汐汲坂にて
元町の商店街をしばらく歩き、汐汲坂の下へやってきました。

どこかに坂の名を示す標柱がないかと探したのですが、見当たりません。でもふと足元に目を落としますと、このような道標を兼ねた方位板が嵌め込んでありました。これも一つの良いアイデアだと思います。

「元町仲通り」と「汐汲坂通り」の方位板 CRAFTSMANSHIP
STREETSとも記されています
坂名の標柱はやはり立ててないようです。
でも坂下の蕎麦屋さんが、坂の名を入れた幟と暖簾を掲げてあります。ちょうどお昼に近いこともあり、つられるようにしてお店に入りました。
手打ちそば 汐汲坂 まつむら

こぢんまりとした店内
店内はテーブルが三卓、14席の小さなお店でした。700円のせいろを注文しましたが、お店のお姉さんが「大盛りもありますが?」と言うので、ついつられて大盛りを注文…。でも後から来て相席になったご夫婦の蕎麦を見たら、普通盛りでも十分のように思いました。(大盛りは+300円の値段でした。やっちまったなあ。)

せいろ 700円+大盛り300円
汐汲坂の由来
お勘定を払うとき、せっかくなのでお店のご主人に汐汲み坂の名前の由来を尋ねてみました。
「昔はこの川が入り江になっていて、坂を下って村人が塩水を汲みに来たからだそうですよ。」
と教えてくれました。坂の名前からしてその通りの由来があるのでしょう。その汲んだ海水を煮詰めて塩を作ったのでしょうね。

汐汲坂を下から見たところ
汐汲坂は上り始めると徐々に傾斜がきつくなるようです。

車よりも人の往来の方が多いような感じです。中程まで来て下を振り返ってみると、元町に向かって坂道が落ち込んでいるように続いているのが見えました。

振り返るのをやめて再び上り始めます。坂の途中には住宅が並んでいます。こんなところに住まいがあったら素敵でしょうすねぇ・・・。

間もなく汐汲坂を上りきります。坂の上は山手通なので、そこは日の当たる明るい高台になっているはずです。朝見た風景とはまた違った表情が見られるのでしょう。早く上がってみたくなりました。
間もなく汐汲坂を上りきります
山手通りを西へ
汐汲み坂を上り切って、山手通りに出ました。冬の陽光は低い角度で通りを照らし、建物や電柱の影を長く伸ばしています。ここからは西へと歩きます。

陽の光があふれる山手通り
山手通りは明治以降に外国人が入ってきてから開かれた土地と聞いていますが、経済的に豊かな人たちの住宅地になっているようで、高級そうな家々に高価な外国車がそこかしこに見られました。教会の建物も多いように感じられます。
乙女坂と桜坂
この辺りにはフェリス女子学院と山手女子高校があります。それら2つの学校の間を通る西坂は、いつしか乙女坂と呼ばれるようになったそうです。その西には桜坂があります。桜の咲く春にはどんな風景が見られるのでしょうか。

学校の敷地へと下りていきます

乙女坂は散歩コースにもなっているようです
残念ですが桜坂の写真は取り損ねました。

一方、山手通りの南にも坂があり、本牧につながっているそうです。この坂は、山手公園に向かう公園坂へと続いているようです。
公園坂への下り口です もちろんここも坂道です
本丸谷坂へ
地図を見ますと、次に元町へと下りる坂は本丸谷坂であるようです。本丸谷坂への下り口は私有地になっているらしく、車の進入を禁止している立て札がありました。

途中まで下りますと、下から観光客らしき人たちが上がってきて、丘の上への階段を上っていきます。そこに何かあるのでしょうか。

丘の上に何か建物があるようです
イタリア山の洋館
地図を見ますと、「外交官の家」という建物があるようです。ずいぶんストレートな名前ですが、どんなところなのか見てみたくなりましたので、私も行ってみることにしました。

丘の上には瀟洒な洋風建築の家が2棟建っていました。
白と緑を基調とした外壁を持つ1軒目の家は、ブラフ18番館です。関東大震災後に山手町45番地に建てられ、ここイタリア山庭園に移築された外国人住宅です。戦後は天主公教横浜地区(現カトリック横浜司教区)の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として平成3(1991)年まで使用され、平成5(1993)年から一般公開されているそうです。
館内は震災復興期(大正末期〜昭和初期)の外国人住宅の暮らしを再現し、元町で製作されていた当時の横浜家具を復元展示しています。


