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東伊豆町大川に江戸城築城の石切場を探す
探索 2009年1月12日   
 
江戸城拡張計画
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)、征夷大将軍になり江戸に幕府を開きました。そして翌1604年(慶長9年)6月、江戸城拡張工事の計画を発表しました。

 家康が入城した時の江戸城は、本丸の他に二の丸と三の丸があり、堀も巡らせてあって一応城の形は整えてありましたが、周囲は土累でまだ石垣は築かれていなかったと言います。それから慶長11年(1606年)3月に工事に着手するまでの間、築城石を運搬するための石船の建造や採石場所の確保など、準備が進められました。

 築城用の大石を採取して運搬する命令は、28の大名に下されました。石高十万石につき"百人持の石"(人夫百人で運搬できる石)1、120個が課せられました。
 これらの築城石に用いられるのは、固く大きな安山岩や花崗岩です。それらの石は真鶴半島や熱海、湯河原、宇佐美、東伊豆町の大川や稲取などで産出されます。命令を受けた大名はこぞってこれらの産地を確保し、石工(石切り人夫)を派遣しました。切り出された百人持の石は、石船に2つずつ積まれ、江戸との間を月に2度往復したと伝えられています。

『南豆風土誌』より  
「慶長十一年二月江戸城普請衆として兼て仰を蒙りたる西国諸大名各自江戸着。家臣に命じ各人数若干を伊豆国に遣し石材を取らしめ三千余艘に乗せて江戸に運搬す。一艘へ三百人持の石二つ宛入一ヶ月に両度宛江戸に住返す。江戸城の石垣長七百間・高十二間又は十三間の料なり。江戸に於て此石売買あり 百人持の石は一つ銀二十枚 ごろた石は一間四方の箱一つを小判三両宛に定めしとぞ」

江戸城の石垣を見る
 夏に東京の坂巡りをした時、皇居のお堀に沿って歩きました。特に石垣の角に使われている石は大きく、きちんと直方体に切り揃えてあります。石垣全体に使われている石の数や重量はかなりのものでしょう。これらの石垣のどこかに伊豆から運ばれた石が使われているはずだと思うと、胸が熱くなるのでした。


       江戸城(現皇居)のお堀越しに見る石垣(撮影2008年8月18日)




       石垣の角に用いられる大きな石が角石(すみいし)と呼ばれる築城石

伊豆半島東部の築城石の石切場
 築城石の調達を命じられた西国大名たちは、伊豆の東海岸にその産地を求めました。
 伊豆半島における石材は大別して硬軟二種類あり、次のような地質構造に基きます。
 その一つは湯が島層群(狩野川流域を除く伊豆半島北部)から採掘される石で、安山岩や玄武岩系の固く緻密で灰色から暗灰色をした石材です。
 一方、白浜層群(伊豆半島南部)から産出される石は、砂岩系の軟質で淡緑色から乳白色をした石材です。近世初期の江戸城天下普請の際に供された石材の多くは、伊豆の安山岩系の石材です。この石材は、真鶴半島から南下して、途中、城ヶ崎海岸の玄武岩地帯(大室山が供給源)を挟んで河津町見高付近(ここが南限)まで存在しています。これらの安山岩の地表または海岸に置ける状態は、球状あるいは扁平な面に尖った門野少ない塊状の石が多く、大きさは長さ5mを越すものもあります。

 これらの安山岩の地表近くの状況は、次のような共通点をもっています。

・地表近くでは転石であり、沢や山肌を転がり落ちそうな状態になっている。
・覆っている表土の流失の進みやすい沢や谷筋に集中して存在している。
・海岸に岩石が密集し、ゴロタ浜(丸石がごろごろたくさんある浜)になっている。

 これまでレポートしてきた沢田石のような、いわゆる“伊豆石”は、先に述べた軟石の凝灰岩ですので、山全体が岩石からなる一定の採石場で採掘され、それが大規模に長く存在する丁場となっています。
 しかし築城石に用いられる安山岩は、地中数メートルの深さにある湯が島層群の最上部の転石が、沢筋や海岸を中心に、表土の流失によって地表に露出した地形に露頭しています。これらの岩石を採取したのですから、転石が集中している場所を石切場に選び、採掘が進むと順次石切場を移動していきました。




