葉

高根山に登る
沖をゆく漁師が航行の安全を祈った信仰の山
探訪2001年5月4日   
 
 高根山は、過去に何度も登ったことがありました。高校時代、山岳部に所属していた自分は、土曜日になると仲間と一緒に、ザックに30sの砂袋を詰め、高根山に登るという練習をしていたのです。
 下田に転居してきてから一度登りましたが、思いの外道が荒れており、今はあまり顧みられないのかな…、と思っていました。でも、白浜からの道がよく整備されたらしく、嬉しいことと思います。では、登山道をご案内します。一般的には、高根山の登山道は下田市河内の向陽院から出発します。詳しくは、高根山地蔵尊の伝説をご参照ください。
 
                       
    今回の出発点は、伊豆急蓮台寺駅としましょう。初めて行く方にも分かりやすいと思います。
 駅の前から北に延びる市道を歩いていってください。
歩いて5分ほどしますと、河内の集落に入り、商店のある四辻があります。ここを東西に走る道は、向陽院から高根山に通じる参道です。(辻に高根山への入り口であることを示す小さな案内板が立っています。)ここを左に行きますと、じきに川岸の堤防に突き当たり、川向こうに向陽院が見えます。昔はきっとそこから向こう岸に橋が架かっていたのでしょう。
 その堤防には、舟形光背を持つお地蔵様と、石柱が立っています。石柱は、向陽院から高根山に至るまでの距離を示す石柱で、これが最初の『一丁』のようです。表面は風化して文字はよく読みとれませんが、『…九…千助…』とおぼしき刻銘があるようです。一方、お地蔵様は、これから登る参道のところどころに同じものがある墓石で、地元の人は『子どもの守り地蔵』と呼んでいるお地蔵様だそうです。
  では、道を山頂に向かって進むことにしましょう。
 初めは民家の間の道を進みます。左の生け垣の中を
よく見てください。参道の出発点である向陽寺から
どれだけ進んだかを示す石柱の2番目、『二丁』の
石標が立っています。
 二丁の石標です。高さは約50p。これから先、16本の同じような石標が立っていますが、いずれも表面に願主の名(船の安全を守る神様ですから、船の名とその持ち主か乗組員の名が彫ってあります。)
 この二丁の石標は表面の風化が進んでいますが、『□井□□□鹿之助□』と読める銘が彫ってあります。
   じきに道は踏切を渡ります。遮断機はなく、近くにはトンネルがあるので、いきなり電車が飛び出てくることもあります。気をつけてください。
 踏切を渡りますと、向こう側に一つの石柱が立っています。高さは約50p。由来はよく分かりませんが、『奉納経供養塔□永五年二月 当□由右衛門』と刻印があります。高根山に関係のある供養塔でしょうか。川向こうの向陽院にも同じ銘の石柱があります。地元の古老に聞いてみたいものです.
 その供養塔のすぐ向こう、二丁の石標から歩いて190歩の所(私の場合)、道の右側に、三丁の石標があります。
表面の銘は、『住□依□□…』としか読めません。
 道は初めだけコンクリートで舗装してありますが、この上の砂防ダムの所から山道になります。寝姿山からのハイキングコースになっていることもあり、踏み跡ははっきりしています。迷うことはまずないでしょう。やがて、三丁から120歩の所の道の左側に、四丁の石標があります。『比井 大通丸 久立□□…』と読めますが、よく分かりません。
 これから先、路傍に立っているこの石標の刻銘を紹介しましょう。それぞれ160歩前後歩くと、次の石標が立っています。いずれも建立年は刻んでありませんが、立てられたのは明治期ではないか…と想像しています。いつかはっきりした資料を見てみたいものです。
 
