葉

大沢の七不思議
   探訪2004年8月
 
 大沢地区は、下田の山の深いところにあります。なぜこんな所に集落が? と思うような所ですので、初めて行くと驚きます。が、ここに村が作られたのには、相当の理由があります。それはかつて薪や炭が重要な燃料だった頃に山仕事をしていた人たちが開いた土地だとは容易に想像が付きます。そしてその長い歴史の中に作られたいくつかの不思議な旧跡が見られます。ここではそれらを紹介しながら、下田の古道に触れてみたいと思います。 


の一 養蚕の実業家 渡邊翁とは?   
 大沢地区の南端は、蓮台寺の奥、バスの回し場がある三叉路です。そこからは、蓮台寺鉱山の守護神である山神様と、それを包むようにそびえる鶴ヶ峰を望むことができます。
 その三叉路の真向かいに、1つの石碑とその説明板が立っています。それぞれに書いてあることを読んでみますと、かつて渡邊翁という人が大沢にいて、養蚕をこの地に広め、それを私利に留めず地域に広めて大沢の振興に努めたと言います。その渡邊翁に関する資料が身近にないので詳しいことは分からないのですが、この顕彰碑を建てた発起人の名が刻まれているので、それらを手がかりにすれば実際のところが明らかになってくると思います。今のところ分かっているのは、渡邊翁の家が下大沢の集会場の近くにあったということです。土地の古老に聞くのは今のうちにしないと時がたつに連れて記憶は風化してしまうので、急がないとなりませんね。
中央の石塔がそれです。向こうの建物は鉱山事務所。  多くの人が読んでくれると良いのですが…。

その二 山梨神社とは
 大沢の里を訪ねるうち、下大沢の公民館近くに、小さな神社があるのに気づきました。さっそく行ってみますと、小さいながらにもしっかり手入れがされていて、常にきれいにされています。これはどういう由来があるのだろうと思って手前のお宅に聞きに行きました。
 そこのお母さんの話では、「それは山梨神社といってね、いつの頃だったか昔、この辺りには山梨という家が多いのですけどね、若い人たちが次々と亡くなるという出来事があり、その災いを止めたいと思って建てたそうですよ。」という話でした。確かにこの一帯には山梨姓のお宅が多いのです。何か疫病が流行った時期でもあったのでしょうか。以前は石の祠だけがあったそうですが、その後、現在の立派な祠に納めたそうです。ご覧のようにお世話をしておられるようです。
 

の三 上大沢と下大沢をつなぐ古道
 地図を見ますと、北にある下大沢と南にある上大沢は、1つの山筋を隔ててほぼ同方向に伸びる沢沿いに集落がつながっています。が、上大沢都市も大沢をつなぐ道はどこにあったのでしょうか。きっと左右の集落の人たちが行き来する道があったはずです。それこそ古道ではないでしょうか。

 まずは地図で地形を確かめます。下大沢を行く途中、山神社のある辺りで山筋が細くなっているところがあります。ここが怪しいと思って大沢出身の同僚に聞きますと、「神社の前を通って山に入ると、上大沢に出るよ。確か出荷所の手前に出るんじゃなかったかなあ。」と言います。やはり道はあるんですね。では行ってみましょう。

 下大沢の集会場(山梨神社に行く時もここから行きます。)から市道を外れて家々の間に入っていきます。ちょうど私が訪ねた時は前からカブトムシ獲りに行ってきた親子連れが降りてきたので、聞いてみました。すると、「この畑の間を登っていくんだよ。するとずっとこのくらい(1間=90cmぐらい)の道があるよ。一番上まで行くと送電線の塔に行く道があるけど、そっちに行っちゃだめだよ。向こう側に下りると、下大沢はすぐだよ。」と教えてくれました。今でも道はしっかりついているようです。一緒にいた男の子が「蚊がすごいよ。たくさん食われれちゃった。」と言いました。どうしましょう。私も半袖と半ズボンで来てしまいました。
 ここが登り口です。人に聞かないと分からなかったかもしれません。道は山神社の上を通り、森の中に入っていきます。そのうち辺りは珍しくくぬぎ林になります。ははあ、さっきの親子連れはここにカブトムシを探しに来たんですね。でもカブトは夜来た方がいると思いますよ。
 アブに追いかけられるようにしてひいひい登ること12分。やっと峠らしきところに出ました。残念ながらお地蔵様などの石造物は見あたりませんでした。確かに、鉄塔への保守道がありました。
 下りもこのように寂しい道です。
 ほんの少し歩きますと、このように下大沢の市道に出ました。ここは下大沢の集落のかなり下ですね。下大沢の中心地はまだまだ上の方です。黄色いポールは「23号鉄塔」への標識です。

