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大仁から   
 
 宗光寺のあった辺りからは白鳳期の遺跡が出たそうですが、今ではどの辺りにそれがあったものなのか、識者でないと分からないでしょう。ただ国道を行き交う車の喧噪を聞きながら静かに揺れる稲穂が、その方向になびいているのみです。

蔵春院道標(大仁町守木)
 下田街道は、山裾の住宅街をぬうようにして南下します。途中、念仏塔などの建つ寺を左に見て、やがて右手に折れ、踏切を渡ります。右手にスーパーマーケットがある信号交差点にたどり着きますが、そこは明治時代に開通した旧道だそうです。

 その店の壁際に、蔵春院というお寺に行く参道を示す道標が立っています。高さは、115cm、表面に「従是蔵春院道」と銘が彫ってあります。
両脇は板が添えてあって見えませんが、右脇に「下馬迄十三丁」と彫ってあるそうです。こんな車の行き交う住宅地の中でも道標が大切にされているのを見ると、ほっとします。(そういえば、箕作・日枝神社の下にあったという大正期の道標は、どこに行ってしまったのでしょうね…。)

      江戸期と明治期の街道の交差点               スーパーの脇に道標が…

蔵春院(大仁町田京)
 さてその蔵春院ですが、資料によりますと、道標前の道を東に進み、突き当たりを南進すると、蔵春院下馬口という所に着くそうです。(まだ私は訪ねたことがないのです。)そこには、石碑や馬頭観音、道祖神などが石造物があり、山道をさらに進んだ蔵春院には、多くの石仏が祀られているそうです。次回の探索では、ぜひ訪れてみたいです。

広瀬神社(大仁町田京)
 さて、道標のある交差点を左に曲がり、さらに南下しますと、また踏切を渡ります。右手には、田京駅が小さなホームを南北に伸ばしています。その南に、広瀬神社があります。
 この広瀬神社は、『延喜式』神名帳の広瀬神社と知られ、三島大社の前身だったとも言われています。かつては広大な社田を有し、祢宜三十六人、供僧六坊を置く大きな神社だったそうです。

 境内は訪れる人もなく、ただ高校生のカップルが通りすぎていくのみの、静かな神社でした。境内には、江戸期の常夜灯が立っており、他には特に特記すべき石造物は見られませんでした。調べればもっと興味深い事柄が出てきそうです。

馬頭観音(大仁町三福)
 広瀬神社の前で下田街道と交差する県道大仁伊東線を横切り、深沢橋を渡りますと、西に小さな祠があり、その中に他の石仏と共に馬頭観音が祀られています。往来の多いところですから、守るようにして祠に納めたのでしょうね。土地の人に大切にされている感じがしますが、逆にこのようにしないと守れないのも何だか淋しいような気がします。(私の勝手な思いです)



大仁
 大きな酒造工場や大仁小学校の前を通り、道なりに少し下ってさらに進みますと、大仁の中心地に入ります。この辺りは下田街道を拡張してそのまま商店街となって発達したそうです。
 資料によりますと、狩野川の渡しを控えた集落としてたいそう賑わったそうです。元治元年の記録では、家数96、旅籠4、飴菓子屋6、舟守4、豆腐屋2などがあったと記されているそうです。しかし、古い家並みは見られず、昔の面影はないように思います。ただ一つ、通行人の接待に当たった江戸屋の屋敷跡に芭蕉の句碑が建っているのみとのことです。
 
水晶山    
 大仁町と修善寺町を結ぶ赤い橋は、下田方面から車で行くとすぐ目に付きます。その端の北の袂に、こんもりとした小山があります。これが水晶山です。谷文兆の『公余探勝図』にも「豆州水晶山」の画があるそうです。明治時代、天城の木材は狩野川に流され、水晶山の東の麓で筏に組まれて運ばれたそうで、山裾の岩場に筏つなぎの穴が残っているそうです。ぜひその穴を探してみたいものです。

水晶山南麓の石仏群
 赤い大仁橋の北側の袂に、いくつかの石造物が安置されています。お地蔵様や馬頭観音、道祖神のほか、狩野川水死者供養塔もあります。狩野川では、何人もの人たちが水難事故にあったのでしょう。

     
                                             
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