下田の南街道
下田開国資料館の前から下田小学校の北門の前を通り、緩やかな坂を登って鍋田に通じる道は、江戸時代までに多くの人が下田−南伊豆間を移動するために利用した南街道です。

開国博物館と海軍道路 横断歩道を渡ると南街道
軽自動車一台が辛うじて通ることができるくらいの幅の道の両脇に、家並みが続いています。

正面は下田小学校の西門 右に曲がるのが南街道
家並みを抜ける坂道
この坂には特に名は着いていないそうですが、何とも風情のある坂道です。
道の幅は昔のままなのではないでしょうか
家並みの間を通り抜けると、国道136号線から分岐した市道と合わさり、南街道はなお坂を上って南下します。

この坂に名前がないというのは何とも惜しいです
やがて坂を上り詰めると、そこにある峠は切り通しとなっており、左は鍋田大浜に下り、右は鍋田を経て南伊豆町へとつながります。

左のパイロンのところで合流しているのが南街道で、さらに南へと続いています
道が合わさるところに、宝暦年間の無縁さんが立っています。

岩壁に嵌め込まれたような無縁さん
峠の切り通し
開国博物館から10分もあるいたでしょうか。ずっと上り坂なので、かなり疲れます。
その切り通しの真ん中に立って右の岩壁を見てください。高いところに「弘化」の文字が刻んであるのが目に入ります。

峠の切通しが見えました
右に見える穴は、石を切り出した跡だと思います。いまはゴミや廃材が放り込まれて、ひどい有様になっています。

先に延びているのが鍋田を経て南伊豆町に通じる南街道です
南街道の道幅はやはり狭く、江戸時代までの雰囲気を良く伝えていると思います。

道が呼んでいるような気がしませんか?
切通しの中央に立って右の岩壁を見上げると、この刻字があります。見えますよね?

ほら、あったでしょ?
文字は結構大きめに彫ってあります。「弘化甲・・・未七月」残念ながらその下の方が削り取られており、はっきり読めません。でも、識者の話では、干支の文字から判断して「弘化四年」と刻まれていることになるそうです。

下の方が削られているのが惜しい!
何だかすごい歴史の宝物を見つけた気持ちになりませんか?
周囲の岩壁には、こうした掘り跡が残っています。かなり柔らかい地質のように見えます。

鍋田に下りる方の岩壁 大きな鑿跡が残っています
坂を下って
道が続いているとその先に歩いてみたくなるものです。(何でここに年号を彫ったのかなあ…)などと考えながら、鍋田まで歩いてみることにしました。

何度か舗装をやり直したようです
途中でわかめを干している人たちがいたので、作業の様子を見せていただきました。

ワカメの新芽だそうです(撮影したのは春です)
今干しているのは鍋田湾で養殖しているワカメの新芽で、干した後で出荷するそうです。ベイステージの土産物店で売っているのがこのワカメでしょう。柔らかくておいしいですよ(1袋515円)。
ここのおばあちゃんに、坂 道について聞いてみましたら、
「ここは昔の街道だよ。南に行く人はみなここを通ったよ。坂に名前はないねえ。」
とのことでした。それ以上のことはご存じないようで、ワカメを干す作業に専念しておられました。
さらに南街道を下ります。すると、この道の狭さ! 昔のまんまではないでしょうか。やたらに拡張工事を施さず、時代から取り残されたようになっているのがいいですねー。

軽トラも通れないような狭い道
坂を下りきって、鍋田に出ました。ここを左に行くと鍋田の浜で、右に行くと、国道136号線に出ます。
では南街道は?というと、ここを右に折れて国道に出る手前をまた左に進むらしいです。それはまたの機会に歩いてきたいと思います。

