葉

佐賀野鉱山に驚愕の鉱山施設を見る
探訪 2007年6月30日  
 
伊豆の金山、再び
 伊豆には鉱山が多い。
 一般的に知られている縄地鉱山や蓮台寺鉱山など、大規模な金鉱山を産業遺跡として見た時、これまでの探索によってその大きさが徐々に見てとれた時には、驚くことが多かった。
 それらの鉱山は、おおむね海岸からあまり遠くない所か、あるいは交通の便が比較的よい所、または交通手段を敷設できる所に開発されていた。鉱脈が短く短命、と言われている伊豆の鉱山にあって、比較的鉱脈が長めであることと地理的に鉱石の搬出に便利であることから、海の近くの金山は規模も拡大できたと言える面があると思う。
 しかし、逆に山間部に開かれた鉱山もある。加増野の金鉱山や小杉原のマンガン鉱山などは、山間部と言っていいだろう。しかしそれらにしても里が近く、馬車やトラックによる輸送は可能であった。

 しかし今回訪れる河津町の佐賀野鉱山は、そうした “ 伊豆の金山は海の近く ” という私の概念をうち砕く鉱山であった。そして、それに加えて、これから紹介する驚愕の “ あの設備 ” が残っていた。それは二重に驚くべき事実であり、これまで私が持っていた「伊豆の鉱山」の概念をうち砕き、新しい一面を加えるに十分であった。

鉢の山を越えて
 今回の探索を行うに先立って、隊長は下調べをされている。そして既に掲示板にレールの画像を載せている。下ヶ賀野の山奥に鉱山があり、しかもレールが残っている?! 私には信じられない話である。そのレールをこの目で見たい! それゆえ、私ははやる胸の鼓動をおさえきれず、パジェミ号のハンドルを握った。

 河津川に沿って広がる河津地区の集落を下河津(しもかわづ)と上河津(かみかわづ)の2つに分けるのが下佐ヶ野地区である。ここで河津南小学校と河津西小学校の学区も分かれている。その信号のある交差点を北に入る。辺りには広い駐車場を備えた7−11や天城生コンの工場などが見える。そして「河津オートキャンプ場」や「下河津病院」などの看板も、ここから先を登ったところにそれらがあることを示している。

 スーパーアオキの惣菜工場を過ぎると、佐ヶ野の集落は田畑や里山の風景に調和し始める。緑の絨毯が家々を包み、渡る風が木々を揺らす。高校時代、山岳部で一緒に山に登った同級生の家があるはずだが、どこだろう。榎本君、元気かなあ。

 途中、「予約制 十割手打ち蕎麦」の看板を掲げた民家を見たが、こんな山の中で予約制をとって経営が成り立つのだろうか。いや、蕎麦好きとしては関心を持った。ホント。

 画像はないが、パジェミ号は下佐ヶ野の山道をぐいぐい登っていく。まだか、もっと奥なのか。

 舗装林道はやがて鉢の山の麓に迫り、草原の広がる山肌に突き当たった。

 「鉢の山」。それは河津の山里にそびえる火山である(今では「死火山」や「休火山」などという呼び方はしないそうである)。ちょうどすり鉢を伏せたような均整のとれた形をしていることから、その呼び名がある。左はオフロードバイクやラジコン飛行機愛好家が利用する草競馬場跡、右はオートキャンプ場や別荘地のある一帯となる。そこを右折し、どんどん進む。この辺は平坦となり、走りやすい。が、こんな奥に鉱山があるのか。

 別荘地を抜け、また右折すると、今度は下りになる。コンクリート舗装の道は杉林の中を延びていく。再び道が上りになっていよいよ鬱蒼と茂る森に入った。下佐ヶ野の7−11からここまで何kmあっただろうか…。

いざ入山
 「ここから歩いてどのくらいか? なあに、5,6分歩けば、坑口はあるよ。」 

 こともなげに言う隊長。ここの鉱山を探すに当たって、隊長は河津の山好きな識者の話を聞かれたそうだ。それも、山中を彷徨っている時に偶然治山工事に来ていた地元の工務店の社長が、地元の地理や歴史に詳しく、幸運にもこの鉱山の位置を特定するために力を貸してくれたという。なんという隊長の運のよさであろう。いや、それも隊長の発するオーラだ。オーラーと熱意は、運をもたぐり寄せてしまうのだ。恐るべし、穴菌隊長のオーラ!

