葉

八木山から北の沢へ
消えた下田街道を行く
探訪2002年1月19日   
 
ようやく八木山へ
 小鍋峠から林道に入り、前が明るく開けますと、左手に牛舎があります。もう目の前は須原・八木山(やきやま)の集落です。
 
 下田街道は、ここで沢を渡り、左岸を進んでいたそうです。この日、牛舎の入り口から対岸に渡してある簡易橋を渡ろうと試みましたが、夏草が深く、とても行けませんでした。仕方なく現在の道を行きましたが、対岸にちらちらと道筋が見えるので、なんとも残念な思いに駆られました。


左の山裾を下田街道は進んでいたそうです。(杉林の根元にうっすらと道筋が伺われます)

消えた下田街道
 最初の民家は、右手の高いところにあります。だいたいこの辺りのお宅は“土屋さん”なので、こちらも土屋さんでしょう。次のお宅の前におばあさんがおられたので、足を止め、声を掛けてみました。大正2年生まれというこのご婦人、耳はしっかりして言葉も明瞭なので、驚いてしまいました。産まれも育ちもこの八木山だそうです。まさに下田街道の生き証人。30分ほどお話を伺うことができました。昔の街道の様子やエピソードについて伺いますと、「ゆっくり思い出すからよう、そんなに話せないけど、この辺りで日向ぼっこをしている年寄りはみなよく教えてくれるよ。今度会ったら、聞いてみなせえ。」と言いながらも、ていねいに話してくれました。

 そのお話によりますと、これから下田街道と合流する国道414号線ができたのはおばあさんが小学校4年生の頃で、それまでは小鍋峠が下田と河津を結ぶ主要路だったそうです。おばあさんのご母堂は、その峠を越えて河津の梨本からお嫁に来たそうです。まさに峠を越えた交流ですね。(ちなみに後日お話を聞いた別のご婦人は、小鍋からお嫁に来たと話してくれました。)当時は、逆川を通る国道を「新道」と呼んでいたそうです。

 そんなこんなで、下田街道が道の向こうを通っていたことがなお明らかになりましたので、冬になって草が枯れたらまた行ってみますと約束をし、歩を進めました。別れ際、おばあさんはかわいく手を振ってくれました。見ず知らずの私にこんなによくしてくれるなんて…、ありがとうございます。

 またこの時、たまたま取りかかった土地の知人から、もう一つの話を聞きました。それによりますと、下田街道とは別の生活道路がこの車道の一本上(5mほど上)を通っており、かつてはそこを歩いて生活していたと言うことでした。この事は、後日、上に記した稲刈りのご婦人からも聞きました。「八木山に嫁に来るで、初めてその上の道を歩いて来た時は、『何で自分はこんな山奥に嫁に来たんだかなあ…。』とびっくりしましたよ。」と話してくれました。


  田んぼの向こうに川があり、その上を街道は通っていたそうです

大鍋への道
 さて、残念ですがそちらの探索は冬まで待つこととして、先に進みましょう。車道はやがて右にカーブし、民家の集まるところで左に大きく曲がります。途中、道ばたにベンチやパイプ椅子が置いてありますが、これは散歩の途中でお年寄りが休めるようにと置かれた椅子のようです。次の農機具小屋の柱に、古びたホーロー看板が打ち付けてありました。この辻の右手は、大鍋に行く道です。こちらもいつかは行ってみたい古道です。その分かれ道に、地区の集会場とわさび田と水汲み場があります。その水汲み場から左上(東)に延びているのが、須原−大鍋の古道の一部だそうですよ。うーん、歩いてみたい! でも今回はお預けです。


八木山の中心地 歩いていくおばあさんが「誰もいねえ所だよお」と言いました

 牛舎から左岸を進んだ下田街道は、この先、須原のサイの神のある地点で今歩いている道と合流します。その地点に民家が2軒あるのですが、人の気配がしないので、今回はインタビューは次に譲ることにしました。

