葉

石敢当さんを探して〜沼津市多比の龍雲寺へ
探訪 2008年4月11日〜12日  
Special thanks for M田研究員女史さま!  
 
石敢当(せきがんとう)さんを探して
 2008年の冬に、KAZU氏のレポートを通じて下大沢の峠に石頭(せきとう)さんがあることを知りました。その峠を訪ねた時の記録は、既に掲載したとおりです。

 数日後、そのページを見てくださった下田市史の研究家であるM女史から、連絡をいただきました。

「“せきとう”さんは、“せきがんとう”さんのことじゃない?」

「せきがんとうさん」とは、初めて聞く名です。

「せきがんとうさんって、何ですか?」 と尋ねますと、次のように教えてくださいました。  

「せきがんとうさんは「石敢当」と書き、辻の突き当たりなどに立って悪霊などが村に入り込まないように守っている神様だよ。“せきとうさん”って、似た発音でしょ。“石敢当さん”と同じじゃないかしら。何か彫ってなかった?」

ということです。サイの神様に似た力を有しているのでしょうか。

「せきがんとうさんは、静岡県に一つしかなくて、それが沼津の西浦のお寺にあるんですって。 ネットで検索すれば出てくるから、調べてみて。」

そういう話で、これは面白いと思いながら受話器を置きました。

石敢当さんを考える  
 峠は、こちらと向こうの世界を分ける境界です。旅人にとっては疲れがもっとも大きくなる辺りで、里から離れて寂しくなるのも峠の特徴です。乞食や追いはぎや出没し、通る者にとっては怖いところであったのが峠なのです。
そんな峠に、人々の煩悩を和らげ、来世へと行く者を導く地蔵様が立てられるのは、道理にかなったことであると思われます。

 石敢当さんも、地域という小世界の境界に立って平和を守ることから、M女史が「石頭さん=石敢当さん」と類推されたのも頷けるところです。

秘密研究室にて
 電話をいただいた3日後、港近くにあるM女史の秘密研究室を訪ねて、詳しい話を聞きました。

 女史は秘密諜報文書の広がった机上に国語大辞典を開き、「石敢当」の項を見せてくれました。

石敢当…「敢当」は、向かいところに敵がないの意 丁字路の突き当たりや辻に建てる魔除けの石。多くは「石敢当」の文字が刻んである。中国福建省から沖縄、九州にかけて分布。

なるほどなるほど。そのような神様は、全然知りませんでした。

 と、そこへ古畑任三郎もとい、殿、いえ、田村正和サマによく似てられるS木秘密研究所長が出先から戻って来られました。

 さっそく石敢当のことを話しますと…、 私たちの真剣な表情を一瞥して「フッ…」とわずかに笑みを浮かべ、こう仰いました。

「石敢当は石碑だから、祠のような形はしていないよ。」

ガーン! さすが先生。すべてを見通しではありませんか。


 石頭和尚(せきとうおしょう)という意味も、辞典で引くことができます。中国の禅僧で、石の上で座禅を組んでいたことから、「湖南の石頭和尚」として知られたそうです。下大沢の石頭さんはそこから呼び名が来て、「せきとうさん」と呼ばれていたのでしょうか。想像の域を出ません。全く分かりませんのです。

県内唯一の“石敢当”さんはどこに?
 では静岡県に唯一あるという石敢当さんが祀られている沼津のお寺とは、どこなのでしょうか。

 ネットで検索しますと(ホントはそういう安直な調べ方は嫌いなのですが)、沼津市多比の龍雲寺にある、と出ました。



 多比といえば、沼津の狩野川放水路の排水口の近くにあり、2月に古い隧道群を訪ねて歩いた地域です。東西に長い静岡県なのに、比較的身近なところにあることに驚くと共に、その地を訪ねてみようと心に決めたのでした。

2008年4月11日、金曜日。ちょうど沼津に出張に出かけたので、その帰りに多比の龍雲寺に寄ってみました。  

いざ、多比へ
 地図を見ますと、お寺の周囲は住宅が密集しており、国道から歩いていかないとたどり着けないような感じです。しかたなくちょっとの間だけ7−11に車を置き、徒歩でお寺に向かいました。


