葉

沼津の江浦に旧道を探して
探索 2008年1月26日   
 
いきなりの探訪
 下田から沼津へ向かう時、気になっているモノがありました。
 長岡を抜け、狩野川の放水路に沿って走り、トンネルを抜けると沼津市江浦(えのうら)に出ます。そこから住宅の建ち並ぶ海沿いの狭い道を走るのですが、所々にぽつんと取り残されたようにトンネルが佇んでいるのです。

1月26日の土曜日、一緒に山歩きに行こうと計画していたHAL隊員と落ち合うために沼津の香貫を86号で走行していたところ、氏から着電アリ。何と、風邪を引いて体調が悪いから今日はダメ、とのこと。むむーん、これはつまらない。

しかたなく計画変更…。ここはちょうど静浦の近くです。そうなら、気になっていた旧道のトンネルを一人で訪ね歩くことにしましょう。歩いて道を辿れば、きっと何か発見があるに違いありません。

さて、歩き始めはどうしましょう。太陽は南にあるので、北に向かって歩けば、写真撮影には都合がよいはずです。南から歩くことにしましょう。となると、狩野川の放水路辺りに車を停めなければなりません。

 そういえば狩野川放水路が海に接続する辺りにポケットパークがあり、駐車スペースがあったように覚えています。まずはそこに行くことにしましょう。

静浦の7−11で86号をUターンさせ、狩野川放水路出口のポケットパークに車を入れました。案の定、そこには3台ほどの駐車スペースがあります。

かなり寒いので、手袋をして出発。でも今日のカメラは普段予備として使っているコンパクトデジカメです。広角側の焦点距離があまりワイドでないので辛いのですが、しかたありません。

石丁場跡
 狩野川放水路が掘削されたのは、昭和37年頃です。長岡の方から大規模に地面を掘り下げ、トンネルを造って放水ルートを形成しています。
その出口が海と繋がる部分は、岩盤を削って作ってあるように見えます。
しかしよく見れば、その削り跡が独特であることに気づくでしょう。

いかがでしょうか。削り跡に鑿の跡が見えませんか。そう、これは石を切り出した丁場の跡と推察されるのです。


  切り立った岩壁の石丁場跡 昔はもっと険しく迫力がある形状をしていたそうです

事実、静浦の辺りは、海岸近くでも山に入ったところでも、それこそ無数の石丁場跡があるのです。今でこそ薮に覆われて見えなくなっているところが殆どですが、海に山が迫っているので、搬出しやすかったのでしょう。

6つの坑門
 放水路口の近くには、隧道が6つ、口を開けています。

1つは、長岡と沼津を繋ぐ隧道。現在の幹線道です。もう一つは、静浦東小に向かう隧道。旧道ではないかと思います。そして、3つ並んだ放水路。そして放水路と県道の隧道に挟まれるようにして口を開けている小さな隧道です。この小さなトンネルはパイロットトンネルかとも思いましたが、沼津図書館に行って古い写真を見たら、このトンネルは写っていませんでした。どうやら新しく造られたトンネルのようです。地元の方からも「昔はこのトンネルはありませんでした。」との情報が寄せられています。では何のためのトンネルなのか。今のところ、謎です。

追記:この小さなトンネルについて、よっきれん氏が調べて公開しておられます。このトンネルは、石を切り出す作業によって空洞になっている部分を補修し、現道トンネルの強度を高めるために行った工事用の穴である、と言うことです。すなわち、人間で言えば「内視鏡手術のための穴」と言えるでしょうか。事実、伊豆の石丁場の内部(露天掘りでなく坑堀りの場合)は石を切りだした大小様々な石室が存在し、それらが崩落し始めているケースも見られるのです。


     狩野川放水路 中でカーブしているように見えます


     という訳で、左の小さい方のトンネルは古い写真には写っていません

右に見えている現道のトンネルの扁額には「口野トンネル 昭和四十五年三月竣功」とあります。


       補修工事用トンネルの内部 出口は見えません


         無機質的な寒々とした迫力を感じます

旧道を辿って
 ではここを起点として、沼津市街方面に歩くことにしましょう。


         歩道橋の上から写した一枚 右が沼津市街方面です

放水路ができる前はどんな石丁場だったのかはあまり想像できないのですが、機械掘りになるかなり前から掘られたように思います。鑿の跡がくっきりと残っていますし、足場を組んでいたと思われる、こんな穴が開いているからです。


     跡の形状からして明治〜昭和期にかけて稼働していた丁場と思われます

また、何やら怪しい階段も残っています。この山中にある丁場に行く連絡路ではないでしょうか。


          まだこの上にも丁場跡がありそうです

1つ目のトンネル
 さて、放水路をの北側に、こんなトンネルがあります。小さい方のこれ、もしかしてこちらが旧道ではないかと思うのです。


          1つの坑門の中に2つのトンネルが!

