路が交錯しているんです。歩いて軌道跡を訪ねている私には、隔絶の感があるように思いました。

バス停の脇にそれはありました
お客も降りて一緒に押した、あります
20km地点
20km地点は、JR根府川駅です。
根府川駅は、大正14年の関東大震災で駅舎もホームも海に流されました。駅の上下線にはそれぞれ列車が走行しており、それらの列車も地震によって海に流され、82人もの旅客が亡くなったそうです。と、地元からの参加者がみんなに話してくれました。
その関東大震災の被害によって、軽便鉄道に変わっていたこの豆相人車鉄道も復旧できずに廃線になったのですから、震災は様々なところに被害をもたらしたことが分かります。今は観光タクシーが客待ちをし、みかん売りの売店が黄色いみかんを並べているのですから、平和というのはありがたいものです。

JR根府川駅 まだまだこれからも行程は続きます
参加していた小学生の女の子が、みかんの売店で試食用に2つ割りにしてあるポンカンを見て、「このみかん、割れてるよ。割れてるよ、おばちゃん。」と指さしています。売店のお姉さんは「いいんだよ…。」と困惑した様子です。おもしろかった…。
小田原の街
ようやく小田原の街が遠くに見えました。でもまだあそこまで歩かなければならないんですね。もう私の足の痛みは限界に近く、足の裏を地面につけるのが辛くてたまりません。

足よ、あれが小田原の街だ…
それにしても同行の子供達は少しも弱音を吐きません。この頃はほんの5km程度の遠足でも歩きながら「あと何分〜?」「あと何km〜?」などと騒ぐ子供達が増えているのに、今日来ている子供達はさすがに目的意識を持っているだけあって、我慢強いです。やはり子供はこうでなくちゃ!
しかし残念! 小田原の街が遠くに見えたので期待したのですが、道は山間部に入って蛇行しています。等高線に沿って開かれた旧道の宿命でしょう。谷も向こう側に見える道が恨めしいです。足の裏の痛みに完全に泣きが入っている私です。

こんなに道が曲がりくねっているとは… そしてまだまだ先は長い!
米神(こめかみ)駅跡
徐々に会長さんの説明もなくなってきました。一行のお一人が見つけた案内プレートです。米神駅の跡だそうです。

こんな所にプレートが嵌め込んでありました。
いつもは渋滞に辟易しながら車で通る道が見えました。

東海道本線と並行して歩きます。貨物列車が吸い込まれていく先には見事な石巻きの隧道があるのですが、歩きながらは見ることができませんでした。残念。

機関車はEF65かニャ?
ようやく西湘バイパスの入り口へと辿り着きました。あともう少しです。ガンバ〜!

ようやく小田原の街の入り口に着きました ホッ…
早川駅
最後のトイレ休憩です。ここの駅舎には外トイレがないので、駅員さんに声をかけて、中のトイレを使わせていただきました。O・Kだったようです。ウオーキングにはトイレの心配がつきまとうので、できれば公的なトイレを要所に整備してほしいものです。
小田原港
人車鉄道跡をたどって、なぜか小田原の港へ来ました。資料によりますと、鉄道跡はこの港の湾口を横切るように敷かれていたそうです。ということは、港は明治時代以降に今の形になったということですね。

線路ははるか右の市場の方を通っていたそうです
港から離れて大きな橋を渡り、人車鉄道跡は市街地に入りました。
いきなり小田原駅跡へ
予定より35分早い午後3時55分。小田原駅跡につきました。こんなところにあったんですね。横断歩道橋の袂に、しっかりと案内記念板が立ててあります。参加者の皆さんは安堵の表情を見せ、互いに歩き通した健闘をたたえ合っています。私もとうとうここまで来たことで感無量でした。足は痛かったですけど…。

ここが小田原駅跡ですか〜 いきなり到着た感じです
駅跡には、ちゃんと記念標識が立っていました。皆さん、見入っています。

駅跡には記念の石柱がありました
一緒に歩いた子がモデルになってくれました。

石標の高さは1m30cmほど
解散、そして帰路へ
「小田原見物をしたい人もいるでしょうから、ここで解散しましょう。」
会長さんの提案により、小田原駅跡で皆さんは解散することになりました。こうして私の「熱海−小田原 豆相人車鉄道跡30kmウォーク」は終わりました。長かった…。

JR小田原駅までは、こんなトンネルをくぐっていきます
お金を貸して差し上げたご婦人が改めて挨拶しにきてくれました。横浜の方だそうですが、お一人で参加されたのも立派だと思います。
JR小田原駅までは、さらに10分ほど歩かなければなりません。中には「早くビールを飲みたいなあ。」という人もいます。私も飲みたいです。一人で痛い足を引きずるようにして線路沿いの道路とトンネルを通り、駅南に来ました。でもたらたら歩くのは嫌なので、早足で歩きました。辛かった…。
駅では何を家へのお土産にしようかと考えていましたが、即決しました。ミスドがあったからです。小さな店内で2K円ほどドーナツを買って帰ることにしました。
熱海から乗った帰りの電車では、先頭車両に乗りました。気持ちのよい席です。

「出発進行!」 運転士になった気分が味わえます
振り返って
今回のウオーキングでは「これは下見と考えてください」と言われたとおり、足早に記念プレートなどを見ただけですので、探索ではありませんでした。
途中で聞いた話ですが、湯河原駅の近くで水道工事をしたときに見つかったというレールは、今もどこかで保管されているそうです。担当者が交代して散逸しないためにも、レールはきちんと保存や展示をする必要があるでしょう。また、“失われた軌道敷き”をぜひとも見てみたいものだと思います。
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