 林道の終点には、別荘地に上水を供給していると思われる簡易水源施設がある。そこからが鉱山ワールドの始点である。


         さあ、車での長旅は終わり  したくをして歩き始めよう!

 今回が初参加の伊豆の助さんは、つなぎにヘルメットで武装。意気揚々と歩き始める。私はメタボのお腹を抱えて、ちょっときつい〜。


       さあ、行こう! 5分後にはこの目で坑口を見られるのだろうか

沢を簡易橋で渡り、杉林の中の斜面を上がっていく。目印は足元に横たわるパイプラインである。


        この簡易橋はトロ線跡と重なっているのだろうか

 ふうふう言いながら山の斜面を登っていく。と、本当に5分ほど歩くと、目の前がぱっと明るく開けた。平場だ。

 そこは、ワラビの群生地帯となっていた。しかも荒れた山中の環境下で命を繋ごうと力強く伸びる、山ワラビ(←命名 鈴木)だ。 7月になろうとする今でさえ、広げた葉の芯に新芽を伸ばそうとしているものさえある。ようし、来春はここへワラビ採りに来よう!


       ひたすらパイプラインを上がっていく  と言っても5,6分程度のことだ

坑口だ!
 膝丈以上に伸びたワラビの群生地帯の左奥に、それはあった。 杉林を身にまとった山肌の裾で、坑口がひっそりと私たちを待っていたのだ。こんな人里離れた奥山の小さな沢の傍らに、先人はどうやって鉱脈を見つけたのだろうか。露頭すらないその地形には、山師を引きつける金の輝きがあったというのだろうか。驚くほかはない。

 坑口は、以前は石を積み上げて封鎖してあったようだ。しかし長年の風雨によってそれは次第に低くなり、今は私たちの進入を許している。いや、これは表現上の語彙であって、決して誰彼入ってよいわけではない。あくまでも坑内進入は自己責任で、である。


  初めての坑内探索にはやる気持ちを抑えきれない伊豆の助氏  私を置いてかないで 

レールはどこだ?!
 その前に、平場を歩いてみよう。レールだ、とにかくレールが見たいのだ。

 そのレールは、難なく見つかった。すでに広葉樹の林となりかけている平場の際に、飴のようにぐにゃりと曲がったレールが2本、横たわっていたのだ。 1本のレールは、坑口からだいぶ離れたところに、沢の方に向かって、あった。もしかしたらこのレールが描くRは、敷設当時の半径をそのまま引き継いでいるのかもしれない。


 
もう一本のレールは、その手前で微妙な曲がり具合を見せている。

これだ、これらが見たかったのだ。このレールが当時、下の林道敷きに敷設されており、トロッコを往復させていたのだろうか。今となっては想像をふくらませるしかないが、鉱山とレール。それらはもはや私の中で必要不可欠にして、切り離すことのできない存在なのである。


         この微妙な曲がり具合も当時のものであろうか

穴菌隊、入坑する
 半ば崩れた石積みを越え、坑内に入る。中はひんやりとした空気が満ちている。空気の流れは感じない。幸いにしてコウモリ男爵やゲジゲジ侯爵の姿はないようである。湧水はあるが、歩くのにはそう難儀しない。全然問題ナシ! さあ深部へと歩を進めよう。



スパイクピンのついた長靴でバラストを踏みしめて歩く。「ジャリジャリ」と、ピンが小石を踏み砕く音が坑内に響く。

 と、おお、レールが残っているではないか。まるで炭化した木材のように錆びてしまっている。しかしレールが残存しているのは珍しい。やはり山奥にあるだけに、閉山時にレールの搬出をするのが難しかったのだろうか。

 しかしこの時私はとても重大なことを見落としていた。それは穴菌隊員にとって一世一代の恥ともいうべき誤謬であった。


     赤茶色に錆たレールを発見! とその瞬間は思っていたのだが

 それに気づかせてくれたのは、先を歩く伊豆の助氏の上げた声だった。

伊:「これは、木のレールじゃあないですかね。」

私:(えーっ、木ィ? 確かに私も最初は木かと思ったけどサ、伊豆の助さんまで間違えないでよ。)
  「違うでしょ。 木のレールだなんて、そんな…。 それはたぶん、レールが曲がる時に外側につける補強材でしょう。」


 半信半疑


 だって、まさか鉱石を載せた思いトロッコが往来するのに木のレールなどあり得ないではないか。 つい今し方、坑口の外で鉄製レールを見たばかりだし。 でしょ?
 しかしどう見ても、これは木だ。 木製のレールだ・・・。

  あり得ない!

