葉

仁科の「戦線工業 仁科鉱山」跡を訪ねる〜その2
探索 2006年10月14日   
 
水平道に誘われて
 インクラインの山頂駅から北に下降する索道を見下ろす。遙か下には麓駅があるはずだが、木立のみが鬱蒼と茂るのみである。もっとも、私たちも標高200mからこの481m地点に登ってきたので、少なくともインクラインの高低差は280mほどあるはずである。それが約30度の勾配を持つとすれば、今いる山頂駅から麓駅までは、350mは距離があるはずである。

 さて私は、碍子の落ちていた広場の奥に別の動力施設などの遺構がないものかと、探してみようと思った。
 インクラインのある方とは逆の南側に歩を進める。すると、私と少し離れたところを並行するように、KAZU氏も奥へと進む。
 と、氏のつま先が東に向いた。そしてそこから続く横道へと、吸い込まれるように歩いていく。その時、無言で歩を進める氏の背中に、私は何か鬼気迫るオーラを感じた。
 何か物を置くために場所を広げたのかと思われたその横道は、しかし山肌を水平に刻み、東へと延びていく。KAZU氏は、跡を追う磯崎氏と私のことを忘れたかのように、尚も歩いていく。いったい彼は何に取り付かれたのだろうか…。



蘇る幼少の頃の記憶
 横道は、軽トラ1台が通る程度の幅を持っている。 (そうだ、あれほどの規模を持つ山頂駅だ。構造材やセメントを運ぶ運搬道があってしかるべきである。)と、私は考えた。(きっとこの道は資材を運ぶために赤川林道とつながっているのだ。その先がどこまで残っているか、KAZU氏は確かめたいのだろう。 3人で行動しているのだ。氏の気の済むまで後を着いていこう。)私はそう思った。しかし、なぜこの道はこれほどまでにきちんと水平を保っているのだろう。

 そのうち、私に幼少の頃を思い出させる、ある風景があった。

 それは、こうした切り通しである。



同じような景観がいくつか繰り返される。



 幼い頃、幼稚園のバス遠足で、よく三島市の楽寿園に行った。市に寄付された旧華族の庭園を市民の憩いの場とし利用できるように、動物園や遊園地、湧水池や資料館など付したそれは、当時の家族連れに人気を博した。
 そこには当時、おさるの電車があった。
 1周が50mほどあっただろうか。狭い軌道上を、小さな機関車がトロッコほどの有蓋者を曳き、笑顔の子供達を乗せて走った。途中、人工の築山をトンネルや切り通しでくぐり、子供達の夢を乗せて列車は数十秒で周回した。 
 その時走った切り通しが、この光景にそっくりだったのだ。これはもしかしたら、トラック道ではなくてトロッコの軌道跡かもしれない。そんな思いが沸々と私の心に湧いてきた。しかし3人は、間もなく目の前に驚愕の光景が広がることを知る由もないのだった。

わが目を疑う光景
 水平道は、尚も東に続いている。KAZU氏は既に過日、インクライン山頂駅から尾根の北側に延びる水平道を探索されている。そちらは徐々に先細りになり、特に見るべき遺構などはなかったと言う。
 が、今私たちが歩いている南斜面のここは道幅が一定で、かなり東奥に続いているようである。と、道が右に湾曲している向こう側に、黒く口を開けるそれがあった。あ、あれは……!?



突然、3人の目の前に、ぽっかりと口を開けた黒い空間が現れた!



崩れ落ちる友情
 あ、あれは、坑口ではないか!? こんな所に? ここは、採掘をしていた坑道に続く軌道だったんだ! 坑道の高さは? レールはあるのか? そして奥行きは? 様々な疑問が一気に頭に押し寄せる。 ああ、しまった。懐中電灯を車に置いてきた。この時ほど、運の悪さを悔やんだことはなかった。まさか坑道があるとは、夢にも思わなかったのだから。息を呑む3人。60年の時を経て今再び人の目の前に黒い口を開けたそれは、歴史の彼方へ私たちをいざなう不思議空間の入り口であった。
 


 おそるおそる内部を覗いてみる、と、その時気がついた。闇の遙か向こうに、僅かな一点の明りが見えるではないか。明かり? と言うことは、これは貫通している坑道なのか。 その光の大きさからして、向こう側の坑口まで300mは有にあるかと思われた。  
 どうする? 入ってみるか…?! そう考えたら、もう足は導かれるように暗い坑道に向いていた。 頼りは、KAZU氏の持つSF501のみである。
 1歩、2歩…、もう歩みは止まらない。 あれ? 磯氏は? 着いてきているのか? しかしその時、私たち2人の頭に後続の磯氏の存在はぷつりと切れていた。少なくとも私にとってKAZU氏よりも前に知り合っていた磯氏は(というより、私が古道メンバーの中で最初に一緒に古道探索に出かけたのは、何を隠そう、磯氏なのだ。)、私が待っていなければならない重要な友人なのだ。



 しかし、磯氏はザックの中の電灯を探しているのだろう。 ほんの僅かな時間であるが、出遅れた。私は、後ろ髪を引かれる思いで坑口に磯氏を残し、KAZU氏の持つSF501の青白い光を頼りに、奥へ奥へと歩を進めた。行け、行け、行っちゃえ! もっと奥へ、あの光を目指して! その時、私の心の中で、長いこと培ってきた磯氏との友情ががらがらと音を立てて崩れていくのを感じた。