須原のサイの神
 下田街道が八木山から北の沢に入るまさにその境界に、サイの神があります。資料『下田街道』によりますと「古いお雛様を供える風習がある」とあります。その通りにひな人形や仏面などが供えてあります。サイの神は子どもの神様と言われているので、、お雛様や人形を供えるようになったのでしょう。そっと手を合わせ、子を思う親の気持ちを偲んで先に進みましょう。
 
手前の坂が街道 右手に見えるのがサイの神 左が街道の続きです

道標
 さて、サイの神からの下田街道ですが、やはり今の道の数m上を行っていたようです。実はここに、その名残を示す重要な石造物があります。
 サイの神を過ぎますと、右上に上がる細い道があります。こちらが本来の下田街道の跡に近いところをトレースしているようです。えっほえっほと歩いて登りますと、右手の民家の入り口に、石柱が見えます。これは、道標です。


         台座を含めた高さは60cmほど
 
 銘を読みますと、「大正十五年五月…」「右小鍋ヲヘテ天城街道ニ通ズ」「左 大鍋近道」と記してあります。まさにこれは古道のあった証です。(これは、実は3年前に一緒に大平山に登った須原の土屋市議さんから教えて貰いました。)この道標を右に見て北に進みますと、さきの水汲み場のある集会場の前に出て、さらに大鍋への道をたどるそうです。うーん、やっぱり行ってみたい。(以下の画像は後日UPします。スマメをカメラごと修理に出しちゃったので)
 
廻国塔と供養塔と子守地蔵
 その道標から下に下りますと、間もなく道は今の車道に合流します。昔の道はそのまま一段上を行っていたそうですが、今では痕跡すら分かりません。
 車道をサイの神からしばらく行きますと、右手に屋根を掛けた回国塔と供養塔とお地蔵様があります。お地蔵様には新しく「子守地蔵」と説明板がありました。
 このお地蔵様は安政三年(1856年)建立、回国塔は万延元年(1860年)建立で、供養塔は明治二年建立と記してあります。いずれも土地の人によってきれいに世話をされているようです。ここにも人形などの供物がありました。

道標
 先に慈眼院から小鍋に渡るところに増田七兵衛さんの立てた大きな道標がありましたが、ここにも増田さんの立てた道標があります。ここまで来ますと、辺りがぱあっと開け、田畑や国道を行く車の姿が見えます。
 すぐ前には、もう一つの地蔵様の形をした道標もあります。いずれも日の光を真正面に受けながら、朽ちずに立っています。ゆっくり銘などを読んでくださいね。大きい方は高さ120cmほど。「右下川津東浦 左三しま 道」「安政二乙卯年 君沢郡小海村増田七兵衛造之」と刻んであります。小さい方のお地蔵様には、「□証菩提 右十三はん堂山 左ミしま 道」と記されています。「十三はん堂山」というのは、先に峠の手前で見た道標が示す普門院のことを指します。「十三」というのは、伊豆横道三十三カ所の十三番札所であることを意味します。ちなみにこのすぐ先にある法雲寺(現在は無住)が第十二番札所となっています。
 
      増田七兵衛さんの立てた道標                       その手前のお地蔵様型の道標

孫の大楠
 道はここで北の沢の集落の間を抜けます。ぐっと下り坂になった辺りの民家の入り口に、幹の大きな楠があります。これは、『甲申旅日記』やハリスの日記に記された大楠の孫であろうと言うことです。近くには、「みせ」という屋号のお宅もあることから、宿屋や茶屋があり、旅人はこの大楠の木陰で休んだのではないかと思われます。今はただ楠の葉が風に揺れているのみです。


           振り返って見たところです

茅原野の立場
 やがて道は、かつて「新道」と呼ばれた国道414号線に出ます。合流点の脇に「伊豆横道第十二番観音法雲寺」という道標があります。
 ここから蕎麦屋「竹安」の前までは直線道路なのですが、その途中、「北の沢」バス停と自動販売機のある辺りが茅原野の立場だったそうです。立場というのは、馬車の停車場のことで、今はそれがバス停となっている訳です。ここで旅人は箕作から来る馬車を待ち、北や南に向かったそうです。  
                                             
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