 いや、ここの部分だけレールが痛んだので、応急処置として木で代用したのかもしれない。まだ半信半疑の私。しかし、足で踏んで、手で触ってみて、やはりそれが木製であることを確認した。

                 驚愕の事実!
 

                 佐賀野鉱山は、

   木製のレールを使用していた!

 我々はこの「レールが木製」という事実をさらに確かめるべく(←いや、お前だけだって!)、坑道を奥へと進んだ。

 坑道は思ったより長く続いている。分岐もあり、思ったより規模が大きいことが分かった。


        隊長は左へ、伊豆の助さんは右へ  待って〜っ!

 まずは、こちらが主坑道かと思われる方に進んでみた。既に廃坑になって数十年は経っていると思われるだけに、あちこちで崩落が見られる。 痛んだ枕木が散乱している。レールは…、やはり木製のようで、奥に進むにつれて保存のよい状態で見られるようになった。



見よ、これが希有な木製レールのトロ線跡である。



下の画像を見たら、これはもうわが目を疑うしかあるまい。しかし事実なのである。繰り返す。これは決して鉄製レールではない。木製である。


    このレールの上を、トロッコはどんな音を立てて動いていたのだろう

湧水の湿潤が顕著であるが、今回は隊長お勧めのスパイク付き長靴を装備してきているので、坑内はまったく躊躇することなく歩くことができる。



 しばらく行くと、左手に縦坑を発見した。下の画像は、主坑道から縦坑越しに支線を見たところである。縦坑の上、つまり坑道の天井に当たる部分に支保工で櫓を組んである感じだ。ここからウインチでワイヤーとゴンドラを降ろし、一つ下の坑道から鉱石を巻き上げたのだろう。となると、この下の地下部分に更に別の水平坑道があることになる!


   縦坑を越えることはできないので、向こうの支坑道に行くことはできない

 縦坑にカメラを持った腕を突き出して写真を撮ってみた。石を落とすと「ガコン、ガコン…」と何度か反響音を残して石は落ちていった。縦坑は真っ直ぐ地底に落ち込んでいるのではなく、ジグザグに掘られているようだ。


          縦坑の底は見えない  ゾーッ・・・

見えない恐怖
 ここまでで100mほど進んだだろうか。私は、さらに坑道の奥にどんな風景が見られるのか、歩を進めた。しかしそんな私に、隊長は「ちょっと空気が薄いな。あまり奥に行かないで。」と釘を刺すのだった。やはりその辺りは坑道潜りの年季が違う。ただやみくもに探索していては命に関わる。生きて戻ってこその探索なのだ。

 そういえば、隊長は坑道に入ってすぐ、「空気が流れていないな。酸素の量に不安があるから、単独行動と深追いはしないように。」と注意を喚起していた。

 では、酸欠になると具体的にどんな症状が出るのだろう。
 酸欠になると、まず頭がピリピリと軽く痺れてくるらしい。その時に坑道を脱出すればよいのだが、我慢していると、いきなり意識を薄れて倒れてしまうと言う。助けに入った仲間も同じ症状に見舞われる可能性が大きいので、単独行動は慎まなければならないのだ。でも坑道の一番奥を見てみたいよナー。

 坑内の探索を終えて帰る時、レールを持ち上げてみた。見事に枕木を伴って木製レールが現れた。


     枕木を伴って現れた木のレール  これを貴兄はどう説明する

坑道脱出
 坑道の外には鉄製レールがありながら、なぜ坑内は木製レールなのだろう、とぶつぶつつぶやく私を促し、隊長はさらに我々を次なる探索にいざなうのであった。

 下の画像に写っているのは、ポリバケツである。もちろん私たちが持ち込んだのではない。車を置いた場所からここまで、私たちを道案内するようにポリパイプがつながっていた。その元がこれなのだ。おそらくは水源として引水していたのだろうが、何のために? そして塩ビパイプは更に上流に向かって伸びている。あるいは車を置いたところで見た簡易上水道施設に水を供給しているのだろうか。謎である。


        近くには、養蜂に用いたと思われる木箱が転がっていた
 
 さて隊長は前回の下検分の結果に基づいて、伊豆の助さんと私をさらなる鉱区へと連れて行ってくれるという。一帯ここから上にはどんな光景が見られるのだろうか。

次なる鉱区探索へ
 坑口前の平場から、人一人が歩けるくらいの幅の小径が沢の上流に向かっている。その奥に面白いものを見つけてある、と隊長は言う。一体なんだろう?


