葉

僕らは大段探検隊
探索2006年1月9日   
 
プロローグ
 その計画は、成人の日の昼下がり、kawaさんがしてくれた書き込みから始まりました。
 大段探検隊、明朝ちょいの間に行って見ようと思います。 ・・・・・ どなたか一緒に山の中を迷ってみたいと思う方いませんか?

 「大段探検隊」 なんという素敵な響きではありませんか。さっそく掲示板やメールで参加表明をしてくださった方々が2名。行きましょう! そこに何があるのでしょうか。

 今回、私には2つの課題がありました。
 1つ目は、西本郷と大沢を繋ぐ道の峠から敷根方面に下りること。2つ目は、某HPでその道程にあると記された「石地蔵」と、義父から聞いた「あきはさん」を探すことです。はたして答は出るでのでしょうか。行ってみましょうj、大段へ。

いざ行かん、大段へ
 午前6時50分。磯崎さんと共に竹麻神社へ行くと、境内には既にkawaさんの姿が。何と言っても天城では「午前3時の男」。出足は早いです。
 次いで7時ジャストにらいおんさんが参戦。おみ足の痛みをおされてのご参加、ありがとうございます。


            竹麻神社の脇を奥に入ります

 今回は竹麻神社奥の沢筋から入ろうという計画なので、民家の庭にお邪魔して通らせていただきます。縁側におられた家人の方に挨拶をして、さあ奥へ。(三毛猫ちゃんが早足で庭を横切りましたよ。遊びたかったなあ)

 畑の奥に進みますと、あれ? 左手から来る道と合流しました。そちらの方が正しい道かも。だって今通ってきた道には、金網が立ててあるのです。いやはや家人さんには悪いことをしました。でも全然気を悪くしたお顔ではなかったから、よしとしましょう。

 道ははっきりついていますが、だいぶ荒れています。右手の山の麓には、放置されたみかん畑などがあり、かつてはここが農作業用の道だったことを物語っています。


         このくらいなら、まだよい方です

 だいぶ歩いてきましたが、ここで問題が発生しました。何とメインのデジカメが電池切れを起こしてしまったのです。これでは記録がとれません。仕方なく、サブ機に取り替えて画像を撮ります。でも、こちらも今イチ調子が悪いです。困ったな…。


 道にはこんな石橋や木橋が架けられ、ここが古道であることを示しています

 そうこうするうち、道は左に分岐する地点に出ました。傍らには、かつては小屋があったと思われる石垣があります。こちらを行けば、たぶん山神様の祠がある峠で野崎邸の方へ下る道へつながるのだと思います。前回の単独行でこちら側に下りていれば、ここに出たのでしょう。すぐ近くには、石丁場の跡があります。ここから切り出した石は、嘉永七年(1954年)ペリーの艦隊によってアメリカに運ばれ、メモリアルタワーの壁の一部に使われたとか。すごいことですね。(だけどそんな訳で、ここでの画像はありません。シャッターは押したのですけれどね…。残念。)

 さらに道を進みますと、だんだん倒木がひどくなってきました。一昨年の台風で倒れたのかな? 踏み跡を探しながら慎重に登っていきます。


    キターーーーッ! でもこれが楽しかったりして…

 途中、Y字形に涸れ沢が合流する地点に、炭焼き窯の跡がありました。窯は、炭の原料にする木を集めやすいように沢の合流点に作ることが多い、とtakeさんに教わった通りです。なるほど!


 この探索では、合わせて4つの窯跡を見ました

最初の峠と安城山
 さて、かなり上まで畑の跡や廃小屋などがあり、踏み跡もわずかに確認できます。
 登り始めてから45分ぐらいで峠に出ました。


  前方が明るくなったと思ったら、峠に出ました

 左右になだらかな傾斜を持つ広い地点に出たと思ったら、そこは峠でした。向こう(大沢)側に下る道も確かに見ることができます。お地蔵様などの石造物は見られませんでしたが、地図にないとはいえ、確かにここにも生活に供されたと思われる古道があったのです。

 さて、ここを北に行けば安城山(「あじょうやま」と読むらしいです)で、南に行けば大段(おおだん)に出ます。
 せっかく来たのだからというkawaさんの提案により、安城山に登ることにしました。

海が見える!
 はっきりした道はないのですが、尾根筋を探してひたすら登ります。隊長の歩くペースは速く、私は息が切れそうです。でも久しぶりの有酸素運動なので、こういうときに運動しないとね。

 歩き始めてほどなく、ここが頂上という所に出ました。大段よりは眺望がききますね。あ、あれは伊豆大島です。海岸で見るより大きく目に映るのはなぜでしょう? 高いところから見ているからかな?(安城山の標高は274.6mとのことです) 登った朝日が海面に反射して、眩しいくらいです。


      着きました ここが安城山のピークです 汗かいた!