 一丁 『□…□九□□…千助…』
 二丁 『□井□□□鹿之助□』
 三丁 『住□依□□…』
 四丁 『比井 大通丸 久立□□…』
 五丁 『比井 住吉 鹿右衛門…』
 六丁 『比井 住吉丸 久太夫』
 七丁 『比井 辰富丸 右衛門』
 八丁 『比井 神社丸 榮助』
 九丁 『比井 一経丸 久助』
 十丁 『西之富 福神丸 徳□』
十一丁 『比井 四社丸 沢師』
十二丁 『筑前 魚屋 重兵衛』
十三丁 『鳴尾 辰栄丸 半六 成通丸 半七』
十四丁 『福壽丸 惣ェ門□□□□』
十五丁 『淡路 宝神丸 忠七 徳善丸 源八』
十六丁 『淡路 伊勢屋 利吉 若栄丸 新助 観音丸 太郎□ 住吉丸 幸吉』
十七丁 『淡路 太黒丸 新五郎 住吉丸 清三郎』
十八丁 (所在不明 山頂付近にあるそうなのですが…)
 四丁の石標を過ぎるとまもなく砂防ダムがあります。ここで沢の右岸(水の流れる方向に向かって右側)に渡ります。すると左手に、お地蔵様や石柱など、いくつかの石造物が並んでいます。一番左の石柱は大日如来のようで、刻銘は『明治十年 大日如来』と読めます。高さは60pほどあります。その隣りは舟形光背を持つお地蔵様を彫った墓石で、先の堤防で見たお地蔵様と同じものだそうです。『信女』という銘のあるので、女性のお墓だと分かります。これから先、参道を登っていきますと、同じような意匠の墓石があと3つ立っています。残りは、小さめの丸彫地蔵さまで、刻銘などは見あたりません。
 これは道の様子ですが、この辺りまでは歩きやすいです。そのうち石がごろごろした道に変わり、やや歩きにくくなります。
 四丁の石標から185歩 歩いたところの右に五丁の石標があります。
 途中、炭焼き小屋の跡がいくつか見られます。焼いた炭を牛馬にしょわせて里に下ろしたのでしょう。大日如来が立っている由来も分かろうというものです。五丁の石標から162歩のところの左に、六丁の石標があります。さらに歩くこと165歩。右に七丁の石標があります。その後、例の女性の墓石があります。
 七丁から174歩歩くと、右に八丁の石標があり、八丁から145歩歩いたところで、右に九丁の石標があります。
 しばらく行くとまた例の女性の墓石があります。しかたないので刻銘を読みましたら、『文久七年 □□信女 為水垂妙順信女』と読めました。これは私の想像ですが、海難事故で亡くなった娘さんの供養を、その家族がしたのでしょうか。何とももの悲しさが漂うところではあります。
 右の画像は、十丁の石標です。ちょっと傾き、苔むして、いい雰囲気で立っていますね。
   九丁から歩くこと170歩。左側に十丁の石標があります。
 さらに歩を進めますと、これまでの石標よりも大きな道標が立っています。表には『右 山道 左高根道』、裏に『勘長人 後藤ます 発起人 山口俊造 川上萬吉 三丁目 石源 大正六年一月廿四日』と刻まれています。高根山頂へはここを道なりに左に行くのですが、右に進むとどこへ出るのでしょうか。たぶん白浜ー諏訪の古道に出るのではないかと思います。今度行ってみることにしましょう。 画像でも『高根山』の刻印が読めますね。高さは1m近くあるようです。
 この道標を見ている時、前から4人の家族連れのハイカーが来ました。蓮台寺駅への道を訪ねられましたので、教えてあげました。さすがにふうふう言って歩きにくそうでしたが、でも楽しそうにも見えました。寝姿山から歩いてくるなんて、すごいすごい!
 十丁から歩いて160歩の左に、十一丁の石標があります。おや、またあの墓石があります。
 十一丁の石標から135歩歩いたところの左に、十二丁の石標があります。さらに歩くこと170歩。左に十三丁の石標があります。十四丁は、そこから180歩進んだ所の左です。だいぶ石柱の基部が露出していますね。土が流れたのでしょう。
 そこから187歩歩いた右。十五丁の石標があります。
 この辺りは、参道で一番道が険しいところだと思います。つづら折りの登りをはあはあ言いながら登っていきました。やがて道は一旦尾根筋をたどりますが、向こう側に下りる道がついています。つづら折りのかなり急な坂道です。きっとこれは、稲梓の落合に出る道でしょう。いつか行ってみたいです。
 まもなく、道より少し高いところに、このようなお地蔵様が安置されています。由来は分かりませんが、『文化六年正月吉日 河内村 願主□□』の刻銘が見られます。。すぐそばに、枯れて朽ちた古木が立っています。
 やがて左に十六丁の石標があります。十五丁のところから150歩進んでいます。
 少し行ったところの道の左、高いところにこんな石祠があります。山の神様でしょうか。由来は調べないと分かりません。大きさは、よくある石祠と同じく、そう大きくはありません。高さ40pぐらいでしょうか。
