葉

継立場・箕作へ
 探訪 しょっちゅう
 
 清水坂を越えた辺りに宇土金に渡る分岐と橋がありますが、今回は真っ直ぐ進みます。

 岩壁を避けるようにして進む国道を抜けますと、国道は特に狭いところとなります。この辺りの車道は、下田街道をそのまま拡張して作られと思われます。なぜなら、右は稲梓川で、左は地蔵山に通じる山肌が迫っているからです。
 大平山への分岐を左に見まして(分岐の脇にいくつもの無縁さんが立っています)、さらに行きますと、急に道幅が広くなります。そこは、バス停「戸崎」です。
 「戸崎」というのは字名ですが、実はそこに戸崎さん宅があります。この地の旧家で、これから探訪する箕作神社を守っておられるそうです。2度そこのおばあさんと話をしたことがありますが、「最近は歴史を調べる人が多くなったのか、よく話を聞かれるようになったよ。それも大変でねえ…。」と仰っていました。(私もそのうちの一人か…。)

箕作八幡神社
 バス停の左に、山に入る道があります。民家のすぐ裏を登っていくのです。しばらく行きますと、左の山肌に小さな赤い鳥居が見え、木祠が祀られています。それはお稲荷様だそうです。その奥をさらに進みますと、竹藪の中にお堂と神社があります。ここが「箕作八幡神社」です。

 由来については別のページで述べてありますので割愛しますが、「箕作」の地名の語源になった由緒ある神社です。竹の浸食が激しいのでこれから先どうなるか分かりませんが、長く大切にされることを祈るのみです。ちなみにこの日聞いた情報ですが、神社手前の、大八車がしまってある小屋ですが、集会場かと思っていたところ、弓道場だったとのことです。沢が明るく開けていた頃はさぞ盛んに利用されたことでしょう。


           箕作八幡神社

旧郵便局窓口
 ここの旧家の玄関脇に、明治から伝わる旧郵便局の窓口が見られます。

 昔、郵便局は、土地の名士のお宅に事業を託していたそうです。昭和になって徐々に郵便局に委譲されましたが、他の地では今でも「特定郵便局」という形で存続している例があるようです。
 このお宅には、3つの逆U字形の窓口が道から見えます。

 こちらのご主人に話を伺ったところ、窓口の奥には事務所があり、母屋の北隣にも郵便事業を行った建物があったそうです。でも改築のたびにひとつひとつ立て替えていったそうです。でもせめて窓口は残そうかと家族で相談し、今に至るそうです。ただし何年後かにはこの窓口も壊してしまうことになるでしょうよ、と仰っていました。(個人宅ですので、やたらに敷地に入って見に行ってはいけません。道路からそっと拝見することにしましょうね。)


            郵便局の窓口跡

お堂
 資料『下田街道』に、「廻国塔。箕作の戸○氏が管理しているお堂前に立っている。」という一節があります。旧郵便局のお話しを伺ってから(実際には先にここへ案内していただいたのですが)、廻国塔について尋ねますと、ここへ案内してくださいました。
 石段を登る時、ここには「○○寺」という名があると聞いたのですが、失念してしまいました。どうも物覚えが悪いのは昔からで…、困ったものです。


        小さいながらも風情のある石段とお堂

 短い石段を登り、狭い境内に連れて行っていただいて驚きました。そこにはずらりと石造物が並んでいたのです。

六十六部供養塔と庚申塔
 案内してくれたご主人に、「これらは何だね?」と聞かれましたので、一生懸命に銘を読んでみました。
表に「六十六部供養塔」と読むことができます。「たぶん秩父のお寺巡りを終えた時の記念の塔でしょう。」と答えました。後で『下田街道』を開きますと、「安永五年(1776年)仲秋に六十六部廻国の行を続ける武州児玉郡出身の直信之のために立てられた供養塔である。」とありました。大体合っていたかな?

 常夜灯をはさんで隣には、寛政三年(1792年)に立てられた庚申塔があります。表に「青面金剛明王塔」と読めます。こちらは、「60日に一度巡ってくる庚申の日に悪い虫が体から出てくるのを嫌ってお籠もりをした人たちが立てた塔です。稲梓のあちこちに見られますよ。」と答えておきました。合ってますか?

 他の石造物は、ほとんどが舟形光背を持つ地蔵様で、それらは墓石のようでした。「信女」「禅定門(ぜんじょうもん)」という戒名が読めましたので。また、お坊さんの墓石である「無縫塔」が3つあり、丸彫単座像の石仏もありました。昔、ここに納められたのでしょうね。


  向かって左から「青面金剛明王塔」「常夜灯」「六十六部供養塔」

 今度ここを訪れた時にどなたかに会いましたら、お堂の名前を聞いておくことにしましょう。境内には梅の木がありましたので、花の咲く3月頃にまた来てみることにします。ここから下田街道は広く拡張され、昔の面影は山裾や僅かに残る棚田にのみうかがうことができます。

さて、江戸時代から昭和の戦前にかけて、箕作は継立場として多くの旅人や炭などを積んだ馬車で賑わったそうです。
 その継立場の場所ですが、今の日枝神社が当てられていたそうです。

日枝神社
  箕作に入って前方に藤原山を望み、右に稲梓小学校の校舎が見えますと、左に日枝神社があります。境内のゲートボール場には、みごとな銀杏の木があります。秋は黄葉きれいですよ。

 ここから西に向かう道を行きますと、横川までの間に日枝神社が二つあります。何でも、土地によっては神社の位置する地点を地図上で結ぶと、日の出の方向から一直線上になっていることがあるとか…。古代のミステリーですね。(ホントか?)


          境内にいちょうの木がある日枝神社

 ここから西に下りる道があり、宇土金や北湯ヶ野に通じています。

失われた道標
 昭和時代まで、この神社前に道標があったそうです。が、道路の拡張工事の際に掘り起こされて、しばらく小学校の校庭に置かれていたそうです。
 しかしその後、小学校にプールを建設する事になった時、その道標は歴史に何の関心のない工事人によって捨てられたか土に埋められてしまったようです。

 私もここに勤めている間、土捨て場を探したり、もしかして石垣の一部として使われているかもしれないと思ってあちこち探しましたが、未だ見つけていません。やはり廃土と一緒に捨てられてしまったのでしょうか…。何とも胸の痛む思いがします。これがお地蔵様だったら、祟りを恐れて別の場所に安置されていたでしょう。道標だって貴重な歴史の証人でしょうに…。
そうそう、資料に寄りますとその道標には「右 宇土金道 天城街道ニ通ズ 左 松崎街道ニ通ズ 椎原北湯ヶ野道」と記されていたそうです。ああ、今はどこに…(涙)。

 ここから下田街道は藤原山方面と落合方面とに分岐し、下田を目指します。ハリスや吉田松陰、松平定信という歴史の有名人がどちらを通ったかは定かでありません。しかし藤原越えの道につきましては人々の生活から消えかかっていますので、ぜひ後世に伝えていきたいと思います。
                                             
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