葉

落合から縄地へ
 第1回探訪 2003年1月3日
 Special thanks for the “Lionbase”

 資料『図説 下田市史』の「村と町をつなぐ道」の項に、「…坂戸から落合の奥を通り縄地に至る道もよく利用された。」とあります。
 この道について私は最初、(落合から縄地へ行く道は、落合の中心を通る林道になっているのになぁ…、変だなあ。)と思っていましたが、それは大きな間違いでした。ほんとうに落合の北の奥を通って縄地に出る道があったのです。
 
 それに気づかせてくれたのが、道の先輩「Lionbase」さんです。師は古い記憶をたどり、お正月に峠付近の一本松を探し当てて縄地への道を完結しておられます。

 人の持っている物は自分もほしくなり、人のやっている事はまねしたくなるという悪い性癖のある私。あいにくその日はご一緒できなかったため、翌日にらいおん先輩の足跡をたどってみることにしました。               

山中谷橋
 下田街道の脇道として、坂戸から縄地方面に向かう道があります。そちらを過去に探索した時、坂戸の山を下りて沢を渡り、この橋を通って落合の駅方面に出ました。実は縄地への道は、ここで別の沢に沿って東に登るのです。なるほど資料の通り「落合の奥を通り…」となる訳です。

 さて、いよいよ古道に入ることにしましょう。取り付きは、伊豆急行の稲梓駅前を奥(北)にはいる林道です。その林道を行き止まりまで行きますと、正面に大きな砂防ダムが見えます。そちらを越えますと、坂戸に至る古道があります。縄地へは、その手前右にある別の砂防ダムを越えていくのです。


  奥から2番目の砂防ダムの左はじを行きます

 ダムに行く直前で小さな橋を渡ります。「竣工平成2年」「山中谷橋」(やまなかやばし)と書いたプレートがついています。大きな砂防ダムを、取り付けられた専用の階段で越えます。ダムの前後にはちゃんと人工の歩道がありますが、草が生い茂っていてほとんど用をなしません。定期的な手入れをしてないのでしょう。もったいないです。ダムまでは、ちょっと危ないですが堰堤に沿って行くのがよいようです。木の手入れをしてあれば別です。落ちる危険性のあるところには近寄らない方がよいのです。

 ダムを越えますと、道はかろうじてついています。右には沢がちょろちょろと流れています。かつて高校1年生の秋に遠足に来ていたはずなのですが、まったくこの道は記憶にありません。たしか峠を登り詰めたところに広がる草原で先生や級友達と馬跳びをして遊んだのですが…。

 辺りはざわざわと枯れ枝が揺れ、淋しいことこの上ありません。しかし所々に、きのう先輩がつけてくれた道しるべ(折ったアオキの枝)がありますので、心強いです。


      ここはまだ道が分かりやすい方です

 途中、道には(ここで左の山肌に取り付くのかなぁ…)と迷う地点があります。でもそちらは斜面が急ですし、踏み跡もないので、何度か行ったり戻ったりをしながらやはり沢に並行して登っていきます。

水禍跡
 すると、これはひどい。かつての水害で木々が押し流されてきたのでしょう。流木や倒木が折り重なって、行く手を塞いでいます。仕方なくよじ登って越えますと、おや、周囲より一段低くなったU字状の道らしき筋が見えます。(これは道に違いない!)と思って注意深く降りますと、果たしてそこには金属製の看板がありました。きっと「愛林防火」の標識でしょう。S字状の道を右に曲がりますと、今度は「昭和四十五年四月」と読める営林署の標識が倒れていました。これでここが道であることの確証が得られました。


       営林署の標識でしょうね 

 しかしU字形に一段深く掘られた道は、長くは続きません。が、踏み跡はあるので、どんどん沢に沿って登っていきます。 と、また前方が塞がれているところに出ました。今度は、過去に崖崩れがあったらしく、流されてきた土砂が堆積しています。よいこらしょと乗り越えてはみましたが、はて、沢に沿う道は分かりません。

 らいおんさんの記録によりますと、この辺りで山肌に取り付いて峠を目指すことになっています。そこで辺りを見回しますと、左に涸れ沢とも道ともとれる細い道筋が見えます。ひょっとして古道を水が流れ、溝を作ったものかもしれません。思い切ってそちらを登ることにしました。

ガレ場跡
 どうやらこの辺りは、かつて大きく地滑りを起こしたところのようです。水禍の際に崩れ、そこがガレ場になって、十数年の間に草木が育ったのでしょう。これでは道があったとしても分からないでしょうね。おう、ここにも折ったアオキの枝があります。ありがたい。確かなインフォメーションです。これをたどっていくことにしましょう。
 