 先の石標から195歩進んだところの左に、十七丁の石標があります。 十七まで数えた石標は、これで最後のようです。この後、道はまた尾根に出ますが、そろそろ山頂ですので、白浜側から吹いてくる風が思いの外冷たく感じられます。
 山頂近くの尾根道です。上り坂ではなく、ほとんど平らです。この手前、右に例の女性の墓石があります。舟形後背を持つそのお地蔵様の見つめる方に、尾根伝いに降りていく道があります。そちらは落合−白浜の道につながるそうです。今度行ってみましょう。
 そうするうちに、やっとつきました。ここが高根山頂です。まずは地蔵堂があり、周囲にいくつかの石造物の残骸が点在しています。お堂の中にはたくさんのお地蔵様(98体あるそうです)が安置されています。船の航行の安全や家内安全を祈って供えられたということです。(造作のよいお地蔵様は向陽院境内におろされ、山頂のお堂に残っているのは、やや稚拙な作りの像ばかりです。地元の人が作った像のようです。)
 蓮台寺駅を出発して40分間あればここまで来られるでしょう。残念ながら、十八丁の石標は見つかりませんでした。
高根山頂から白浜を望む
 山頂の南には、テレビ電波の中継塔がいくつか建っています。ちょっと殺風景な景色となっています。蓮台寺側の眺望も、ある程度は開けています。この日、山頂には3人連れの男性登山客がいました。
 山頂から白浜側に降り始めますと、お地蔵様が2つ、石祠が1つ、立っています。これは一つ目のお地蔵様。高さは70pほど。白浜の方に伺ったところ、菅原道真像とのことです。頭部は無く、自然石が載せられています。
 2つ目のお地蔵様。彫りがていねいで、他にあるお地蔵様とは違った風貌をしておられます。高さは台座から1mほど。法衣を来た修行僧のようでもあり、烏天狗のようでもある印象を受けます。こちらは、役行者(えんのぎょうじゃ)であるとのことです。誰がいつ建てたものでしょうか…。
 さらに下りますと、石祠があります。石室の部分がたいへん大きいです。私が見た石祠の中では、一番大きいです。しかし屋根だけ古そうなので、石室部分だけ後から別の石工さんが作ったのでしょうか。
 白浜側の下りはたいへんな急坂で、気をつけていないと足を滑らせて転落してしまいそうです。(本当) ただし、テレビ塔の方へ行かず、地蔵堂の前を海側に下りる道もあり(こちらが本道)、そちらの方が歩きやすいそうです。
 下るのは数分ですが、大変な思いをしてやっと山のふもとに着きました。向こう側は白浜側で、すぐそこまで車道が来ているようです。駐車場もあるようです。ベンチに腰かけようとしたら毛虫がおり、飛び上がってしまいました。私は虫が苦手なのです。やはり夏の古道探索は難しそうです。
 このあたりには案内板が整備されています。道は白浜方面と寝姿山方面とに分かれています。
 寝姿山方面に歩くこと数分。こんな分岐がります。左は寝姿山へ通じる道で、右は、白浜の北高生が通学に歩いた道でありましょう。足元に小さな案内板がありました。 その峠の様子です。ここを下れば、諏訪の集落を通って稲生沢地区に出ます。下田北高はその奥の蓮台寺地区にあります。その古道の様子は、『諏訪−白浜』のページで紹介していますので、参考にしてみてください。
 峠の周辺をよく見てみますと、おお、ありました。小さなお地蔵様です。だいぶ傾いていますね。だれもお世話をしないのでしょうか。高さは60pほど。かろうじて『天明二年(1782年)九月』の刻銘が読めました。
 実はもう一つ、この峠を蓮台寺側に下りたところにお地蔵様があるそうです。ただし草に隠れているそうで、知らない人はそのまま気がつかずに通り過ぎてしまうでしょう、とのことです。今度探しに行くことにしましょう。
 ここから初めに檜林の中を歩きますが、踏み跡ははっきりしません。だいたい枯れ沢に沿って下ればよいようです。歩きにくくはありません。峠から少し下ったところで、高根山方面に延びる枝道を見ました。高根参道の途中にあった道標の分岐につながるのかもしれません。
やがて踏み跡はしっかりしてきます。それにしても、昔の北高生はこんな山道をよく通ったものです。冬は日が落ちてすぐに暗くなるでしょうに。そう言えば私の高校時代の生物の先生は、白浜からこの道を通った最後の北高生だったそうです。今度話を聞いてみようかな。
 峠のお地蔵様の所から下ること25分ほど、やっと里道に出ました。だいぶ歩きましたよ。高根山に登った後なので、かなり疲れました。
 ここからは、道なりに行けば、やがて線路をくぐり、最初に歩いた蓮台寺駅の前の道に出ます。お疲れさまでした。
 今回のルートは、大変に石造物が多く見られるのが特徴です。汗もかきますので、体力作りにもいいもしれませんよ。
                      
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