道標のある里山
今のように電車や自動車、オートバイなどの交通機関が発達していなかった頃、人々の主たる移動手段は徒歩でした。今でこそ自動車用の道があちこちに作られ、便利になりましたが、それまでは山越えや峠越えの道が集落を繋いで開かれ、人々はその道を一歩一歩、歩いて移動したのです。
自動車は勾配の少ない平坦な道の方が走りやすいので、山があれば基本的にそれは迂回して道が作られています。もちろん迂回が困難な場合はトンネルで山を貫いて目的地へつなげました。
しかし徒歩による道の場合、山はあまり迂回せず、峠を探してなるべく最短距離で目的地へ行けるように道を作ったようです。回り道より最短距離…。昔の人は健脚だった、ということでしょうか。
さて今回は、稲梓の須郷の里を訪ねます。ここには道標が二つあります。
一つは入谷から北に入った沢筋にある「右 かわず」と記された道標銘(お地蔵様の光背に道しるべが彫ってある道標)。もう一つは、そこを登った尾根筋にある「右 大鍋 左 池代」という道標(石版に道しるべを彫って立てた道標)です。
なぜこの地区に二つの道標があるのか、その検証は後に行うとして、まずはご案内しましょう。

須郷 入谷のサイの神
下田から国道414号線を北上し、稲梓の箕作を過ぎた辺りで須郷方面に左折します。口村と中村を通り、入谷に入ります。もうすぐお寺というところの三叉路に、入谷のサイの神さまがあります。

石祠としては小型です 高さ35cmほど
無くし物をした時にはサイの神様にハサミを供えてお祈りをすると見つかる、という言い伝えがあるためか、台座には錆びた一丁のハサミが置いてありました。

誰が上げたか、錆びたハサミが…
この三叉路を右に上っていきます。
大日如来の石塔
ふと見ると、右手、沢のそばに建つ民家の脇に、石柱が立っています。近寄って見てみると、大日如来の石塔でした(建立年は不明)。

台座を含めた高さは60cmほど
牛馬の灸据え場
民家が見られなくなって淋しくなる辺りに、石造物が三つ固まって安置されている場所があります。
ここは別のレポートで紹介したとおり、農耕に使った牛馬の灸据え場(治療所)であったということです。

昔、ここに牛馬の灸据え場(治療所)があったそうです
見ると、江戸後期に立てられた大日如来や馬頭観音の石柱が立っています。農作業になくてはならない存在だった牛や馬。農家の人々は、労働力を提供してくれるこれらの動物を、働き手としてだけでなく、それ以上の愛情を持って接していたのでしょう。これらの石塔は、治療の甲斐無く死んでいった牛馬を弔うために建てたのでしょうから、ここは人々と牛馬のつながりが見えてくる場所と言えるでしょう。

大日如来(高さ60cmほど)

馬頭観音(左 高さ60cmほど)と大日如来(右 高さ40cmほど)
いよいよ山中の街道へ
車道を終点まで行きますと、最後は民家の入り口となり、後は徒歩でのみ(いや、自転車も通れるかも)行ける道となります。方向としては分かれ道があっても真っ直ぐに行く感じです。

最後の民家の前を通っていきます
10年ほど前、稲梓勤務時代の同僚が「ここを奥に行くと、大きなワラビが採れる所があるんですよ。」と話していました。きっと茅場があったのでしょうね。
沢に沿った歩道に入りますと、こんな別荘が二軒あります。現在は使われてはおらず、放置されているように思えます。

ちょっと淋しくなってきましたー
小さな沢を渡るのに2本の鉄板が渡してあるのは、小型クローラ運搬車が通ることを考えてのことでしょう。ここから上にはワサビ田があるので、収穫したワサビを運び出す仕事に使う道でもあるのです。

小さい沢なので、一またぎで越えます
道標銘がある!
サイの神がある三叉路から20分ほど歩いてきました。行く手に分かれ道があります。その中央に、三つの石造物が立っているのが見えます。