 帰り道はここから峠まで2分。峠から上大沢の集会所まで6分でした。計8分で上大沢まで行けるというのは、たいへんに近いと思います。
 
その四 いからご地蔵はなぜここに?
 上大沢の下の集落を過ぎ、大賀茂への道標を左に見てさらに上り、小倉橋を渡ります。そこから真っ直ぐ上って右にJR東海の地震検知所を見て沢に入りますと、いからご地蔵様があります。
 その昔、この集落の篤志家が、この上の栗の木地蔵様のとなりにもう一つお地蔵様を立てようと、鈴木某という石工に頼んでこのいからご地蔵様を作ったそうです。そしてさあ、栗の木峠に運ぼうとしたのですが、ここに来た時、お地蔵様が「どうしても峠には行きたくない。ここで下ろしてくれ。」とおっしゃったため、ここにお供え申したとのことです。ちなみに、栗の木地蔵は男のお地蔵様で、いからご地蔵は女の地蔵様とのことです。この言い伝えは、小倉橋のすぐそばの尾崎先生に伺いました。尾崎先生はおばあさまからお聞きになったそうです。上大沢に伝わる伝説として間違いないでしょう。

 ところでこの日私がお地蔵様を見ていると、上から一人の男性が下ってきました。おや珍しい、と思って話を聞いてみますと、シダ植物を探しにきたそうです。どこから来られたかは聞き忘れましたが、バッグに分厚い植物図鑑をもってられたので、ひょっとしたらどこかの大学の助教授かもしれません。お地蔵様に彫られた銘を熱心に読んでくれました。銘には、「…慶応…年…善兵衛」と読めました。表面が荒れているので、よく見てもこのくらいしか分かりません。助教授は「専門家ならすぐに読めるんでしょうけどねえ。下田の図書館に行って司書の人に聞けば関連書物を教えてくれますよ。」とアドバイスしてくれました。ん、ホントにそんな本があるといいですね…。


 助教授はお祈りしているのではありません。銘を読んでいるのです

ほんとに人間らしいお顔をしたお地蔵様です


 さて、ここからは下大沢に行ってみましょう。 いったん大沢のバス回し場に戻って右に入りますと、下大沢です。

その五 誰が置いたか子育て地蔵
 右に温泉の共同湯を見てすぐのお宅の裏に、赤ん坊を抱いたお地蔵様が立っています。見ると、彫りが荒く、何だかアマチュアの人が作ったような感じです。銘がないので由来が分からなかったのですが、ある日お花をあげているご婦人がいたので、話を聞いてみました。
 それが不思議なのです。ご婦人曰く、「それがねえ、私も誰がこのお地蔵様を作ってここに置いたのか、知らないんだよ。確か7,8年前だったかねえ、ここに立てられたと言うことだよ。私は外で勤めていてたのでその時のことは分からないけど、おばあさんの言うことには、男の人が川の底から拾ってきてここに立てたという話だけど、それがどこの誰だかは分からないんだってさ。」

 平成になって立てられたそうなので古い話ではないのですが、不思議な点があるので、あえて載せてみました。それにしても、お地蔵様って川に落ちているものですか?

   江戸期や昭和中期までのお地蔵様とはだいぶ彫りが違います アマチュアの作品?

