葉

敷根の石丁場跡を訪ねる
   探訪2006年1月28日
 
昔の白浜に学ぶ会 
 
私がお世話になっている「昔の白浜に学ぶ会」で、下田市敷根の石丁場跡を見て歩こうということになりました。
 なぜ石丁場なのか。それは、石の切り出しが江戸期から昭和期にかけての下田の一大産業であったからです。江戸で伊豆から運ばれた切石の流通を一手に扱っていた切石問屋の記録には、年間30万本の石が伊豆から江戸に上ったと記されているそうです。

 そういえば、下田では中村や須崎、多々戸、吉佐美など、至る所で大小様々な石丁場の跡を見ることができます。それらは「伊豆石」と呼ばれ、質の高い建築材料として、重宝がられたそうです。かのアメリカのワシントンホワイトハウスの南にある「ワシントン記念塔」にも下田の高馬の石が使われているそうです。何とすごいことではありませんか。

 さて、穏やかな晴天に恵まれた1月28日土曜日。午前8時45分に待ち合わせ場所である下田の中央公民館に行きますと、そこには会員のほかにもたくさんの参加者の方々が参集していました。 市役所や市史編纂室、図書館関係の方々のようです。私が古道探索を始める一つのきっかけとなった下田市生涯学習講座「この町のかたち」でお世話になったM田女史、河津の古文書講座に誘ってくれたM山さんなどの顔も見え、今回ご一緒させていただく事を嬉しく思いました。

 中央公民館を出発後、税務署や消防署の前を通り、敷根の住宅地帯へ。ここを奥へ入って石丁場跡を訪ね歩くのです。


        こうした住宅街の間を入っていきます

美しい伊豆石の紋様
 ちょっとその前に寄り道を。きれいな紋様のある伊豆石で作られたなまこ壁の倉があるので、見に行きました。なるほど敷根の石は美しいと言われるはずです。造化の妙というのでしょうか、自然がもたらした美というのは、素晴らしいものです。





 今回は既に薮山となった石丁場地帯を歩くため、案内の方を頼む必要があります。その点は顔の広い佐々木先生が便宜を図ってくださり、かつてこの地帯の地主であったという鈴木ミノルさんが今回の探索を案内してくれることになりました。

 鈴木さん宅前で氏が合流され、いよいよ山に入ります。最初は、「コウモリ穴」と呼ばれる石切場跡です。戦時中は近くの下田高等女学校(現県立下田南高等学校)の生徒達が防空壕として利用していたそうです。そうならかなり大きな規模の穴だと思うのですが、どうなのでしょう。

「今日入る山はすでに荒れている上、石丁場跡は落石などがあるので、決して単独行動はとらないでください。」とSs木先生が仰います。ちょっと恐いですね。用心していきましょう。

ここが「コウモリ穴」
 車道はここまで、という所からすこし山道に踏み入りますと…、何と、こんなところに巨大な穴が…。入り口付近は古自転車などの粗大ゴミが捨てられていますが、その奥は、まさに大きな石丁場跡なのでした。


  「この山、落石のため立ち入り不可 地主」の看板あり


         通称「こうもり穴」の入り口

 中はかなり広く、奥まで続いています。思ったよりじめじめした感じはなく、寒さもそれ程ではありません。ただし低い所にはかなりの量の水が溜まっているので、なるほど危険ではあります。


               幸いにもコウモリはいませんでした
 

              深い穴の深部にはかなりの量の水が…

 さて、Ss木先生のご説明に依りますと、敷根には分かっているだけでも110カ所の石丁場跡があるそうです。最初の穴からしてこんなに大規模なのですから、この先に待っている丁場跡はさぞすごいかもしれません。では、さらに奥に入ってみましょう。

道なき道を行く
 辺りは里山。畑の跡に椎茸のほだ木が並んでいて、道もあちこちにあるようです。でもみかん畑や農作業の小屋などは放置され、荒れています。木々も生い茂るに任せており、眺望は効きません。捨てられたゴミの存在には悲しいものがありますね…。

 途中から道もなくなり、案内役の鈴木氏がいなければ、誰一人として以下に紹介する石丁場跡を見ることは叶わないでしょう。そればかりか、無事に山から下りられるかどうか…。


   こんな所を分け入って歩いていくのです


       そこかしこに石を切り出した跡が見られます

迷宮の回廊 
 2番目に訪ねた大きな石丁場には、当時の石が残されていました。
 サイズを測ると、30cm×30cm×90cmぐらいでした。当時は2つのサイズに切り分けて出荷していたそうなのですが、これはどちらの方でしょうか。


            この穴もかなり大きいです


            ええっと、大きさは…
  

         入り口は2つあり、中でつながっているようです


  迷宮の回廊、といった感じです


           何だか生活に供していたような跡が…

 案内の鈴木さんは、どんどん奥へと分け入っていきます。参加者の口からは「あ、あれも石切場の跡じゃない?」「ここにもあるよ。」などと感嘆の声がもれます。

年月の流れは
 「15,6年前にこの辺りを開墾して、畑にしていたんだよ。」と鈴木さんは遠い目をされています。この辺りが畑だったとは…。たしかに区画を切った中にみかんの木が残っています。でも道は、すでに分からない状態です。