出入りする自動車の排気ガスや排気音、そしてタイヤのロードノイズが響き、あまりよい環境とは言えないところです。

小さい方のトンネルに入りました。壁には、近くの小中学生が描いた壁画で彩られています。殺風景なコンクリートのトンネルを少しでも明るい雰囲気にしようとしているのでしょう。

事実、通る人はほとんどおらず、不審者でも出そうな雰囲気です。北側の坑門には不審者対策として監視カメラと通報システムが設置してあります。


        小さい方は歩行者専用トンネルとなっています

トンネルの長さは約90m。北側坑門を出た辺りで写真を撮っていたら熟年の男性が通りかかったので、トンネルの由来について尋ねてみました。すると、案の定、向こうの大きいトンネルができるまでここがメインの通りだった、ということでした。


   暗さを排除して安全面を強調した内部となっています でも旧道の雰囲気はナシ

旧道の風景
 坑門の近く、集落を見下ろすところにお社があるようなので、登ってみました。赤鳥居があるところを見ると、お稲荷様か八幡様でしょうか。境内からしばらくの間、道を見ていましたが、通行する歩行者はほとんどおらず、人物を写し込んだ写真を撮ることができませんでした。残念。


   北側の坑門に来ました 外はどんな風になっているのでしょう


      往時の面影はすっかり無くなっているようです 残念


     神社だけがトンネルの姿の変遷を見守っているようです


       しかし街道の雰囲気だけはかすかに感じられます


       石造りの塀や階段に当時の面影を偲ぶことができます

現道との交差
 この辺りは住宅が建ち並んでおり、いったいどの道が旧道だったのか、今一つよく分かりません。

ちょうど民家の前でご婦人2人が立ち話をしていたので、尋ねてみました。

すると、旧道は一旦、現在の県道のところに出て、それからまたトンネルで山を貫いていた、ということでした。


        旧道はここで一旦現道と交わるそうです

私には、右に行く道が旧道のように思えました。それはその通りで、現道と交わった旧道はすぐに山側に入りっています。


         住宅や工場の並ぶ方に旧道は入っていきます

住宅や商店の建ち並ぶ中には何かの工場でしょうか、木の板が積み上げられた、油を大量に使うような建物があります。どうも干物工場のようですが、干物の臭いはしません。不思議です。

それと、山際にこんな鉄製の階段がありました。石丁場跡の大きな穴が開いているので、丁場の見学用足場か?と主増したが、近寄って案内板を見ると、これは地震による津波が発生した時に登る避難塔であるとのことでした。だいぶ東海地震を意識しているようです。切実な問題ですからねー。


        津波対策に建てられた避難塔だそうです

多比神社
 トンネルの手前にまた神社があったので、寄ってみました。特に旧道と関わりのある石造物は見られませんでしたが、由緒のある神社のようです。


             多比神社とのことです

2つめのトンネル
 ひもの工場地帯を抜けると、2つめの旧トンネルがあります。こちらのトンネルは、自動車の通行が許されており、現役当時の姿も留めています。


         キタキタ〜 旧道とトンネルが見えます

いかがですか。古いトンネルらしい雰囲気が残っているでしょ?


        ほら〜、控えめにひっそりと口を開けています

コンクリートが吹き付けられているので往時の面影はだいぶ薄れていると思います。それがちょっと残念です。


      それにしてもコンクリート吹き付けというのは無粋であります

内部には、石の“目”が残っています。斜めに地層が形成されているんですね。


        海底が隆起した地層、という感じがします

昔の照明装置の名残でしょうか。こんな木材が残っています。それにしても、内部を掘った時のノミの跡が丁場のそれのようにくっきり残っています。技術的には丁場から石を切りだした時の技法が用いられていたように思います。もしかして丁場の石切職人さんがトンネル工事に動員されていたのかも知れません。いや、勝手な想像ですが。


            鑿跡がくっきり残っています

北側の坑門に来ました。向こうにはどんな街並みが待っているのでしょうか。トンネルの長さは50mぐらいです。


           坑門から見える街の景色が好き!