                多比トンネル近くの7−11

 普通、古い石碑などは道路の拡張工事の際にお寺の境内などに移され、いつの間にか忘れられて苔むす、ということが多いです。 今回も、「お寺に入ったものの、どこにその石敢当さんがあるか分からず難儀する」という図式が見えていました。ですから、用心してお寺へと向かったのです。

7−11の裏の旧道を少しだけ歩き、細い路地に入ります。


           7−11の裏にある道 ここが旧県道だと思います

「マルイチストアー」の東にある細い路地に入ります。車は軽自動車であっても入ることはできません。完全にここで生活する人々のためだけに、古くい時分から作られた道でしょう。

すると家々の屋根の向こうに、お寺の甍が見えました。お寺は、高台にあって集落を見守るようにして建っているようです。


              何かお寺のような建物が見えます

 狭い路地を左に右に曲がり、お寺のある方へ見当をつけて歩いていきます。


               お寺でしょうか 見えました

ほどなくして、お寺の境内に上がる石段が見えました。


            何だか石碑のようなものが見えます

ん? あの石段の登り口にあるのは、念仏塔と・・・そしてもう一つ、石塔です。

  石 
  敢
  當

   もう見つかった !


            うわわ、いきなり見つけてしまいましたーっ!

いきなり見つかってしまったので、まったく拍子抜けしてしまいました。

石敢当さんの大きさは、高さ140cmほどあります。厚さは50cmぐらい。想像していたよりもはるかに大きいです。


          石敢当さまの立ち姿です


             どっしりと構えたお姿です
  

            横から見た図 地面から生えた竹の子みたい

 銘は、表に彫ってある「石敢当」だけのようです。建立年月日などがあればよいのですが、ただ「石敢当」と彫ってあるだけ。ちなみに並んで建っている南無阿弥陀仏の念仏塔には「講中安全 嘉永七年」などと彫ってあります。

石敢当さんの前には、まるで子供がままごとで遊んだかのように4,5個の小石が置いてありました。念仏塔の方には、燃えさしの線香が10本ほどあげてありました。


            念仏塔にあげられた線香

話を聞くも
 そこへちょうど車を向かいの駐車場に入れてきたご婦人と、たまたま歩いてきたご婦人とがいらしゃいました。もちろん声をかけて、石敢当さんについて知っていることを尋ねてみました。

しかしお二人とも 「知らないねえ…。いい加減なことを言っても困るでしょうから(←知っていることがあるんですかっ!?)、和尚さんに聞いてみてください。」 と、つれない返事です。ま、お寺の門前にある石碑なら、お寺の人に聞くのが一番よいでしょう。


               お寺の境内に至る石段

 石段を上がってお寺の人に尋ねることにしました。

 参道になっている石段の、向かって右には墓所の分譲地があり、左手には無縁さんの墓所、そしてさらに左奥には児童公園と、忠魂碑のような大きな石碑が建っている場所があります。


      参道の左に、庚申塔や無縁さんと思われる墓石などが集めて並べてあります

 石段を登り詰め、静かな境内におじゃましますと、本堂と並んで、まだ建てて間もないと思われる庫裏がありました。


     堂の前に来ました どなたかいらっしゃいます?

玄関にインターホンがあったので、呼び出しボタンを押してみました。

すると、スピーカーからしわがれ声の和尚さんらしい返事が聞こえました。

「すみません、石敢当さんについてご存じのことを教えていただきたいのですが…。」

「知らないですねー。何も知らないですよ。」(そ、そんな…)

「ずっと昔からこの場所にあったのですか? 動かしていませんか。」

「ずっと昔からありましたね。」

     ・
     ・
     ・


  (そ、それだけですか・・・)

それ以上は何も答えてはくれず、今にもインターホンのスイッチを切られそうな感じでしたので、ずっと石敢当さんの位置が変わっていないことを確認して、こちらから切りました。けんもほろろ、とはこのことです。トホホのホ・・・。

 石段を下り、改めて石敢当さんの位置を見ました。

 石敢当さんの東は民家へ通じる私道のようになっています。西は坂を登っていく市道でしょう。確かに丁字路になっています。 サイの神様は集落の入り口にあることが多いのですが、石敢当さんは集落の中の分かれ道にある感じでしょうか。

 情報を得る最大の頼みの綱である和尚さんがこのような調子ですので、しかたなく7−11に戻ることにしました。  


         生活する人の姿は貴重です(この写真は翌日とったものです)