      この涸れ沢が道でしょうか。登りましたところ…

ぬた場
 汗をかきかき急な坂を登っていきますと、崩落地帯の一番上に出ました。ここから下が崩れたんですね。その上には、ぬた場がありました。先輩の記録通りです。ぬた場というのは、水がわき出て土が泥状になって溜まっている所です。これで何とか先が見えました。このぬた場は、今回非常に大事な目印となりました。ここから先に進んで迷ったら、とにかく稜線を戻ってここを探し、沢に下りればよいのですから。


             ぬた場です

 さて続いて峠のようになっている尾根に出ます。が、お地蔵様はありません。この辺りじゃないのかな、と見当をつけていたのですが。さらに稜線に沿って東に進むことにしました。

 折れたアオキの枝を目印にして、どんどん進みます。道らしき道はないのですが、稜線を行くので進みやすいです。途中、馬の背のように左右が切り立った細い稜線部分もあり、気をつけなければなりません。また、眺望もほとんどきかないので、気を抜くと自分の方向を見失いやすいです。油断は禁物です。

三体のお地蔵様
 (えーっと、お地蔵様はまだかなまだかな…。)と思いつつ歩いていきます。踏み跡は、稜線の少し右下を並行して通っています。と、前方がちょっと広くなったなあ、と思ったら、そこにお地蔵様の姿がありました。やっと見つけました! ここまでで砂防ダムから1時間ほど経っています。結構歩いた感じがします。
       三つの小さなお地蔵様               かわいそうにお顔が…

 一番左のお地蔵様は古そうです。高さは40cmほど。銘はあるのですが、「…□七□…」としか読めません。気の毒に、お顔がありません。右斜め上からくさびのような道具でえぐり取られているようにも見えるので、きっと昔のバクチ打ちに取られたのかもしれません。(昔、バクチ打ちの間では、お地蔵様の頭を持っているとツキがよくなる、という噂があったそうです。)あとの二つは新しいような感じです。彫りも、専門の石工さんのそれとはちょっと異なるようです。ちょうど高根山の地蔵堂に納められた小さな地蔵様のような感じです。(分かっていただけるでしょうか。彫りが固くて凹凸がきつく、それでいて表情が平板なのです。褒めてませんね。ごめんね、お地蔵様。)

 さあ、道の方向はこれでよいことがより確かになりました。お地蔵様に手を合わせて、さらに先に進みましょう。
 稜線のでこぼこを左右にかわすようにしながら行きますと、おや、右手から合流するU字状の道があります。道、来てるですねー。どこから来たんでしょうか。沢からぬた場へ至る急登よりもっと向こう(東側)に道があったのでしょうか。

 あれ、ふと前を見ますと、これから行く先にもU字状の道がはっきり見て取れます。これなら大丈夫でしょう。ここは古道です。(って、今頃あんた…。)

幻の一本松
 左の遠方には、大平山も見えています。そうやって歩いていきますと、なだらかな丘の上、といったところに出ました。所々に山芋を掘ったあとがあります。これは別の人が昨日掘った、という穴ですね。その場で突き鍬の柄にした、という枝も落ちています。ちゃんと埋め戻しておかないと危険ですよね。山芋掘りのマナーですよ。この日は、埋め戻してない穴を新旧十個ほど見ました。案外この辺は山芋掘りのポイントかもしれません。


      芋掘りの跡    ここで道を見失いました

 先輩の記録によりますと、この辺りに「禁猟区」の黄色い標識と枯れた「一本松」があるはずなのですが、見当たりません。左には、逆川方面に伸びる尾根が長く続いているようです。明治期の地図には、そちらを行くと逆川経由で広尾峠につながる道が記載されています。

 さて、踏み跡は消えてしまったし、土地勘はないし…、で困ってしましました。高校生の時に来た遠足では、杉林の山道を上り詰め、少し左(北北西)に歩いて、あちこちに松の木が立っていて太平洋を見下ろす草原に出て、そこで弁当を食べて仲間と遊んだのです。それは坂戸方面に少し進んだ辺りだと思います。それとも取り付きがまるで違う道を行ったのだったかなあ…。

 仕方ないので引き返すことにしました。なに、また情報を集めて再訪すればよいのです。期待していた皆さん、ごめんなさい。私はまた来ます。ひょっとして縄地側からかも。

 さて、ここで問題発生。後ろを振り向いたら、帰り道が分からなくなってしまいましたー。(汗)

 ここまでおおよそ太陽を背にして歩いてきたので、今度は太陽に向かって歩けばよいはずです。ところが、微妙に踏み跡を外してしまったようで、どちらから来たか分からなくなりました。私は眺望のきかない山歩きをする場合、「勘に頼るとあまりよいことはない」「道を探し探し歩く往路は時間がかかるが、復路は短時間で来てしまう」などという自説を持っています。
それにひっかかると大変。