トンネルを出て、振り返ってみました。こちらの坑門は昔のままの姿をほぼ残しているようです。石積みのこぢんまりとしたトンネルだったんですね。


       これこれ、これがこのトンネル本来の姿でしょう

残念ながら扁額が取り付けられていないので、昭和のいつごろの竣工だったのか分かりません。


             石巻きトンネル、いいですね〜

取り残された3つ目のトンネル
 旧道は、現県道と交差しながら北上しています。今回の探訪でくぐる3つ目のトンネルは、バス停「多比船越」の前で県道を渡ったところにぽつんとあります。この風景がいつも車で沼津へ行く時に不思議でした。


       さあ、いよいよ見えました あのトンネルが

トンネルが現役で人車の通行を許していた頃の面影は、想像することが難しいです。


         取り残されて独り立ちつくす多比のトンネル

取り残されたように立ちつくすトンネル。もちろんかつては山を穿つ形状をしていたのでしょうが、山が丸ごと一つ削られたのでしょう。上部を台形に切り取られたそれには石段がつけられているところを見ると、今は地震による津波が発生した時の緊急避難所に指定されているのでしょう。

 バス停脇の横断歩道で車の流れが途切れるのを待っていると、下り路線の伊豆箱根バスが止まってくれました。大型車両は停止も発進も大変なのに、ありがとうです。


          沼津に行く時、いつもこの光景を見ていました

トンネルにはまたしても扁額がありません。何という名前なのか、竣工はいつなのかなどは記されていません。ただ、路盤に排水溝があるのが、他の旧トンネルと異なる点です。


         路盤に水路があるのが特徴といえます

このツタはどこに根っこを生やしているのでしょうか。ずいぶん上まで這い上がったものです


       扁額がないのはなぜでしょう 惜しいです

トンネルの上に登ってみました。駿河湾は冬の陽光を反射して蒼く輝いています。山側を見ると、沼津アルプスが屏風のように立ちはだかり、青い空と複雑な境界線を描いています。


      北と南側に昇降用の階段があります これは南側のそれ


        トンネルの上から見下ろした沼津は多比の港

そのずっと下を見ると、県道脇の山裾にいくつかの大きな穴が開いています。丁場の跡のように見えますが、形からして戦時中に海軍が掘った突撃艇「海竜」の格納庫でしょう。この地域の海岸には、数十の格納庫跡が残っていると聞いたことがあります。


          大きな穴がいくつも開いています

 トンネルをくぐってみました。反対側の坑門には、すぐ民家が迫っています。トンネルの出口にすぐ民家? となると、道はどんな風に通っていたのでしょうか。坑門前ですぐに右左折していたのでしょうか。


         内壁はほとんど覆工がされています


        でも一部にはこんな石積みの部分も見られます


          坑門のすぐ向こうが住宅地って…

トンネルを抜けると、そこは民家の密集している土地となります。当時の道路はどこを通っていたのでしょうか?


        この水路に旧道のルート解明の鍵があります

この疑問の答を得るべく、庭仕事をしていた男性に尋ねてみました。

すると、旧道には特に関心もない、といった風の口調で、教えてくれました。

「元の道はここを通っていたよ。そして今の県道を横切って、山の方に延びていたよ。」

えっ? でもここ、民家でしょう? 

思い切ってそちらの方に入っていくと、確かに玄関前には細い道があり、トンネルからずっと排水溝が続いています。その排水溝が、ここにかつて道路があったことの何よりの証でした。きっと廃道になった後で敷地が払い下げられ、人が歩ける幅だけ残して家が建てられたのでしょう。

細い路地になった旧道を抜けると、県道を突っ切って向こうに延びる旧道が見えました。


         思い切って民家の前を通っていくと、ほら!