            いい感じの幅を持つ道だ  トロ線跡か?

  傍らを流れる沢は小さな滝を持つ。辺りにはマイナスイオンが漂い、軽やかな水音と相まって、涼しさ満点の空間を作りだしている。これは隠れた名所ではないだろうか? 


          登って来たーっ   この滝上に何が!?

 聞くと、隊長は先にこの地を訪れた時、何かに誘われるようにこの小径を辿ったという。隊長の坑口レーダーを強く反応させたものとは、一体…!?

 と、やがてそこに、岩肌を切り通した“ あの空間 ”があった。


         いよいよだ  坑口か、それとも…

近代鉱山の証
 岩の割れ目にあったのは、坑口ではない。朽ちた木の扉、内部に続く石段。そう、それは火薬庫の跡であった。さっき見てきた坑道を掘り進めるために用いたダイナマイトを保管してあったのだろう。これはとりもなおさず、この佐賀野鉱山が手掘りでなく、爆薬を使った近代鉱山であることを示している。


        内部の撮影はブレて失敗した  無念…

対岸へ、そして上流へ
 火薬庫から一旦戻り、沢を渡る。そちらは左岸になる。そこからわずかに行くと、この坑口がある。奥は浅く、試掘跡のようだ。



今日持ってきているデジカメは、「キャノンパワーショットS2IS」だ。しかし、うーん、フラッシュを焚くと、なぜかブレてしまう。先幕シンクロなのか、もっときちんとホールドしないとダメのようだ。次回からは一脚を使うことにしよう。


        試掘の跡だろう   奥行きは7,8mといったところ

 さらに沢の左岸を遡上する。と、小径の所々に、こうした鋼板が見られるではないか。これは…?


     幅3cmほどの薄い鉄板が小径に沿うようにして落ちている

トロ軌道敷跡
 これは今来た道をふり返って見たところである。右手前から上がってきた。この先には平場がある。そして道はスイッチバックして左手前に進んでいる。そう、この小径は、トロ線跡である。かの鋼板は、木製レールの補強材であろう。
事実、先に紹介した河津の寺川工務店の社長は、ここでトロッコの車輪を一つ回収しているという。


    あたりには野鳥のさえずりが響いている  いい雰囲気の林である

 沢から数mのところを、トロ線跡は上流を目指して標高を上げていく。我々もその後を追う。途中、軌道敷きの肩が崩れた地点があった。



崩落は5mほど下の沢に落ち込んでいるが、鋼鉄の補強材はそこが軌道敷きだったことを物語っている。



そうして軌道敷きは尚も上流を目指して延びている。 傍らの石垣には、かつて保守小屋でもあったのだろうか。



 さらに、終点に近い地点にもこのような小屋の残骸があった。トロの格納小屋か?

 しかし、腑に落ちないことがある。坑道内のレールは木製であったが、その姿はほぼ原形を留めていた。しかし坑口前の平場に残っていたレールは鉄製である。さらに、ここに至る軌道敷きには木製レールがあった痕跡が認められるが、それらのレールは取り外されたらしく、既にない。
 木製レールであれば、材料は鉄よりも入手しやすいと思われる。廃棄だってそう手間はかからないだろう。昔のことだ、放置すれば問題ないだろう。ならばなぜこの沢筋にはレールの木片も枕木もないのだろう。



最終地点にて
 いよいよ沢を登り詰めると、行き先は壁のように切り立った崖となった。そしてそこには3つの坑道がぽっかりと口を開けて我々を待っているのであった。ここまでが佐賀野の鉱山の鉱区であったようだ。 沢の冷水をすくってしばし休息する穴菌戦士3人。さあ、いよいよ坑道探索第2弾だ。



 が、隊長は「ここの穴は坑道図を見ると40m奥で終わっているし、入り口が狭いから、入らないよ。」との無情の言葉を発した。えーっ、そうなの。誰かがすでに何年か前に入った跡があるジャン。行かないの〜? 
 しかたなく坑口からカメラを突っ込んで数枚写真を撮り、後ろ髪を引かれる思いでこの地を後にすることにした。





 沢を下り、鉄レールのある平場まで戻った。伊豆の助氏が童心に返ってレールと戯れている。氏は、若かりし頃、厚木で陸軍の残した防空壕を爆弾で吹っ飛ばした経験がある、という猛者である。今回は初の探索とは言え、物足りなかったかもしれない。次回探索もぜひご一緒しましょう。そして、隊長、今回もワクワク体験をさせてくれてありがとーっ!

                                             
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