葉

南伊豆下流の石丁場を訪ねる
探索 2008年12月7日   
 
南伊豆下流へ行く
 「下流」と書いて「したる」と読む。南伊豆町の海岸に面した小さな集落の名前である。2008年12月7日、日曜日。この日、穴菌隊(あなきんたい)メンバー4人は、今日に先立ってまず一人で1次探索を終えた隊長の案内で、2次探索に向かった。快晴無風、まさに探索日和の朝であった。



下流の集落を抜け、軽自動車でも脱輪するかと思うような狭い農道を辿っていく。

かなり奥に入った頃、右手に黒い覆いをした柑橘畑が見える。その脇を徒歩で入っていく。



そこはとうに人の往来が途絶えたであろうと思われるのに、立派な山道が残っていた。この道はいったいどこへ通じているのだろう。



1次探索で隊長は2つの石丁場を見つけている。山道を離れ、丁場が稼働していた頃の運搬道を谷間に探して歩いていく。



さんざん山中を彷徨うと、やがて小高い山の斜面に角石が残されているのが見つかった。丁場のあった場所は近いはずだ。



そこから下る山の斜面には、ソリ道らしき痕跡があった。



そしていよいよ石垣に挟まれた狭い道があった。吸い込まれるようにしてその間に入っていく。



1つ目の石丁場
 と、そこは切り立った崖の上。足元の遙か下は深くえぐられ、ずっと向こうに対岸がある。しかし長い時の流れのため、雑木が生い茂って視界が悪い。



石を切り出した跡が単一の模様になって岩肌に刻まれている。幾本もの水平な横線は、一つの幅が20cmほどある。斜めに切られた溝は、雨水の排水のためであろう。



徐々に下降を試みた。



辛うじて中段まで下りることができた。最下段は湧水のために湿地になっており、足が埋もれてしまうらしい。



木立に遮られて石丁場の全景が明らかにならないのが残念だ。



これは切り出した石を運び出すためのソリ道であろう。堅牢に組まれた石垣が、未だその噛み合った手を離さずに時の流れに抗っている。



2つめの石丁場へ
 次に、少し離れたところにある丁場へ向かった。孟宗竹の藪を上り下りして、森に包まれた丁場へ着いた。 



こちらも深く山をえぐるようにして石を切り出したようだ。



しかしこのオーバーハングはどうだ。相当な質量をもつ石が身を乗り出して丁場の姿を形作っている。



いったいどれだけの量の石材がこの丁場から切り出されたのだろう。そしてその石はどこへ運ばれていったのだろうか。



最下段まで降りてみた。床に当たる部分は平になっており、朽ちた竹垣と、焚き火の跡が見られた。まさか誰かが生活の場にしていたわけではあるまいが。



この圧倒されるような石の切り方は、他のどこの丁場にもなかった光景だ。



探索を終えて
 再び薮を漕ぎ、イノシシ除けの電柵を越えてアロエ畑の際に出た。その畑の柵の針金を外してくれたのは、地元のご婦人であった。
 ご婦人は、このような話をしてくれた。

「あれまあ、山の中で誰かの声がするから、また鉄砲打ちが山に入っていると思っていたら、あんた達だったのかい。え?丁場を探しに来た? たしかにその山には丁場があるけど、私が子供の頃から石を切り出したという様子は見なかったねえ。私は91歳になりましたよ。ここの石は“下流石”といって、長野の善光寺にも運ばれて使われたという話を聞いたことがありますよ。」

「ここの道をずっと奥へ行くと、峠があって、下っていくと下賀茂に出ます。下流だけでなく、大瀬の人も下賀茂へ行くにはこの道を通って行ったものですよ。」

 91歳という年齢は、こんなにも若いものだろうか。ご婦人の腰はぴんと伸び、話す言葉の声量は大きく、滑舌もよい。南伊豆の温暖な気候と海を渡ってくる潮風がこの人の生命力を強くしているのだろうか。
彼女の話の、下賀茂に通じる道があるという話には多いに関心を持った。海沿いの県道が開削される前に利用されていた古道であろう。この冬に訪ねてみたいものである。



“下流石の作品”
 丁場から下流の集落に戻る時、切り出された石を組んで作ったであろう石垣がある、というので寄ってみた。それは、一つ一つの石の形をまるで計算しつくして組んだような、見事な造形を見せていた。









 再び下流の港に戻った。昼近くの陽光は暖かく海辺に降り注ぎ、今が初冬であることを忘れさせた。波のうねりに身を任せて揺れる小舟も、静かに陽の光を浴びて、出漁という出番を忘れているかのようだった。




                                             
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