   木立の間から朝日に輝く海が見えます

 頂上で初の休憩。家から持ってきた熱いお茶が喉を潤します。お茶がこんなに旨かったとは。

 さて、次は大段に登ろうということにして、安城山を下りることにしました。帰り道にうっかりしてちょっと尾根筋から外れてしまったことは、ご愛敬。道探しは慎重に慎重にね。

再び大段へ
 峠からは再び尾根を探して、大段に取り付きます。ちゃんと青いタフテープも巻いてあります。どこのどなたが付けたかは分かりませんが、こんな所を歩いている人はいるんですね。



 さて、尾根はここを真っ直ぐ行くはずだけど…、という所で、青テープは右に道を示しています。直登ルートを迂回して、後から山頂に導いているのかなと思い、とりあえず印に沿って歩くことにしました。でも道はだいぶ山肌を巻いています。大丈夫なのかな?

 途中で炭焼き窯の跡を見る辺りから道は急な登りになり、やがて尾根筋に出ました。
 kawaさんの見立てにとりますと、この地点ではすでにピークを通り越したとのこと。そ、そんな…。ということは、大段に登るには少し戻るということ? ここは例の石柱のある峠ではありません。

 でも山頂はそう遠くはないはず。東に向かって歩き始めると、すぐに山頂にたどり着きました。


    二等三角点再び

 ここでもしばしの休憩。インナーを着替えたいけど、替えは持参せず、失敗。アクリルの毛糸帽は、かぶると暑いけど、とると冷えるの。困りました。
 その後、反射板のある隣のピークまで行って、眺望を楽しみました。


      素晴らしい景色、という訳ではありませんが、下大沢の集落や婆娑羅山が見えました

 さて、何となく高馬に降りたそうにしているメンバーを説得し、石造物のある峠まで下って敷根方面の道を探索することに同意してもらいました。(でも、しぶしぶだったな〜)

峠に佇む
 さて、ここが例の石造物のある峠です。何度見ても峠の南北はかなりの崖です。本当にここまで道が来ていたのでしょうか。ま、それは置いといて…、今回はらいおんさんが切り通りの部分に石段を発見。そしてkawaさんが少し西に大沢に降りられそうな巻き道があるのを見つけました。これは行けるかも!?


    向こう側に石段が埋もれていました 道はやはりここに存在したのです

 私のサブカメラは、ここで記憶チップの容量がいっぱいになり、電池も切れてしまいました。何たる失態。これじゃ記録のアップができないよお〜。

 (仕方ない、別の日に一人で来るか…。)と思いつつ、不安がるメンバーを促し、敷根あるいは西本郷方面に続く地図上の道を探してここを降りることにしました。kawaさんは地図を見て「50mほど下れば坂は緩やかになるはず」と後押ししてくれます。これは行くしかないでしょう(でも沢下りには基本的に反対のkawaさんです。らいおんさんもその危険性を指摘しておられます)。ま、ここは渓谷ではありませんし、地図にも歩道が記されているので、大丈夫のはずです。

峠の下で見たものは
 峠に着いて5分後、あいにく画像はないのですが、そこには、鬱蒼と木が茂りガレた斜面をずるずると下るメンバーがいました。はたして踏み跡は、道は見つかるのでしょうか。そして私が前回迷いこんだ沢にはどこで合流するのでしょうか。(この時らいおんさんは、道がなかったら戻るの? 嫌だよお、と思ってられたそうです。大丈夫ですよ、道はありますって。)

 途中、峠からずり落ちたかと思うような石柱が倒れていたり炭焼き窯の跡があったりするので、私にはここに道があったと確信できました。でも、倒木はひどく、行く手を遮ります。もし前回、私がここを下から一人で登ってきたとしたら…、あるいは迷っていたかもしれません。

