明治の産業遺構を訪ねて
2007年の12月暮れに訪ねた東伊豆町稲取の水力発電所は、明治44年に作られたという。
明治44年・・・、発電所・・・、これらの言葉の響きには覚えがあった。伊豆市湯が島の市立図書館で鉱山関係の資料を探していた時、ある書物に「明治44年建造の梅木発電所水路橋」という言葉と写真があったのだ。
写真には、赤煉瓦で作られた水路橋が写っていた。残念ながら同じくレンガ造り建築の発電所は昭和5年の北伊豆地震で壊れてしまったというが、水路橋だけは被害を受けず、今も現役の橋として水を送り続けているという。
奇しくも同じ年に東伊豆町と伊豆市という離れた2カ所で発電所が建造されているのだ。これは何の因果か、いや、近代国家建設のために需要が高まったエネルギーの対策として、その年代に発電所の建設が各地で加速度的に行われていたということを物語る史実であろう。
これはもう訪ねてみるしかない、と思い、冬休みに入った23日(日)に出かけた。この日は午後6時から伊豆の国市長岡で行われる千住真理子さんのvlコンサートに行くことになっていたので、早めに家を出て立ち寄ることにしたのだ。
道、ワカラン
案内地図によって水路橋のおよその位置は分かった。しかし古い遺構だろうから、きっと山の中にあるに違いない。見つけることができるかな、不安なまま当日の出発を迎えた。
この日は伊豆高原で銘菓「ホールイン」を買ってきて、という次女のリクエストに応えるため、伊豆高原回り、中伊豆バイパス経由で梅木に向かうことにした。
しかし買ったばかりの簡易ナビシステムは「梅木発電所」というキーワードを受け付けない。仕方なく「梅木1番地」という住所指定にして出発したが、「ルートが違う」だの「ルートを切り替える」だの五月蠅いこと…。しょうがないので、終いにはこちらでスイッチを切ってしまった。
梅木の分岐、すなわち伊東と天城と修善寺への道が合流する地点までは今までの経験によって辿り着くことができた。しかしそこからの道は分からない。
ちょうど建設会社の人たちが道路工事をしていたので、中年の作業員さんに水道橋の位置を聞いてみた。しかし、「私たちはよそから来ているもので、分からないです」と言われてしまった。しかたなく勘に頼って市道を走っていった。

この景色のどこかに水路橋があるはずだ
今度は橋の袂に中年男性がいたので、聞いてみた。するとやはり年の功だ。知っているという。
「知ってますよー。この橋を渡って突きあたりを右に行き、後は道なりに進んでいくんですよ。途中の分かれ道では、右へ右へ行ってください。すると分かりますよ。」
と教えてくれた。ご主人、ありがとう。

雰囲気のよい田舎道が続く
初めて走る道は楽しい。辺りの景色を楽しみながら道なりにパジェミ号を走らせていくと、三叉路に石仏を見つけた。丸彫り単座像の僧の石仏である。道祖神であろう。傍らには光背型単立像の馬頭観音さまもある。
枦島(うつぎじま)のサイの神
近くの家でそうじをしているご婦人に由来を尋ねると、確かにそれはサイの神であり、毎年、正月と初午の日にお供え物を上げてお祀りをしているという。その時に地区名を聞くのを忘れてしまったが、後で地図を見ると、どうやらこの辺りは枦島という地域であることが分かった。故にこの石仏を「枦島のサイの神」としておく。

セオリー通り、ここからが集落の始まり、という辻にある

少し離して安置しているところがミソ?

まあるい意匠のサイの神様である

ちょっと傾いでいる馬頭観音様です

穏やかないいお顔をしてられます
突然の邂逅
そのご婦人に改めて水道橋について訪ねると、水道橋はその先に行けばすぐに分かる、と仰る。礼を述べて車を走らせると、緩やかな坂を下りきったところの左手に、突然、水道橋はその赤い姿を現した。ここか、ここにあったのか〜、これなんだ〜。それは周囲の景色とはやや不釣り合いな、重厚でどっしりと構えた威容を誇って横たわっていた。

おお、突然、現れたぞ こんな所にあったんだ〜 全然山の中じゃないじゃん!
うーん、明治期の鉄道トンネルを思わせる色やデザインである。

このアーチはどうだ。なぜかワクワク、ドキドキしてしまう。

案内板も設置されているが、意地悪な軽トラが前に停まっているので、読みづらい。残念〜!