その六 謎の六角柱と陣屋跡の伝説
 下大沢の集落にも見どころはあちこちにあるのですが、私が一番不思議に思っている事を紹介します。
 集落北東のどん詰まりはみかん畑なのですが、その畑の一角に、謎の角柱が立っています。

  大きさはこのくらい。高さ80cmぐらいです   銘は何も刻まれていません。自然石ともとれますが…

 ぱっと見ると六角柱をしているので、何か仏教に関係のある石造物かと思いました。が、なぜこんなところに立っているのでしょう。ほかには関連する石造物などはみられません。ぽつんとここに立っているのです。

 この角柱を見つけたのは3年前のことだったので、それから私は胸の中にずっと疑問として抱いていました。しかし昨年の冬、その秘密が明らかになるような話を聞いたのです。

 実は、私の職場に講師として勤めていた若い同僚の志麻先生が下大沢在住で、おじいさんが健在なので話を聞く機会をつくりますよ、と取りはからってくれたのです。その時いくつか伺った中で、この六角柱のある辺りは「陣屋跡」と言って、かつてかなり広い範囲の地域の行政を司る役所があったと伝えられているそうなのです。こんな山の中に? と思われるようなところなのですが、かの横川もかつては下田市街をしのぐような栄えた土地であり、行政の中心地であったと聞いたことがあります。そうならこの陣屋跡もそうした施設があったとしてもあながち間違いではないと思えます。

 ところで今回改めてこの六角柱をよく見てみたのですが、正確には五角柱のような形をしており、台座は何と傾斜地ののり面を固めるコンクリートのブロックです。ひょっとすると自然石かな? と思えなくもないですが、やはり人為的な造形を感じるので、畑を造成する時に掘り出した人が何かを感じてここに立てたのかもしれません。この日はすぐそばに紅葉マークをつけた軽トラが止まっていたのできっとお年寄りが畑仕事をしていたのでしょう。人影が見あたらなかったので返ってきましたが、この畑の持ち主に話を聞いてみたいものです。
 ちなみにここは下大沢の奥地です。らいおんさんはここまで自転車で来られて、その上ひと山越えて相玉に下ったのですから、超人と言うしかありません。す・ご・い!

その七 藤原山の青面金剛明王塔の石はどこから来たか?
 蓮台寺と相玉の間にそびえる藤原山の頂上に大変立派な青面金剛明王塔が立っているのはみなさんもご存じのことですが、もとよりこんな立派な石塔をどこからどの道を運んできたのかは誰でも不思議に思うことです。
 そのヒントとして、塔の基部に大沢の石工さんの名が刻まれていることに着目するのは道理でしょう。Ss先生の推理によりますと、大沢の石切場から切り出した石を塔に加工し、藤原山の西の尾根を伝って山頂に置いたのだろう、という事です。とすると、大沢のどこかに石切場があった事になります。では、最後の不思議「藤原山の青面金剛明王塔はどこから来たか?」に迫ってみましょう。

 ここでは、明王塔を刻んだ名石工・小川清助氏の事については、他所に由来を譲ることにします。単に石塔の石が掘られたであろう石切場を探すことにしましょう。
 前出の古老にお話を伺った時、では大沢の石丁場に案内してやろう、という事になり、連れいていってもらったことがあります。そこは下大沢と上大沢の間にありました。下大沢の奥のみかん畑から山を下り、畑の跡地から下をのぞくと、木立の間にそれはありました。残念ながら山が荒れているので下には降りられそうもないのですが、石丁場だったことははっきり分かります。今回はデジカメを持って再び見に行ってきました。
 馬頭観音と子育て地蔵様のところを左に… みかん畑を過ぎて下っていきます。すごい傾斜!
 この画像が石切場を上から眺めたところです 落ちそうなところですので、ひやひやしながらのぞき込みました

 ところで、石を運んだルートですが、重い石を運び出したのですから、石は一旦上大沢に下ろし、そこから下大沢に運んだのだろうというお話でした。地図で見ると、ちょうどこの場所は上大沢の山神社を奥に入ったところにあたるようです。そちらからも行ってみたいものです。