 が! ここでそんな思いを覆す事に出会いました! 次第に踏み跡がはっきりしてきて、右斜面には石垣が築いてあるのさえ見られるようになりました。やっぱり道があるじゃん、よかった〜、と思い始めて間もなくな、さらにここに道が通っていたことを確信させる光景を見たのです。それは…、何とお地蔵様があったのです。

 これには驚きました。昭和6年生まれの義父が知らなかったお地蔵様が、今目の前に! 百数十年の風雨に耐えて、私たちを待っていたのです。


     光背には、享和二年(西暦1802年)と記されていました 江戸時代終焉の65年前です 高さ80cmほど

 やっぱりここは古道だったんだ…と感慨深く感じ入ることしばし。さっそく銘を読んだりメモしたりして、資料を得ることにしました。

 が、残念なのは、せっかくこのお地蔵様を見つけたというのにデジカメが使えない事…。しかしありがたいことに、先輩方は画像を貸してくださると仰ってくれます。
 しかし、もしかして電池が復活しているかもと思ってデイパックからメイン機を取り出してスイッチを入れてみますと…、あれれー、撮影可能になっているではありませんか。でも1、2枚しか撮れないという事もあると思って急ぎ写したのが上の画像です。もう少し左に寄ればよかったですね。そうすれば、お祈りをする位置から撮れたのです。(お地蔵様の写真を撮る時は、それが基本らしいです)
 この現象は、もしかして、気温が上がってきたから電池が復活した、ということでしょうか。何だ、電池切れではなかったんだ…。困ったデジカメです。

 さて、お地蔵様の隣りに立っているのは、回国供養塔です。表に「天下和順 奉納 大乗妙典 日本四国西国供養塔」、左側面に「文化七年 庚手(申?)天 八月吉日 當邑 願主 敬白」、右側面に「長石工□」(□は判読不明文字)と記されています。

 回国供養塔といえば、江戸期の土地の名士等が秩父や板東、近畿、四国の霊場を回って巡礼の旅をしてきた事を記念して立てた塔です。江戸期の旅にはそれなりの危険が伴ったので、無事に帰ってこられたことに感謝すると共に、一緒に行けなかった村人にありがたさを分け合うために立てた、という意味もあります。

 西本郷の回国供養塔としては小山田公園前の美容院裏に一基立っているのを知っていますが、ここにも一つあろうとは…。


皆で回りのツタや枝を払ってきれいにしました

 (これが例の石地蔵様か、本当にあったんだなあ。)と思いながら道を下ります。既にはっきりと道は見て取れ、間違いなく私たちを里へと導いています。


   畑か棚田か、ともかく人工的な遺構が見られます ここは道です

 道は一旦竹林の際をかすめ(私が前回迷い込んだ竹林の上です!)、東に降りていきます。
「このまま行ったら、敷根でなくて西本郷に出ちゃうよ。竹藪を降りようよ。」という某氏の声が響きますが、いやいや、ここから下に道はありませぬ。とにかくこのまま道なりに行って、合流点を確かめないと…。

またまた、これは?!
 竹藪の際を過ぎ、雑木林の中を順調に降りていきますと、らいおんさんが突如立ち止まりました。おやっ?と思って私も歩を止めますと、氏の視線の先には、小さな角張った石が転がっています。

 「どうしましたか?」

 「いや、ほら、あれ…」

氏の後を追いますと、何と、またお地蔵様がおられるではありませんか…。!(^^)! もしらいおんさんが傍らの石に気がつかれなかったら…、私は素通りしていたことでしょう。ぼんやりして歩くものではありませんね。


   光背に「天保六年(1835年)九月吉日」の銘あり 台座を含めた高さは1mほど

 こちらのお地蔵様は、気の毒なことにお顔を削られており、周囲は荒れています。さらに、すぐそばの立木には、無惨にも逆さまに立てかけられた首のないお地蔵様が…。 らいおさんさんが元の台座に戻そうとトライされましたが、どうもお地蔵様の足元が欠けているので無理らしいことが分かり、正立させてそのまま木に立てかけてきました。kawaさんが、転がっていた湯飲みを供え、水を注いであげました。