そこの軽トラ、じゃま!
案内板より
「梅木発電所の水路橋(俗称 眼鏡橋)」
「明治四十四年(1911年)九月三十日、この地方の電力供給拠点として梅木発電所が設立された。当時の最新技術を導入した画期的な建造物で、本館建物と水路橋はすべてレンガで造られている。特にこの水路橋はアーチ型にレンガを積みあげたもので、俗称『眼鏡橋』と呼ばれる。そのモダンな形は一躍有名になり連日大勢の見物人が訪れ茶店が出るほど賑わったという。
昭和五年(1930年)の伊豆震災で、本館建物は崩壊し、その他の施設も大被害を受けたが、この眼鏡橋だけは無事に残ることができた。
翌年九月、発電機能は復旧し再開されたが、本館建物は木造に変わり、あの華麗なおもかげを再び見ることはできなくなった。しかし、眼鏡橋は現在もむかしのままの姿でその使命を果たしながら、多くの人びとに親しまれている。(伊豆市教育委員会)」(←案内板丸写し)
水路橋に登ろう
水路橋は今も現役で水を送り続けているというが、どんな様子なのだろう。ここはひとつ登ってみよう。
と、あなたは今、私が立入禁止の令を侵して水路橋の上に登ったと思われただろう?!
ざーんねんでした。水路橋にはちゃんと上って横断する歩道があります。そして水路橋を上から下から横からつぶさに観察というか、見学することができるのでした。

コンクリートの小径を上ってきた
でも水路には入れないように尖った手の爪がフェンスに取り付けられているけどネ。

やはり転落事故が起こっては困るからネ

これは水路橋の裏側 白く変色しているけど
こちらは水路に水が流れてくる上流側を撮影したところ。しまった、もっと上の方を辿ってみるべきだった。下手こいた〜。

この水がどこから流れてくるか、次回は確認しよう
傍らの畑には、これもまた古そうな水門があった。

今も使われているのかナ
そして何と、水路橋には通路が併設しており、歩いて渡ることができる。

ちょっとこわいけど、行ける!
併設されている歩道もまたレンガ造りである(当たり前か…)
しかし水路の内側だけは漏水予防のためか、コンクリートで覆われている。

水路を悠々と流れる水 水量は豊かである
道路からの高さは10mもないと思うが、かなり高く感じられる。

高く見えるのは広角レンズのいたずらもちょっと効いているけど
もうすぐ渡りきるところ。橋脚もやはりレンガ造りのようだ。いい感じ〜。

ずっと歩いていきたい感じがする
その先はどうなっているかと辿ってみると、水はコンクリートの曲がった水路を悠々とと流れていた。

この水はどこへ流れていくのだろう
水路橋を渡りきり、反対側の橋脚から降りた。
すぐそばの民家の人がアーチの下を農機具置き場にしている。ちょうどよい車庫かも知れないが、私有物なのかな…。東電の持ち物だと思うんだけど。それとも土地を貸している地主さんなのかな?

しかしここまで倉庫のように使わなくても…
私も車庫、ほしいな…。
アーチを一つ一つ、ゆっくり見てみた。

何か、東京駅あたりのレンガガードを思い出すんですけど…。

うーん、いい! まさに産業遺構! いや現役だから、遺構ではないのか・・・。

いくら見ていても見飽きない。

秋は赤いツタが這って、別の顔を見せてくれるのかな、この水路橋。

赤いレンガが温かい雰囲気を醸し出している
水の行方を追って
水路橋を渡った水は緩やかにカーブするコンクリートの水路をとうとうと流れていっていた。その先には何があるのだろう。あまり気にも留めていなかったが、車をその先に走らせると、そこには発電所があった。

伊豆市梅木発電所の全景
これは梅木発電所である。水路の先は、落下式の発電所につながっており、水は轟音を建ててタービンに導かれていた。
下の画像で手前に落ちていく水はオーバーフロー用のバイパス水路を流れていくとみた。

表流水だけが手前左の水路に導かれ、あとは奥の落下水路に流れていく

上を通るラダー橋はゴミをすくい上げて運ぶラインである
発電所内はもちろん立ち入り不可であるが、遠くからでもこのようなレンガ製の施設(アーチ式トンネルが見える)を垣間見ることができた。
そして何やら気になる石碑も建っている。おそらくは竣工記念碑か。はたまた事故の慰霊碑か…。

発電所も水路も、早めに落ちる夕日に赤く染まりつつあった。
ではコンサートに出かけようと、対岸に渡ると、畑の中にぽつんと石碑が建っているのが見えた。
近づいてみると、昭和34年に伊豆地方に未曾有の被害をもたらした狩野川台風による犠牲者を弔う慰霊塔であった。

実は伊豆市にはこうした慰霊碑があちらこちらにある
感慨を新たに
梅木の明治水路橋、それは人々の生活に溶け込みつつ、建設当時の面影を十分に伝えるほどよい保存状態が保たれていた。
人々は古くから水の力を利用して発電などに用い、エネルギーを得てきた。しかし別の面では水は恐ろしい存在でもあり、時には大災害をもたらして人々の生命や財産を奪っていく。人間の歴史はこうした水との戦いでもあったと言える。この水路橋がそうした人々の歴史を後世に伝えていくことを願って、この地を後にした。
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