辺りは伊豆石の産地だけあって、石が至る所に使われています。下の写真は路地の水路を跨ぐ石橋です。今と古の石造文化が融合しています。


            古い石橋がコンクリで固められていました
 
 近くにスーパーがあったので、レジにいるご婦人(60歳前ぐらい?)に、石敢当さんについて聞いてみました。
 すると、「ええと、私はよく知らないから…」と、外にいたご主人(60歳過ぎぐらい?)を呼んでくれました。

ご主人は

「うーん、石敢当ね。ずいぶん名のある石と聞いているよ。沖縄から持ってきたらしいよ。魔除けの石だよ。いや、お祭りなどはしていないね。ずっと昔からあるよ。私が子供の頃からあるね。」

と教えてくれました。  


         お店に戻るご主人の後ろ姿です ありがとうです

ご主人の口から「沖縄から来た」「魔除けの石」という言葉が聞かれましたので、事典に載っていることと同じだ! と思いました。



 この日の探索はここまでです。
 石敢闘さんはすぐに見つかったものの、地元での聞き込みには失敗しました。というより、皆さん、あまり深くはご存じないようです。

ずっと昔からそこにあった石敢当さんは、その由来などを特に取り上げて伝えられることなく、静かに多比の集落を魔物から守ってきたのでしょう。

この辺りは魚の加工所なのでしょうか、工場が多く建っており、ニャンの姿もよく見かけました。


            たくさんのニャンが大事にされているようでした

下の写真のような燃料材が積み上げてある工場が多いのですが、一体なんの加工に使うのでしょう。通りかかった若い人に聞いたのですが、まったく知らないようでした。干物の乾燥機の燃料でしょうか?


                何かの機械の燃料でしょうか

そして翌日…
 次の日、出かける機会があったので、また石敢当さんに寄ってみました。

 ブランコの所で子供たちが遊んでおり、迎えに来た男性がいたので、話を聞いてみました。すると、

「石敢当ね、沖縄から来たらしいよ。船で運んできたんだろうね。または沖縄の人が作ったかだね。」

「“おたけさん”という神様が沖縄にいて、それを分けてもらったらしいよ。ほら、御嶽山(おんたけさん)という山がいろんなところにあるだろう? 神様が宿る山だね。それと同じような意味らしいよ。魔除けの石だね。」

「郷土の歴史に詳しい人もいるだろうから、聞いてみるといいよ。」

 石敢当さんが沖縄から運ばれてきたというのは、昨日も聞いた話なので、あるいは信憑性があるのかもしれません。これだけの巨岩をわざわざ運んで?と思っていましたが、船ならば、運んでくることができたかもしれません。なにしろ目の前が海なのですから。

 ここで一つ、気をつけて見てみることにしました。それは、この自然石がどこで採れた石か、ということです。

 色を見ると、明らかに伊豆石とは違う色合いをしています。伊豆石はこの辺りの特産品で、長い間切り出され、広く建築材として用いられました。白っぽい凝灰岩で、比較的柔らかく、加工しやすい、という性質を持っているそうです。

 しかし石敢当さんは、色が紫がかっており、伊豆石とは違う感じです。どこか別の土地から運んできた石、という感じもします。(沖縄の石かどうかが分からないのが残念です) 事実、この辺りの石塀に用いられた石は、独特の模様を持ち、風化が進んでいることでその質の柔らかいことを物語っています。


          スーパーの裏にある伊豆石の塀 風化が進んでいます

 沖縄に多いという石敢当さんがなぜ静岡県に一つだけあり、しかもここ沼津にあるのはなぜなのでしょう。そして、どこからどうやって運ばれてきたのでしょう。それはまだ分かりません。多比の人たちが詳しいことをご存じないことも気になります。

しかし石敢当さんはこれからも門前にどっしりと座り、多比の人々を静かに見守ることでしょう。門前の路地には、石敢当さんの裏にある公園に向かって走ってくる子供たちの声が響いていました。


    石敢当さんのある公園に駆けてくる子ども達

おまけ
 帰りは、前日(4月11日)に開通したばかりの「天城北道路」を通ってみました。伊豆市の大平を通るこの道路、江戸期の下田街道を見事に潰して建設されています。里山の景観もすっかり変わってしまいました。


           天城北道路の大平インターに向かうところです

                                             
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