葉

大浦坂と坂下町 
下田が一番栄えた頃の話
 2008年3月16日   
 
弥治川沿いの街
 了仙寺の山門から弥治川に沿って続くペリーロード。古い建物が並び、時代の流れを楽しむことのできる通りです。


          弥治川の下流から了仙寺方向を見たところ

このペリーロードを南へ歩いていくと、やがて海に至ります。この辺りを坂下町というのですが、その名にはこんな由来があります。


           辻に立てられた町名標(高さ40cmほど)

大浦の船改番所
江戸幕府が開かれたのは1603年ですが、その33年後の1636年に、下田に船改番所(船を調べる役所)が設けられました。


                 大浦(鍋田湾)の風景


                 「大浦」の町名標(番所跡近く)

 江戸に行き来する船は、必ず下田に寄り、役人によって積み荷や乗組員の点検を受けなければならなかったのです。 番所は、ペリーロードの一つ西にある鍋田の大浦湾に作られました。今ではその跡地に小さな案内板が立っているだけですが、大浦の磯には、船の綱をくくりつけた穴の残る岩が十数個残っています。


               大浦の舟改番所跡(現在は私有地)


               跡地に立てられた説明板


          370年ほど前に開けられた、船を繋留するための穴
風待ちの湊
 船は、天気や風向きが悪いと出航できませんから、何日も大浦で日和待ちをしなければならないことがありました。船の数は、「出船入り船、三千艘」と言われるほどたくさんだったそうです。あの大浦に船がびっしり並んだ様は、壮観だったことでしょう。 風を待つ間、乗組員たちは下田の船宿に泊まりました。当時、下田には船宿がいくつもあり、ペリーロードのある弥治川にはたくさんの飲食店などが並んでいて、深夜まで賑わっていたそうです。


              弥治川沿いの通りに残る古い家並み

大浦の切り通しと大浦坂
 風待ちをする間、たくさんの人たちが大浦から小さな峠を越えて下田の街へ通いました。しかし山越えの道は不便ですので、番所では、1664年に峠を切り崩して切り通しを作ることにしました。


              大浦の切り通しと“渡らずの橋”

 費用は、大浦に停泊する船の帆の大きさに応じて課金を集めたそうです。帆一反につき銀一匁を徴収したといいますが、現在のお金にしていくらぐらいなのでしょうか。 峠を崩すのですから、土が出ます。その土は、弥治川下流の浅瀬を埋め立てることで処理しました。埋め立てられることによってできた土地に、新たに町ができました。これが現在の坂下町です。

峠の切り通しは「大浦の切り通し」と呼ばれ、峠だったところの南側は「大浦坂(おおうらざか)」、北側は「逢坂(おうさか)」と呼ばれています。


                大浦坂を上り詰めたところ
逢坂橋と坂下町
「逢坂」と呼ばれたのは、当時の船人たちが弥治川の女性に会いに行くのに通った坂だから、というのが理由だそうです。今はその坂の名を知る人は少なく、わずかに弥治川に「おうさかばし」という橋にその名が見られるのみとなっています。


                逢坂橋から坂下町を見たところ

 大浦の船改番所は約100年間続き、享保の時代になって浦賀に移転していきました。移転した理由を下田市史編纂室の先生に聞いてみたところ、海が荒れることが多いため、寄港するのに不便だったから、ということらしいです。


                逢坂橋と周辺の家並み

 船改番所がなくなってからは、下田はまた元のような寒村に戻り、街は静かになりました。しかし職を失った人々も多く、生活は困窮したために、代表者達は韮山代官所に行って船改番所を復活するように懇願したそうです。が、その願いが聞き入れられることはなく、最後には訴状を代表団の目の前で焼き捨てられることで、その願いにとどめが刺された、ということです。

 今でこそ弥治川とペリーロードを歩くのは観光客が目立ち、大浦の切り通しも越える人は少ないのですが、そこはまさに下田が最も栄えた時代に作られた歴史の証しなのです。
                                             
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