黄色いセンターラインのあるのが、今の道路です。


       現道と、それを横切って延びる旧道が見えました

県道を横切って、旧道を辿ります。
ここにも海軍の掘った特殊突撃艇(「海竜」か「震洋」か)の格納庫跡があります(私の住んでいる下田にもいーっぱいあります)。犬の散歩をしている男性に聞いたところ、こうした穴は至る所にあり、今ではそれぞれ近くの家で物置やゴミ置き場にしていると言うことでした。


    このかまぼこ型の入り口で突撃艇格納庫であったことが分かります

内部はほとんどがゴミや廃棄物の置き場となっています。


         ほらね、夥しいゴミが放り込まれています


        話を聞かせてくれた男性とおばあちゃんち


          歩いていくうちにいくつも穴を見つけました


   個人が廃棄物置き場に使っているのでしょうか すでに塞いであるのですが

4つめのトンネルは扁額あり
 旧道は静かな民家の間を通って山裾を巡り、再び海の方に向かいます。旧道は再び県道と交わり、私を海の方へと導きます。目の前に、大きなヨットハーバーとお好み焼きレストランが見えました。


         旧道のトンネルは残り1つです 行け〜

このレストランはタモリがオーナーだそうです。ヨットハーバーには、豪華なクルーザーなどが陸揚げされています。お金持ちは・・・、いるんですね。


           この建物の向こうの山にトンネルがあります

ここに4つ目のトンネルがあります。鉄骨で覆工されたそれは、かなり幅員があります。傍らに空いた穴には、古い建設資材が放り込んでありました。


        ほらありました かなり広い幅員をもっています


         内部は鉄筋で補強されているようです

このトンネルには扁額があり、「江浦隧道 昭和二十年一月竣工」と刻んであります。


            「江浦隧道 昭和二十年一月竣功」

補強用の鉄板の下に、元の内壁が見えました。柔らかめの岩盤のように見えます。だから補強が必要だったのでしょう。



長さは35mほど。それにしてもこちらのトンネルは取り壊されないで残っているのが不思議です。ヨットハーバーがあるお陰でしょうか? 現在も自動車が通行可能なので、それはそれでいいですけど。

北側坑門脇には、石仏が並んでいます。お姿からして、この辺りのサイの神も含まれているように思います。


      すぐ近くに現道があるので、トンネル内を走る車はありません


        周辺から集められた石仏でしょう 

石仏は決められたように丸彫単座像の形をしています。右端の像は女性像のように見えますが…。どれも忍の表情をしておられます。サイの神様のように思いますが、どうなのでしょう。


    人々に代わって苦しみを忍従するような表情をされています

江浦隧道を振り返って見てみました。やっぱりちょっと変わった風景ですね。なぜトンネルをここに残したのでしょう。更地にしてしまえば土地の有効活用ができたでしょうに。不思議です。


       北側から見てみました なぜトンネルを残したのでしょうね

さて、道はここで海沿いを行く道と住宅街を抜ける道に分かれます。


       また分かれ道です さて旧道はどちらでしょうか

もしかして海沿いの道が旧道かと思い、耳の通り老婦人に尋ねたところ、旧道は住宅地の中を通る道、ということでした。海の方の道は「浜道」と呼ばれているそうです。

港は冬の陽光を浴びてひっそりと休んでいるように見えました。


            静かな港です

この辺はとても道路事情がよくなくて、住宅のすぐ前の狭い県道をひっきりなしに車が往来します。恐らくこの地に住んでいる人たちは大変だろうと思います。

浜道から何気なく県道を見てみますと、岩壁に祭壇ごと石仏が嵌め込まれているのが見えました。


       おお、石仏様が見えます ちょっと窮屈そう

望遠レンズで引き寄せてみますと、馬頭観音碑のようでした。


       岩壁を削ってまでここに納めるとは、大変です

道路脇の古い家の脇で、こんな石造物を見つけました。と言っても、神仏の彫塑像ではありません。この特徴ある2つの窪みは、ひょっとして昔の燈明台かも。この窪みに油を溜め、芯を浸して明かりを灯したのです。名前は“ひでばち”と言います。いえ、ひょっとして、の話ですが。