          こんな茅をかき分けて行きました

 大きな石丁場を5つ6つ見たでしょうか。崩落している所もあり、年月の流れを感じずにはいられませんでした。

 「ご苦労様だったね、もうすぐ見晴らしのよいところに出るよ。」という鈴木さんの声に元気づけられ、到着したのがここです。下田港や下田富士、寝姿山、高根山、大段などが展望されました。でもいつもそれらを見ているアングルではないので、山々の形が違っていました。


       下田富士もおかしな形に見えました

 ところで、ここから切り出した石は、どのようにして下に下ろしたのでしょうか。石丁場によっては橇道のような溝が伸びているので、橇で引き出したのでしょうか。またはそうした道がない所では、もっこを使って運んだのではないか、と参加者のどなたかが言っていました。たいへんな労働だったことでしょうね。

ここはどこ?
 さて、どこをどう歩いたか分からないうち、一旦下界に下りてきました。ここは一体どこなのでしょう?


             ここは一体どこ?

徳利地蔵尊
 民家のそばに大きな岩があり、その上に「とっくり地蔵」が祀ってありました。ちゃんと「徳利地蔵尊」という案内の石標もありました。載っている所の巨大な岩がとっくりに似ている事から、この名が付けられたそうです。知らなかった…。


           誰が名付けたか、とっくり地蔵様

こ、こんな所に!?
 さあ、探索はこれで一段落かと思われたその時、何と次は民家の庭にあるという巨大石丁場跡を見せてもらうことになりました。

そのお宅の御主人に案内されたのは、芝生の庭の奥にぽっかりと口を開けた地下の石丁場跡でした。


            この階段を降りていくと…

 おお、これは地下シェルターと言ってもよいほどの立派な地下室です。ここもかなりの広さですね。うーん、こんな所にこんなものがあるとは…。


        ご主人が用意してくれた投光器で隅々まで見ることができました

 実はこの隣りにももっと大きな丁場跡があったそうなのですが、子どもが入り込むと危険なため、入り口を土盛りして塞いでしまったそうです。そちらは飛行機の格納庫並の規模だというのですから、すごいですね。

 仕事の合間を縫って駆けつけ、見学させてくれたご主人に丁重に礼を申し上げ、次なる丁場跡に向かいました。

 この頃になってようやく自分のいる場所が分かったのですが、何と清掃事務所の入り口付近に出たのでした。敷根って奥に深かったんですね。初めて来た場所でした。

驚愕の石丁場跡
 さて、最後の石丁場跡は、もうかなり国道に近い方です。石井さんというお宅の庭の脇を、Ss木先生はどんどん入って行かれます。こんな民家の裏に? という感じなのですが、どんな石丁場跡なのでしょう。が、この後、参加者一同はその規模の大きさに度肝を抜かれ、またまた感嘆の声を上げるのでした。


     先生、こんな所に石丁場跡があるんですか?

 と、先生の先には、細い回廊のようになった通路が見えました。これも石を切り出した跡のようです。


       見上げるような高い回廊の壁 でも狭い!

そしてそこを抜けますと…、おお、これは! こんな巨大な石丁場跡があろうとは! まさに驚愕であります。


            切り出した石の跡がそのまま紋様になって残っています

 一節にはさきほどの民家の庭にあった石丁場と奥がつながっているとも言われ、その規模の大きさは想像を絶するものがあります。そう、広さはテニスコート2面分ぐらいですが、奥へはどれくらい深く続いているか分かりません。高さは25mほどあるでしょうか。

誰かが「あんな高いところの石をどうやって切り出したのかな。」「足場を組んだんじゃない?」と言っていましたが、これはむしろ上の方から下へ切り進めてきたのではないでしょうか。結果として今立っている地点まで到達したということだと思います。それより、まだまだ石は切り出せそうな感じですが、途中で作業をやめたのでしょうか。

 そうそう、画像の左下に写っている四角い窪みは、お地蔵様のような物が祀ってあったらしき跡です。危険な作業出るから、守り神様は必要だったのでしょうね。


               どうですか、この規模の大きさ!

 Ss木先生のお話によりますと、文久3年(1863年)12月、船を使って上洛途中だった将軍家茂が強風のために石廊崎沖を回る事ができず、下田に逗留したのですが、その際、家茂は下田の石丁場跡を見学したそうです。先生の見解では、ここの石丁場を見たのではないかということです。

将軍の見た石丁場。すごいことではありませんか。(翌日の伊豆新聞に掲載されていたのは、この石丁場跡での一こまです)


 ここで一枚、記念写真を

 今回の石丁場跡探索は、これでお開きです。中央公民館に戻り、昼食をとった後は、春日山の三十三観音を見て回る一行でした。


         疲れた体にはきつい石段です


              春日山から見る下田の街 ここからの眺めもいいですね

 どこをどう歩いたかは定かでないのですが、この日の足取りはおおよそこんなものだったと思います。分かんないけどね。一人では行かない方がいいですよ。

                                             
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