細久保の石切場を訪ねる
 2009年1月12日は今年最初の3連休の3日目です。雨の中、縄地の坂歩きをした後でLOKANTAさんちでランチをいただきましたが、忙しいマスターと話をすることもなく、お店を出て大川に向かいました。

 まず旧国道135号線の傍らにある"ぼなき石"を見学しました。


         ぼなき石の全景 左に下る道は東浦路

ぼなき石は東伊豆町指定の文化財です。ちゃんと土台に載せて標識と説明板が設置されています。

手前右の角には、この石を切り出した西国大名、福島正則の御紋である「二つ雁」の刻印があります。


       「二つ雁」の刻印の大きさは、直径20cmほどあります

“ぼなき石”が泣いたわけ
 ぼなき石はきれいに形を整えた江戸の石垣を作るための角石(すみいし)です。「ぼなき」とは「暮泣き」という意味ととられ、石が夕暮れになると泣いたと言われています。

 ではなぜ石が泣いたのでしょう。
 この"ぼ泣き石"に"二つ雁"の刻印が彫ってあることは先ほど書きました。この刻印は広島の武将、福島政則の家紋であります。ぼなき石は福島政則が切り出していた石ですが、その最中にお家取りつぶしの憂き目にあいました。それで石は江戸に運ばれることなく、この地に放置されました。それで置き去りにされた石は夕暮れになると淋しくなって泣いた、という訳です。

しかし実は泣いていたのは石ではなく、石を切り出すというつらい作業に従事した石切り人夫だった、という説もあります。

 私には後者の説が信じられるように思います。なぜなら、これから見に行く石切り場では、想像を絶するような難作業によって多くの石を切り出していたであろう事が分かるからです。

 築城石に用いる石は、固く大きな安山岩です。普通に言う「伊豆石」は火山灰が固まった凝灰岩ですので加工しやすく、かまどや風呂を作るのに用いられます。しかし安山岩はそれとは組成も性質も違い、火山の生成によってできた堅固な石です。ですからその安山岩は、急な山肌の斜面を転がり落ちるような地形に点在します。よって石を切り出すには露天掘りの丁場で重労働が強いられるからです。

細久保の石切場と刻印石
 ぼ泣き石を見た後、すぐ目の前の細久保の山に入り、石切場を見ました。


         細久保の山は、かつてみかん畑だったようです

ぼなき石からほど近い旧国道から、空き地に踏み入って山に入ります。そこは石垣で段々畑としたみかん畑の跡になっています。



この辺り一帯には石切場が点在しておりまして、中でも細久保には比較的多くの築城石の片割れが残っているのです。



 ここで△の御紋が彫られた石を3つ見つけました。見つけたと言いましても、東伊豆町が出した資料に地図がありますので、それを頼りにして探し出しただけです。しかし400年前の石工がつけた刻印なのですから、それらを見ていると、気持ちは一気に慶長時代に飛び、しばし歴史のロマンにひたってしまうのです。



 御紋石というのは、大名が「この石、とったー。うちのだかんね」とばかりに家紋を彫りつけた石のことです。大川地内には複数の大名が石工を派遣していたので、そうした御紋石が百個以上残っているそうです。



よく見ますと、この刻印は△の中に+の印があります。
 この「+」は十字架(クロス)を表しています。福島正則はキリシタンに好意を持っており、密かに信仰していたという説があります。城下にもたくさんの信者がいたと言います。ですから御紋に十字架を用いても不思議ではないと言うことができます。

 対比のために手袋を脱いで刻印と並べてみました。手の平では隠しきれないほどの大きさがありました。


         三角形に十字の刻印がはっきり見てとれます

 ここはみかんの畑になっているのですが、面白いことに、地主さんが畑の石垣を作るために築城石を切り出した残りの石を利用しています。下の画像で、くさび形に切り出された石が左を向いて石垣に使われているのが分かるでしょう。



こちらは右を向く形で石垣に使われています。



次はいよいよ伊豆大川で最大の規模と言われている谷戸山の石切場を訪ねます。そこにあるのはどんな光景でしょうか。


 「東伊豆町大川に江戸城築城石の石切場を探す〜その2」につづく

                                             
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