           これもまた石造物文化の一つです・・・

 ちょっと寄り道して、お寺の境内を覗いてみることにしました。あ、覗く、なんて不謹慎な言い方ですね。参拝することにしました、と言いましょう。


      何というお寺でしたでしょうか・・・ごめんなさい

境内から見下ろす江浦地区です。海と山のわずかな狭間に街が作られているんですね。


        街は柔らかな冬の日差しに包まれていました

境内はとてもよく手入れがされており、この地区の大事な菩提寺であることが分かりました。

境内の一番高いところまで行くとお堂があり、その向こう側は山を大規模に削った下水の終末処理場がありました。


      何とお寺の境内を越えると、こんな採石場の跡に出ました

採石場の跡はこの先の国道からも見ることができますが、山が一つ無くなった感じがするほど大きな規模を持っています。何だかお寺の雰囲気と不釣り合いなので、不思議な気持ちになっていまいました。

 ところでこの辺りは港に突き出した形状をしているのですが、後ほどお寄せいただいた情報に寄りますと、「大久保の鼻」という所らしいです。そしてこの岬をショートカットする道もあるそうで、そちらも面白い道だと言うことです。行ってみたいですね〜。

さて帰りましょうかと階段を降りていますと、上から下りてきたご婦人が、カメラを構える私を見て「いやだよお、止めてくださいよお。」と仰いました。でも、まんざらではないような表情をされましたので、風景の一部としてモデルになっていただきました。


          ちょっと点景 お寺の人かな?

 お寺を後にして、もう少し、歩いてみましょう。
 今度は、神社がありました。地元に伝わる慣習について記した案内板が立っています。新婚の男性が女装して祝ってもらう「水祝儀」なる行事が行われている、と記してあります。


            江浦の鎮守さまでしょう


           「水祝儀」とは不思議な風習です

近くに、こんな馬頭観音の石像があります。像がフラットなので、職人でない人が彫ったような感じがします。


        いつも車で走りながら気になっていた像です

お馬の表情がユーモラスです。顔もデカいし!


             お馬さんの顔が面白い!

 さあ、いろいろ見てきました。今回の探索はここまでにしましょう。

 今日見てきた旧道や県道は、いつごろ世代交代したのでしょう。この数日後に沼津図書館に行ったのですが、すぐに情報が得られる書物は見つかりませんでした。当面の懸案事項としておきましょうか。

帰り際、造船所の跡でしょうか、港の外れに大きなレールが残されていました。


     元は建物の中にあったようです 基礎の跡が残っていましたから

近くまで寄っても平然としている海鳥がいました。大きな鳥はあまりかわいくないです(ボソッ…)。かもめかな?


      ちょっと元気のない海鳥でした 逃げないんだもん

おまけ
 86号を置いたところに戻り、帰路につきました。「静浦東小↑」という案内表示のあるトンネルをくぐって、長岡に向かいました。


     扁額には「御場隧道 昭和五十三年六月三十日竣功」とあります

 こちらの道には古そうなコンクリート製のガードレールがついており、ここが旧道であることを示しているように思いました。
こちらにもかなり大きな石丁場が見えました。面白いのは、ドアが付いていて、管理人の詰め所や警報装置がつけられていることです。何らかの火薬庫のような使われ方をしているのでしょう。地震計を設置した部屋に警備保障装置はいらないでしょうからね。


      ひょっとして「石丁場街道」と呼んでもよいかも


     かなり広範囲に掘られていたのではないでしょうか


      厳重な警戒がされているようです 誰もいませんでしたが

 民家や石丁場のあるところを抜けると、こんな切り通しがあります。左右に迫る岩壁が迫力満点です。放水路沿いの道より、こちらの方が古いことは明白です。旧道…なんでしょうね。


     岩盤の層がはっきりしています 崩れてこないのかな

 中央道を走って、大仁インターで降り、大仁の街なかを通ってきました。伊豆箱根鉄道の線路を踏切で越えると、掛け替えをしている大仁橋があります。これが見たかったのです。


   左がこれまでの大仁橋 ホントは大きいにの、今は小さく見えますね

古い方の橋は、大正4年に架けられたそうです。ほとんど明治の産業遺構に近いですね。この旧橋は取り外されてしまうのでしょうか。


       またひとつ、産業遺構が増えていきます えっ、取り壊すの?

ほら、「大正四年」って書いてあるでしょ?


       このプレートだけでもどこかに残してほしいですね

この後、大仁金山跡の山神様を見にいって、帰路につきました。あ、大仁辺りの「下田街道」も、もちっと本気で探索しないとネ・・・。
                                             
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