道標銘のある分かれ道まで来ました
今にも山肌からずり落ちそうに見えますが、台座があるので、今のところは大丈夫のようです。しかし、傾いていますね…。

道標+お地蔵様=道標銘 です
左のお地蔵様が、行き先を光背に彫った“道標銘”です。「右 かわず」と柔らかな文字で記してあります。何だかお地蔵様の左手がそちらの方角を示しているようで、思わず笑ってしまいました。

ちょっとすましたお顔? 高さ60cmほど
この道標銘のお地蔵様が立てられたのは安政年間(1854−1859)です。ペリーが来日して開国を迫っていた時代なので、人々の動きがにわかに慌ただしくなり、交通も頻繁に行われるようになった頃と思われます。そんな時代の要請に応えて立てられた道標銘なのかも知れません。なんていうのは穿った考え方でしょうか。

右に向かう道が見えますよね
この道標銘には左に行くとどこに出るか刻んでありませんが、この上にある大鍋や池代に行く道と合流します。それはまた別の機会に紹介することにしましょう。
道標銘の前を右に折れて進みますと、はっきりとU字形に道が開かれています。ところどころでこうした倒木が行く手を遮りますので、くぐったり跨いだりしながら道を辿っていきます。

倒木あり でもたいしたことはありません

この辺だけ檜の木立を縫って歩きます
左下に炭焼き窯の跡を見る辺りで道は自然と右に曲がり、杉木立の中を縫って上る道となります。滑りやすい斜面となりますので、気をつけて歩いてください。

ここをぐるりと回り込めば、明るくなります
冬の弱い日差しが指してきました。今日は風がないので幸いです。
檜林を抜けると、雑木林の斜面を歩く道となります。

これだけ踏み跡が残っていればいい方です
しかしこの辺りは斜面だけあって崩落が進み、踏み跡を見失いがちになります。おおよそは斜め左に直線的に上がっていくのがルートです。また炭焼き窯の跡がありました。使われなくなって3,40年は経っているでしょう。徐々に自然に戻りつつあります。

自然に戻りつつある炭焼き窯の跡
南向き斜面の雑木林。いい雰囲気ですが、一人歩きの身にはちょっと淋しいです。

木をくぐって行こう〜
徐々に空が近くなり、前方が明るくなってきました。峠が近いのでしょうか。

もうすぐ峠かニャ
一つ目の峠
はい、到着〜。 ここが一つ目の峠です。実は須郷から北の沢に行くには、峠を二つ越えなければなりません。と言っても、ここは真っ直ぐ下らないで、斜め左に進み、徐々に標高を上げて二つ目の峠に向かいます。
峠に出ましたが、真っ直ぐ下ってはなりません
左手(北側)は、明るい雑木林になってきました。冬の柔らかな日差しが気持ちいいです。天気の良い日の里山散歩、最高です。
二つ目の峠
谷を右に見て、少しずつ登ります。あまり高く登らないでください。あくまで緩やかに標高を上げていきましょう。すると、二つ目の峠に出ます。さっきの一つ目の峠と雰囲気が似ています。

こういう斜めに登る道を歩いてきました(峠から振り返って撮影)

ここが二つ目の峠です 南を向くと、小高いピークがあります
この峠で左に折れて稜線を登ると、やがて顔のないお地蔵様のあるピークに出て、その後、「右 大鍋 左 池代」の道標に達し、さらに歩くと“大池”を経て大鍋峠に到達します。この道は“鷹峰歩道”という名があり、踏み跡もしっかり残っています。
山頂直下のお地蔵様
今回の道筋にはないのですが、これが山頂直下にある“お顔のないお地蔵様”です。
そしてこれが「左 池代 右 大鍋」の道標です。峠から20分ほどあるくと、あります。
地中部分が露出した道標 私はこの道標には謎があると見た!
実はこの道標には謎が隠されていると見ました。だって不自然な点があるんですもの。その解明にはいずれトライしますねー。(2008年の初頭に訪ねて、記録をアップしました)
峠から北の沢へ
さて、二つ目の峠に来ました。ここからの下りはやや急な斜面です。実はここからは檜林が伐採されており、道らしい道はありません。辛うじて踏み跡が残っているので、涸れ沢の右岸を下ります。雑木林と違って、檜林は淋しい雰囲気があります。切り倒された檜を越えたりくぐったりして、下っていきます。