裏手に回りますと花が咲きそろった庭園があり、もう一軒、洋館がありました。

このブラウンを基調とした外壁の家が「外交官の家」です。ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などをつとめた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、東京渋谷の南平台に明治43(1910)年に建てられました。建物は木造2階建てで塔屋がつき、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。室内は1階に食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。平成9(1997)年に横浜市がこの館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園に移築復元し、一般公開しました。そして同年、国の重要文化財に指定されました。以上、資料より転記しました。(^^;)
室内は家具や調度類が再現され、当時の外交官の暮らしを体験できるようになっています。各展示室では、建物の特徴や外交官の暮らし等についての資料を展示しています。また、入口横には喫茶室が設けられています。坂巡りをして疲れたら丘の上の洋館でコーヒーをいただく…、よいお散歩コースができそうです。



洋館から坂を下って
日の当たるイタリア山は、とても居心地の良い丘でした。そこから再び坂を下って元町へと下ります。ここが本丸谷坂でしょう。住宅地をぐるりと回り込むようにして下っています。

途中にこうした坂名の標柱がありました。コンクリートでできています。

山の斜面に寄り添うようにして下っているのが本丸谷坂の姿、と言えましょう。

地蔵坂
元町商店街を西に歩きますと、次にあるのは地蔵坂です。

道幅は広く、車もたくさん往来しています。

と、ここで娘っコから着信があり、「もう遊園地は十分楽しんだから、下田に帰りたい。、車まで戻って来て。」との要請が…。駐車場までは歩いて1時間はかかります。となりますと、早く帰路につかないとなりません。
しかたなく写真を帰ろうと撮って坂を下りますと、橋のたもとに三尊のお地蔵様が安置してあるのが見えました。
由来書を読みますと、こう書いてありました。
「昔、人に追われてこの地にやってきた娘が助けを求めて村に入った。しかし娘は助けられる前に海に身を投じて命を絶った。翌日、坂にあるお地蔵様には海草がびっしりと着いていた。村人は娘を哀れみ、この史実を忘れまいとお地蔵様を厚くお世話をするようになった。」
しかし坂の途中にあったお地蔵様をお世話する講の人たちはみな歳をとってしまったため、坂を上ってお参りするのが難しくなりました。そこで数年前に坂からこの橋のたもとへとお地蔵様を移したのだそうです。このお地蔵様こそが、ここ地蔵坂の名前の由来になったお地蔵様でありました。

「地蔵坂」の由来となったお地蔵様
お地蔵様の傍らには、大正十二年当時の地蔵坂界隈の絵図などが展示してあります。石炭屋やミルクホールなど、いかにも大正時代らしい店の名が見られます。

まだまだ歩いていない坂や歩きたい坂はありましたが、勝手もできないので、車の場所まで戻ることにしました。地図を見ながらできるだけ直線になるコースを選びながら帰りました。

帰り道に見た横浜ランドマークタワーとヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
これで私の横浜 坂巡りは終わりです。
今日一日で歩いた坂は、横浜の坂のほんの一部です。山の手界隈だけでもこの3倍以上の坂があり、その多くに名前がついています。坂名の標識が立ててある坂があり、立っていない坂もありますが、それぞれがそれぞれの場所で人々の生活と共にあり続けてきた坂なのでしょう。またいつかこの地を訪ねてまだ歩いていない坂を見てみたいと思いました。
でも、しかし…
後日、横浜での坂の思い出を反芻しつつ、坂巡りをするきっかけになった物語を読み返してみました。
すると大変なことが分かりました。私はこの童話がてっきり横浜の坂道を舞台にしていると思っていたのですが、この物語は、神戸の坂での話だったのです。どうりで登場人物が関西弁で話す様子が描かれていますし、坂の上の洋館に風見鶏がある訳です。

こ、これ、神戸の写真だったんだ・・・
これでは次は神戸の坂を訪ねなければなりますまい。
神戸・・・、遠いです。そこにある坂を上ることができるのは、いつになるでしょうか。それまでせめて坂の景色を夢見ていることにしましょう。
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