鍋田に出ました
「弘化」の刻印の意味
資料によりますと「弘化四年」の文字として読めるこの刻印。なぜここにそんな文字が刻んであるのでしょう?
岩壁に年号を刻み込んだのは、当時の掘削工事に従事した石工達に間違いないでしょう。ではなぜ彼らは仕事を終えたこの切り通しにそんな文字を刻んだのでしょうか。
この理由については、下田在住のある郷土史家が次のように推論しています。
「この頃、頻繁に出没していた異国船を打ち払うため、藩では大砲鋳造のための反射炉を造ったり耐火レンガの材料となる粘土が採れる土地を探していた。下田のこの地域の地質が白土であるので、当然、地質調査がなされた。あいにく素材として優れた点がないので採掘は見送られたが、その記録としてここに調査をした年号である『弘化四年』を刻んだのではないか。」
そうかもしれません。でも、私はそこまでは思いませんでした。
もし地質調査を終えた印として年号を刻んだのなら、もっとあちこちに年号の刻まれた山肌なり岩壁が見られると思うのです。
私は、もっと緩やかなもの…、しかし明らかに時代の不安を示す年月の流れがそうさせたのではないかと思います。
「弘化(1844-1847)」という時代は4年間続き、その後は「嘉永(1848-1853)」になります。「嘉永」と言えば想起されるのはペリーの来航です。日本が開国に向けて激震の時代を辿ろうとしている時に当たります。
もとより松平定信が海防の必要性を慮って伊豆巡見を行った寛政(1789-1800)の時代を迎える前から日本の太平洋沿岸に異国船が出没していました。松平定信は伊豆巡見をしながら海防の松を河津や東伊豆町の海岸に植えて帰りました。その時に随行した画家、谷文晁が『公余探勝図』が伊豆の各地の風景を写実的に描いているために貴重な資料になっているのは、ご承知のことでしょう。
その後、沼津藩が下田白浜にお台場を建築したり、南伊豆町下流から江戸のお台場に伊豆石を切り出して運ばれていったことは、既にこのサイトで紹介した通りです。
ここで江戸後期の年号と年間を一覧してみましょう。
年号 |
期間 |
年間 |
宝暦 |
1751-1763 |
12年間 |
明和 |
1763-1771 |
8年間 |
安永 |
1772-1800 |
8年間 |
天明 |
1781-1788 |
7年間 |
寛政 |
1789-1800 |
11年間 |
享和 |
1801-1803 |
3年間 |
文化 |
1804-1817 |
13年間 |
文政 |
1818-1829 |
11年間 |
天保 |
1830-1843 |
13年間 |
弘化 |
1844-1847 |
2年間 |
嘉永 |
1848-1853 |
5年間 |
安政 |
1854-1859 |
4年間 |
万延 |
1860 |
1年間 |
文久 |
1861-1863 |
2年間 |
元治 |
1864 |
1年間 |
慶應 |
1865-1867 |
2年間 |
明治 |
1868-1911 |
45年間 |
なぜ宝暦年間から検証を始めたかと言いますと、路傍の地蔵様などを見ていると、宝暦年間からその銘をみることが多くなるからです。すなわち民間信仰としての仏教が人々の生活の中により大きく根づき始めた時代といえます。つまり、時代にして民衆が声を上げ始めた時代と考えて良いと思うのです。
この表を見て分かることは、享和年間の3年間は別として、天保と弘化の間を境にして、明治の直前まで年号がとても短期に変わっていることです。
年号が変わる理由はいくつかあります。主として次の4つです。
@代始(だいし。天皇が代わるとき)
A祥瑞(しょうずい。いいことの兆しがあったとき)
B災異(さいい。災厄や天変地異があったとき)
C讖緯(しんい。占いによるとき)
私は数年前まで、天皇が代替わりした時だけ年号が変わると思っていたので(師匠に笑われちゃったもんね)、@〜Cの理由があることを知ったのは、大きな進歩です。
これを考える時、異国船の来訪に対する幕府の混乱を見て、民衆の不安がかき立てられたことは明白です。
そうなると、生きとし生けるものが残したいと願うのは、自らが生きた証でしょう。
南街道を掘削した石工達は、やがてこの道を通る要人や異国人の姿を想い、激動の時代を迎えた自分の生きる時に不安を覚えました。この不安を払拭するためには、ここに生きたという証を得ることです。すなわち年号を自らが仕事をした場所に刻むことが必要でした。故に、この岩壁に「弘化」の年号を彫りつけた。いかがでしょうか?
ただし、「大砲鋳造のための地質調査をした記録」という説も、伊豆という地域と当時の歴史を総合的に見た貴重で面白い思います。
と言いましても、自分の考えがまとまるにはかなりの時間が必要でした。この「弘化」の文字が道に刻まれている理由が分からないことを江戸都市形成学を研究している師匠に話したところ、こんなことを言われました。
「岩壁に石工が年号を彫った理由? あー、またねこがとんちんかんなことを言っているよ。石工が年号を彫るのは当たり前だろ? お墓や石塔にはみんな年号を彫ってあるじゃん。」
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