 そこで、再び上大沢に探索場所を移し、神社の奥に入ってみることにしましょう。
 山梨神社へ行く道を左に折れ、山神社の前を通り過ぎて、山に入ります。道はとても暗くて木が生い茂り、ちょっと嫌な雰囲気です。下草に虫はいそうだし、倒木もあるし、第一、昼間なのになんでこんなにヒグラシが鳴いているの? というところなんです。
 途中にいくつかの水源タンクがありました。きっとこの辺りでは個人かあるいは近所でまとまって水源を確保しているのでしょう。下田にはまだまだこうして水道を引いている家が多いのです。特に稲梓はね…。
 さて、山神社からふうふう言いながら歩くこと15分。石切場は谷の向こう側だろうな…、と思いながら登っていきますと、とうとう小さな水源タンクの前で道が無くなりました。いえ、道はあったのでしょうが、それ以上進めなくなったというのが本当のところです。石丁場を間近に見るのは、どうやら夢と終わったようです。
 集会場に戻ると土地のおじいさんが2人おられたので、話を伺ってみました。それによりますと、「道は確かにあるが、もう誰も行かないので、消えているだろう。案内もできないよ。石丁場まではだいぶあるよ。けっこう上の方だ。」とのことでした。もう一人の方は、「子どもの頃に遊びに行ったぐらいだから、道は分かんないなぁ。」との事でした。これらの話は、いずれも70歳代の方に伺ったお話です。うーん、残念!

 その後、改めて下大沢を歩いている時、所々に石を切り出した跡のあることに気づきました。石切場は各所にあったのでしょう。いったい藤原山の石塔は、どこから来たのでしょうか。今はなき石工さんに聞いてみるしかないようですね。

 山神社の前を通り過ぎて…  山道に入ります
 道はこんなところです 恐い〜 とうとう行き止まりになりました。かつては道があったのでしょう
 
おまけ

石丁場の跡
 石丁場を訪ねた後、(それにしてもさっきの石切場は低いところにあった。石は重いから、藤原山へはなるべく高いところの石丁場から切り出したはずだ。ほかにはそういう場所がなかったのかなあ…。)と思いながら帰り道についた時、何気なく道の下を見ますと、こんな風景が目に入りました。2軒のお宅の裏に見えるのは、石丁場の跡ですね。やはりあちこちに石切場はあったのです。
    家の裏が石丁場の跡になっています。    こちらの民家も同様です。

神明神社に登る
 もう帰ろう、と思って下大沢の道を下っていますと、草窯庵の下に神明神社の鳥居が見えました。「参道はかなり山をあがるよ。」と元同僚の志麻先生のお父さんから伺っていたのですが、せっかくだから行ってみようと思い、石段を登りました。が、それは甘い考えでした。いくら登っても社殿が見えません。ひょっとして道に迷った? と思ったほどです。
 ひいひい言いながら登ること15分。おやっと見上げる大岩の上に神明さまは鎮座しておられました。下田富士か小杉原の龍爪さんのような感じです。こんなところでお祭りをするのでしょうか。

 すぐそこに神社があると誰でもおもいますでしょう    行っても行ってもこんな道が続きます
  おお、あれが社殿でしょうか こ、こんな所に…   扉を開かせていただきました ダメ? 

養蚕業の名残り
 渡邊翁の記念碑があることから、大沢地区が養蚕の盛んなところだということが分かりました。そんな折り、下大沢の神明神社参道を歩いていますと、こんな民家がありました。屋根にのってている小さな屋根は、お蚕さまのための換気口ではないでしょうか。山を1つ隔てた稲梓には、まだこんな屋根のある民家がもっと残っています。

上大沢の蓮台寺鉱山の跡
 これは、上大沢の檜沢林道入り口にある「檜沢坑」の入り口です。林道からすぐ見えます。ついこの前、新しく砂利を入れて入り口を新たにふさいだようです。それまでは、ふさいだブロックの隙間から冷たい空気が吹き出し、青い水が流れ出ていました。この坑道からは、非常に貴重なテルル金(金と銀の両方を含有する鉱石。日本では、蓮台寺と北海道の一部でしか産出しなかったそうです。)が出たそうです。いまでもズリ(鉱石のかけら)を探して鉱山マニアが来ています。 
 
 またいつか湧き水が染み出してくるかもしれません
 
三界萬霊塔 
 市営住宅の手前を加藤建設の採石場に向かって入りますと、すぐにこの祠とお地蔵様があります。大沢の人が立てた三界萬霊塔と銘がありますが、それにしても頑丈な祠に入れたものです。両脇に小さなお地蔵様がたくさん奉納されていますが、これは何でしょう。近くに大沢の火葬場があったというので、その関係かもしれません。
祠の中には中央に三界萬霊塔、その左右に地蔵様が並んでいます
                                             
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