相玉遠望
 幸い眺望がきくところで遠くを見ますと、大平山の向こうに相玉方面が見えたので、来た道はもっと左だと推測して左に左にと進み、事なきを得ました。あのままだったら、別の尾根か沢に迷い込んでいたかもしれません。目印のテープは必携ですね。


          おお、あれは相玉 (分かりにくいですね)

 さて、帰り道のことですが、今度は、来る時に見つけたU字状の道を歩いてみることにしました。なあに、道が分からなくなったら稜線に出てぬた場を目指せばよいのです。

 そのU字状の道は、所々消えていましたが、ほぼ稜線の南を並行して通っているようでした。そうですよね、あんな細い馬の背が道では危ないですもん。そして道は、もうすぐあのぬた場のある涸れ沢の手前で大きくS字状に曲がり、沢の手前の斜面を下に下るのでした。でもそこはやはり崩落地ですので、道はきっと崩れてしまったのでしょう。が、らいおんさんの記憶はまさに正しかったことが証明されました。すごいんだな、らいおんさんは。

鹿の糞
 ぬた場は水場でもありますので、野生動物が集まるのでしょう。近くにこんなものがありました。木の実のようですが、鹿の糞だということです。でも足跡はないようでした。分かる人が見れば分かるのかな。(何を食べてこんなに黒くなるのだろう?)


       一粒が親指の先ほどの大きさ

 ここでほっと一息つき、少し下った所で休憩することにしました。

 ガレ場に腰を下ろし、そば茶の入った水筒をデイパックから出します。下着や首に巻いたバンダナは汗で湿って、ひんやりし始めました。ハンター対策として首に下げた呼び子は、どうやら出番がないようです。

 それにしてもさっきの山芋を掘った穴はどうでしょう。この時期、自然薯のツルは西風に吹かれてちぎれ、ぽろぽろと落ちているはずです。もちろん低い広葉樹の幹にはまだ薄茶色に枯れたツルが残っているので私にも分かりますが、それが地面のどこから生えているかを特定するのは難しいのです。
 が、昔「芋掘りの達人になると、ツルがなくても空を仰いで枯れた芋の葉を見つけさえすれば、その下の地面の枯れ葉を払い、指で地表をなぞって芋のヒゲ根を探し当て、掘ることができる。」と聞いたことがあります。きっと昨日はそんな達人が山に入ったんですね。それも突き鍬の先だけをポケットに入れてきて、ツルを見つけたらその場で適当な枝を切って柄にするという名人が…。そういえばこの崩落地帯は、南斜面で日当たりがよく、若い広葉樹がまばらに生えています。芋掘りスポットかもしれません。でも私が下から長い突き鍬とスコップを抱えて登ってくるのは難儀です。もう少し道がよければ、それも可能かもしれませんが…。

 さあ、空が暗くなってきました。帰路を急ぎましょう。帰り道は本当に早いものです。今度来る時のことを考えて道を確かめながら下ったのですが、もう砂防ダムに着いちゃった…、という感じでした。中山谷橋のたもとに置いたバイクにキーを入れたとたん、灰色の空からぱらぱらと冷たい雨粒が落ちてきました。これでは縄地側からの探索は次回ということにした方が良さそうです。
 バイクをここに置いて行動した時間は、2時間でした。

石祠
 家を出てここに来る時、あることに気づきました。それは、国道から落合の洞に入る時、右手の家の裏に石祠があるのを見つけたのです。
 ここは、かつて落合のサイの神を探した時、(地形からしてここにサイの神があってもいいのになあ…)と思っていた所なのです。が、すぐ近くのお宅のおじいさん(といっても若いけど)に聞いた時、「そんなものはないですねえ…。」と真面目にいわれたので、ここにはないものと思っていました。その後、浄水場の近くに「落合のサイの神」という石祠を別の方から教わったので、それでそのことは終わっていました。

 が、今日見つけたのは、まさに「サイの神があるとしたらまさにここ!」という所にあったので、ちょっとびっくしりしてしまいました。どうやらそれまでは草に覆われていたのが、正月のお手入れによって周囲がきれいにされたので明らかになったようです。
 でもすぐそばに民家がありますので、もしかしたら屋敷神かもしれません。今度ここのお宅の人に会ったら伺ってみることにしましょう。(後日ここのご婦人に聞いたところ、屋敷神さまだそうです。)


        サイの神か屋敷神か…

 帰宅してからジャケットを脱いだら、ポケットから木ぎれや枯れ葉ができてきました。藪こぎしたからなー。

 さて次回は、縄地側からのルートをたどってみることにします。さっき教わったんです。あ、でも外は雨。かなり冷え込んでいるので、天城は雪かもしれません。そうならあさっては雪の二本杉峠を見に行きましょうか。
                                             
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