ここのどこを下ればいいの? という感じがしますが、下りましょう!

ほーら、踏み跡があった!

よく見ると、道が見えてきますよー

標高が下がってきました そのまま沢の右岸を行きましょう
倒木も何のそのです。ちょっぴり冒険みたいな気になります。

プチ探検ね とにかく下れば北の沢に出るから
我を待つのは…
道が沢に降り、傾斜が緩やかになったら、まもなく林道に出ます。そこで待っているのは…、
ほうら、もうすぐ古道は終わりですよー
小さな…

見えた! 古道からの出口です そのすぐ左を見ると…
お地蔵様が迎えてくれます。

見落としてしまいそうなぐらい小さいお地蔵様ですけど…

きちんとした彫りが為されています 智拳印を結んでるので大日如来様かな?
大日如来さまが2体と、五頭観音さまと見ました。山仕事に使っていた牛馬の供養塔でしょう。石塔も一つあります。

もともと並んではいなかったでしょうけど どこからか集められたのかな

そして石室に収められた大日如来様 ストロボ焚いて失礼しました

じつに穏やかなお顔 悟りを開いた表情をされています

誰が彫り、誰が祀ったのか、五頭大日如来様
でも、“五頭大日如来様”って、よく知らないです。どういう神様かな。
ここから先は、林道を下れば、北の沢の集落に出ます。そこからは下田街道に接続し、下田や河津に繋がります。

右は北の沢へ 左は八木山から小鍋峠に通じます
古道はおそらく沢筋に沿って降りていたと思いますが、踏み跡は分かりませんでした。
北の沢の集落へ
林道を下りますと、北の沢の集落が見えてきました。

北の沢の集落が見えました

12月なのに菜の花が咲く北の沢 親友reach君の実家のある所です 左は小鍋峠への道ね

県道414号線に出ました 「伊豆横道四十四番札所法雲寺」の道標があります
この道から見えてくるもの
今回歩いた道は、短い峠道です。
しかし、この道にはとても大きな意味があるのです。先に見た三叉路に立つ道標銘のお地蔵様がありましたね。あの道標銘は、誰のために立てたのでしょうか。 もちろん、須郷の人たちのためではありません。地元の人なら、この辺の道がどこに通じるか、知っているからです。
道標銘が立てられた訳は、もっと遠くから来る人たちのためでしょう。その人達とは、ずばり、西海岸の人でしょう。池代や松崎の里から河津に抜け、下田街道や東浦路を通って北上する人たちのために立てられたのだと思います。そう、この「須郷−北の沢」の古道は、伊豆の西と東を繋ぐ、重要な街道だったと私は見ました。
さらに言えることがあります。この須郷の遙か北には大鍋越えという、河津と松崎を繋ぐ林道が通っていますが、須郷からその大鍋越えへと至る鷹峰歩道という道もあります。しかし、地図上で見ると、河津から池代に行くには、やや大回りです。実は昭和の30年代までの地図を見ると、須郷の中村から直線的に池代に至る道が記されています。その道こそが、今回歩いた古道に接続し、東と西を繋いでいたのではないかと思います。そう、今日の峠道を歩く時、東海岸と西海岸を繋ぐ、壮大な一大交易路が見えてくるのです。
ひっそりとした山里に眠るこの峠道こそ、近代交通の要衝、須郷の古道であるのです。
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