 少し離れた所には、これまた何かが安置してあったとおぼしき石の台座跡が見られました。いったい何が鎮座していたのでしょうか。


      色の濃い角石はつくばいのようです
  
 こんな形で2カ所3つのお地蔵様を見ることができたのは、非常に大きな収穫でした。しかも回国供養塔まで。明らかにここは古道だったのです。

 さてさて、しかしまだ私の課題は残っています。いったいこの道はどこで私が前回迷った道と合流しているか、という事です。さらに、義父母から聞いた「あきはさん」は、どこにあるのでしょうか。

 お地蔵様に手を合わせ、道を里の方に下ります。清掃事務所から聞こえる音が徐々に大きくなってきました。
私が迷った地点からはもうだいぶ外れているはずです。

失敗の原因
 と、下を見ると、低いところを通っている小径があります。あ、あれは私が前回の探索で歩いた道。やはりつながっていたんですね。では、あの時私はどこで迷ってしまったのでしょうか。

 理由は程なく明らかになりました。この赤いマーキングに惑わされたのです。



 上の檜の幹に、赤い印が付けてあります。左右に矢印が描かれていて、中央奥に進むと行き止まりであるような表記に見えます。前回はこの印を見て、そのまま道なりに歩いてしまったのです。結果、竹藪に迷い込んで、西のピークに至ってしまったわけです。もしあの時、勘が働いてここを奥に進んでいたら、あるいはお地蔵様を見つけ、道が消えていたとしてもとにかく稜線まで行ってみようとしたかもしれません。

 さて、ここまで下ってきましたが、「あきはさん」は見つかっていません。あるいはさきほどのお地蔵様と同じ場所にあるかと思いましたが、見つけることはできませんでした。義母の話のように、もっと敷根の公園寄りにあるのかもしれません。

 まっすぐ西本郷方面に行こうというみなさんの意見を曲げてもらい、公園方面に歩くことにしました。

 前回来た時に下から来る道と合流した地点に行き、辺りを探してみました。が、ここかな?と思うところには、「あきはさん」の祠は見つかりませんでした。となると、先ほどのお地蔵様が「あきはさん」なのでしょうか。いいえ、たぶん違います。石祠のはずです。うーん…。だとしたら、何もない祭壇にかつては石祠があったのでしょうか。ではその祠は今どこに…。謎は残されたままです。

 さあ、道は竹藪の中を通り、いよいよ車道に出ました。ここはどこでしょう。おお、敷根健康広場と清掃事務所の中間辺りの市道ではありませんか。ここだったんですね。およその想像はできていましたが、今まで何度も通りながら、道の存在には気づきませんでした。時計の針は、午前10時を指していました。


         ここはどこでしょう
 

        丸三工業の衛生プラントがある谷に出ました

 「車が近くにあるので、それで竹麻神社に戻ろう。」と誘ってくれたkawaさんに着いて、広い市道を歩きます。私の脳裡には、今歩いてきた道の風景が鮮明に蘇ると共に、解明されていない課題や疑問がぐるぐると巡ります。

推理する
 今たどってきた道の奥にある峠の遺構には、何があったのでしょうか。

 KAZUさまは神社があったに違いない、と仰いますが、私はどう考えましょうか。

 峠に残された数々の石の角柱。峠に残されたつくばいのような石造物。その向かい側には土塁のように丸く並べられた部分が…。

 アスファルトの道をとぼとぼ歩きながら、私は一つの仮説を立ててみました。あの峠には、いったい何があったのでしょうか。



 神社が建立されている場所の立地条件とは、その多くが人里近い山の麓です。これは、神が宿る山を後ろに控えた所であり、人々がお参りしやすい場所でもあるから、と考えてよいのではないでしょうか。山頂に鎮座した神社や祠というのは、山岳信仰のある特別な山に見られるケースでしょう。そうなら、大段の頂きにその神社があっても良さそうです(その奥の電波反射板辺りに神社があったかも、という意見も頷けますが)。

 となると、峠の角石は何に使われていたのでしょう。そしてそこには何が祀られていたのでしょう。

 私は、ずばり、そこにはお地蔵さまがあったのではないかと推理します。

 というのは、峠にあるのは、神社や石祠などよりもお地蔵さまの方が圧倒的に多いからです。下田市でも、落合−縄地の峠、茅原野−箕作の峠、藤原峠、栗の木峠、赤間−白浜の峠、小鍋峠など、いくつも思い当たります。

