葉

海軍石炭積出し桟橋跡のレールを探せ
未遂 2007年2月11日   
 
指令下る
 1月、2月と、石丁場探索が続いた折り、市史編纂室所属のM女史隊員からこんな話を聞いた。

「あの石炭積み出し桟橋の近くの薮にレールが残っているわよ。」

えっ!? レール?! あの桟橋で使われていたレールが今でも残って放置されているの? 明治時代の日本帝国海軍の石炭積み出し桟橋に使われていたレールが、まだあると?! 半信半疑ながらも、もし見つけられたらすごいな、と思い、出かけてみた。

西風に吹かれて
 2月11日。日本鉱業白浜鉱区の坑道探索を終えたその足で、福浦に寄ってみた。下水の終末処理場近くに車を停め、“ハリスの小径”を歩いて桟橋跡を目指す。 今日は西風が強く、花粉混じりの冷たい風が頬を打ち、体が持っていかれそうになる。

 うーん、福浦から行く方が桟橋跡に近いのか、それとも柿崎の弁天島から来る方が近いのか…。微妙だ。



震洋格納庫跡記念碑
 整備された歩道を歩いていくと、立派な慰霊塔というか記念碑がある。太平洋戦争時にここに配備された“震洋”(別名、ベニア板製特攻艇ともいう)の鎮魂記念碑らしい。



 記念碑の向こう側、奥の山の麓に“震洋”が格納されていた露天掘りの洞窟がある。ここに震洋が置かれ、横須賀の海軍基地から派遣された若い操縦士が戻ることのない出撃を待ったのだ。


       震洋格納庫跡 奥行きは15mほどあろうか

 そういえば下田港には戦争中に沈んだ潜水艇がまだ残っているという。 引き上げを望む声もあるが、それには2000万円ほどかかるというので、断念したらしい。7,8年前の伊豆新聞でそんな記事を読んだ記憶がある。

寝姿山の真実
 ハリスの小径で、こんな案内板を見た。寝姿山の全容を見ることのできるポイントに、その山容を解説しているのだ。



 よく見ると、なぜこの山が「寝姿山」と呼ばれているのか、よく分かる。うーん、ちょっとHっぽいかも。

 昼間、伊豆急電車の下りに乗って下田駅に電車が近づくと、車内アナウンスが流れる。

「その姿は女性が寝る姿に似ているので、寝姿山と呼ばれ…。」と言うが、実は女性の寝姿に見えるのは電車の中からではなく、この地点から見た山容がそうした姿に見えるんだ。決して電車の中から見えるのではないんだな。


        はっと気づくと、ちょっとなるほど女性が寝た姿に見える

戦争遺跡
 さあ、桟橋跡が見えた。吹きすさぶ西風の中で、それらは身じろぎもせず冷たい海中に当時の傾斜度を保ったまま私を待っていた。







残されたレールを探せ!
 さあ、レールはどこにあるのだろう。聞いた話によると、桟橋跡からハリスの小径を越えた薮の中にあるらしい。
 で、薮に入ってみた。と、ここにも、震洋の格納庫だったのか、と思われる穴があった。


       内部は奥が落盤によって埋まっている模様 こんな穴がいくつもある

 実は、先の記念碑からここに来るまで、山裾にはいくつものこうした穴があったのだ。数にして7,8個にもなろうか。

ミッションインポッシブル?
 さてさて、桟橋跡から付近の薮や山裾をくまなく歩いてみた。西風に吹かれて集まったゴミや、悪臭を放つ下水、目を突き刺す竹藪などに難儀しながら、それこそ目を皿のようにして探した。



もちろん県道まで足を伸ばして探してみた。


      畑の際を上がってくると、須崎や爪木崎に行く県道に出てしまった

しかし、無い、ナイ、ない〜っ!!!

 畑の手すりなどに再利用されているかも?と思って、それらしい物をも見てみたたが、無かった…。(脱力)

 もちろんこのことはS川隊長にも報告したが、後日捜索に来た隊長も、やはり・・・だったらしい。

 帰り道、岸辺にこんなものを見つけた。もしかして震洋の出撃用桟橋跡かなあ。分からないけど。


               これ、なあに? 何の跡?

 さて、今回の探索はここまでである。結局、海軍石灰庫積み出し桟橋に載っていたレールは見つけられなかったが、それもまたよし。歴史探索の一つのスタートにしよう。だって、楽しみはとっておいた方がいいじゃん。(負け惜しみ…)
                                             
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