 道行く人は誰でも通らなければならない峠の安全を守るために、お地蔵さまは安置されたと言われています。気象条件が悪ければ歩きにくい峠。昔は追いはぎや乞食さんも出ることがあったという峠。そんな峠に立って農夫や旅人を見つめるお地蔵さまが、あの峠にもいたのではないでしょうか。

 では、なぜそこに今までもお地蔵様がいないのかと言いますと、その秘密を解くのが、帰り道に見た路傍に立つお地蔵さまと回国供養塔だと思います。

 もともと、地蔵様と回国供養塔は、並べて立てるケースは少ないです。あの2基は元は別々の所にあり、後にある事情によってひとところにまとめられたものではないでしょうか。

 その事情とは、時の流れです。地蔵様には「當邑 願主 敬白」という銘がありました。つまり地元の人が立てたのです。例の峠に。人々は、峠を通るたびに手を合わせ、時にはお供えをしたりお祀りをしたことでしょう。
 しかし、時が流れることによって願主は老い、仕事もリタイア。高齢の体では、峠まで登ってお世話をするのがつらくなります。峠を通う人々もめっきり少なくなり、お地蔵様はただ一人、淋しい所で佇むことしかできなくなったのです。それではあまりに申し訳ありません。

 そこで、しかたなく願主や土地の人々はお地蔵様を峠から下ろし、里に近い畑の際に祭壇を作って新たに祀った、というのが実情ではないでしょうか。一緒にお世話がしやすいように、回国供養塔のある所に祭壇の場所を選んだと考えても、決して無理はないと思います。
 
 そういえば、峠から下ろされたお地蔵様の話は、他の各所で聞いたことがあります。
 伊東市の郷土史家である佐藤陸朗先生は、その著書『天城往来雑記』で、「天城の古峠にあった地蔵様は、ループ橋下あたりの下田街道脇の祭壇に移されたのではないか。」と推理されています。婆娑羅の旧峠にあったというお地蔵様もどこかに下ろされ、そこには石の祭壇しか残っていません。婆娑羅トンネルの西、旧道と県道との分岐に祀られている地蔵様も、かつてはもっと山の高いところにあったと聞いています。

 この推理が正しいかどうかは、土地の古老や郷土史家の方に伺うしかありません。どこかこの近くに、山仕事を生業としていたおじいさんがいないでしょうか。これは引き続き課題として胸に持ち続けることにしましょう。引きずるものがある方が、次への探索意欲へとつながっていきますから。(もっとも、大沢側の里にも地蔵様がありますので、ここの峠にあったお地蔵様が西本郷側に下ろされたとは言い切れません。あくまでも推測です。自由に推測するのも、古道探索の楽しみですよん。)



エピローグ
 そんなことを考えながら歩いていると、停めてあったkawaさんの車の所に到着しました(ホントはこの推理は家に帰ってから考えついたんだけど…。単なる演出です)。泥の付いた靴のまま乗せていただいて(ごめんなさい)、送っていただくことにしました。

 が、ここでちょっと寄り道を。kawaさんのご友人が経営するドッグガーデン「びわの木」に連れて行ってもらいました。
 愛犬家が犬を遊ばせる庭や犬のグッズを販売しているそうで、主は私がかつてお世話になった方でもあり、いつか来てみたいところなのでした。ありがとうございます。 


    木のぬくもりが感じられる建物です


    おいしいコーヒーをいただきました

 先客のいない静かな店内に入ると、ゴンチチのギター曲が流れていて、とてもいい雰囲気です。時が静かに流れていて、癒される感じ…。ワンちゃん派御用達のお店ですが、棚にはネコの置物などのグッズもあり、ネコ派にも楽しめます。広い窓越しにたった今歩いてきた大段を望むことができ、感慨もひとしおであります。(コーヒー代はkawaさんが出してくれました。ごちそうさまで〜す)


  芝生の庭で記念写真〜

 今回の探索では、先輩方とご一緒したお陰で大変心強く、自分一人では見つけられそうもなかった史跡を見ることができました。大変嬉しい時間でした。後は、探せなかった「あきはさん」がどこにあるか調べることと、峠の遺構に何があったかをもっときちんと調べることが、懸案事項として残ります。いつか解明して、このHPに記録として残せたらいいです。

                                             
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