闇の彼方に見える光を目指して
 そしてやがて300m先の光の実像が見えた。何と、300mはあろうかという向こう側の出口は、実は落盤によって坑道の一部が狭くなり、その結果小さく見えた光が遠近感を狂わせていたのだ。実際には、隧道の長さは60mほどであり、落盤地帯まで近づくと、出口はすぐそこにあった。



 そしてここがトロッコ軌道である確かな証があった。枕木である。既に半ば炭化したようになっている。枕木達は、乗せるレールもなく、明かりの差すことのない隧道でひっそりと彼らを朽ちていく時の流れにただ身を任せているのであった。



1号隧道
 仮にこの隧道を第1号隧道と呼ぼう。 隧道内は、乾いていた。滴水もない。
 落盤している辺りは、支保坑と呼ばれる丸太組が沈下したように低い位置にある。いや、そうではない。落盤によって天井が上がり、落下した土砂によって足元が高くなっているのだ。それ故、相対的に支保坑が低くなっているのだ。 
 






 落盤による土砂を乗り越えると、コウモリらしき黒い陰が慌てて外に飛び出していった。奴は1度、2度と舞い戻ってきたので、きっとこの隧道をねぐらにしているのだろう。出口は、2人のすぐ目の前にあった。

 そこは、枯れた倒木で塞がれていた。這うようにして外に出ると、なるほど、小尾根を巻くよりは隧道を作って直線で結んだ方が距離が短く、安全に軌道を延ばすことができる訳だ。

 隧道の入り口に残してきた磯崎氏に、ここまでKAZU氏と来てしまったことを心の中で詫びつつ、尚も歩いた。左側は切り立った岩場である。いかにも狭いトロッコ軌道が似合いそうな場所だ。そして、さらにまた私たちを驚かすアレがそこに出現した!



2号隧道
 そこに現れたのは、またしても隧道であった。





 そっと内部を覗いてみる。こちらも落盤が認められる。しかし歩けるようだ。長さは20mほどか。向こう側まで見通すことができる。誘われるようにして入ってみる。ほどなく、そして難なく通り抜けることができた。



 と、通り抜けるとまもなく3つ目の隧道が私たちを待っているではないか! いったいいくつ隧道があるというのだ!



 頭がくらくらしてきた。今見ているのは夢ではないのか。ここは東北の秘境地帯か? いや、ここは伊豆だ、伊豆。 いけない、これを行ってはいけない。戻ろう。そして磯氏と共にここをくぐるのだ。きっと氏は1号隧道の向こうでオロオロしながら待っているに違いない。あるいは用心深い氏のことだ、われわれが落盤かガスにやられて万が一の事態になっていると想像してしまっているかもしれないのだ。

60年間の時を越えて
 興奮のるつぼにある私たち2人はしかし、そうして目前に3たび口を開けた隧道の存在を前にして、これはもう戻らねばならないと思った。この先、いくつ隧道があるのか分からない。

 これは大変なことになった。いったい誰がこんな隧道の存在を世に知らしめていたというのだろう。まったく知られていない事ではないか。3人だ、3人で確認するのだ。この迷宮の回廊のような隧道群を…。

 私たちは再び隧道をくぐり、磯氏の元へ戻った。そして3人はここに揃い、改めて暗い闇から60年間の時を越えていった。

 用意周到なKAZU氏は、サブ電源を持っていた。それを磯氏に託し、私たちはゆっくりと隧道のひんやりした空気を感じながら、時の向こうへと異次元空間を進んだ。

 延長約60mの1号隧道。そして同15mの2号隧道。
 それだけかと思われた隧道群は、さらに3号の出現を持って我々の興奮をさらに高めた。一体いくつあるというのだ、この鉱山の隧道は…。

 このオーバーハングを見よ。この崖の下を、小さなトロッコが鉱石を載せて往復したのだ。



3号隧道
 改めて第3号隧道の様子を見てみよう。第3号隧道は、短い。目測で20mほどの長さである。落盤の形跡は、ない。それどころか、枕木がそのまま残っている。それも、朽ちていないのだ。どしてこんなに保存がよいのだろう。

 隧道と隧道の間には、このような溝がある。私は、これを別のインクラインの跡ではないかと思った。ちょうどT橋先生の見せてくださったインクラインの図とほぼ同じ規模だからである。



 しかし、KAZU氏の見立ては違った。これは、排水溝であろう、と。初めこの窪みを見てインクラインの跡と思ったとしても、先ほどに見てきた山頂駅を見てその規模の大きさを目の当たりにすれば、そちらしかインクラインはなかったと思うのは自然なことであろう、というのだ。まさにそれは正論であった(でもまだちょっと未練はあるのだが…)。

 相次ぐ3つの隧道の出現に、私たちは高ぶり、感嘆し、そして感謝した。これほどの規模とは、だれが想像していただろうか。

 この水平軌道跡はどこまで続くのか。その答を明らかにする前にまだくぐらなければならない隧道があることは、まさに私の想像の範疇を越えていた。

4号隧道
 第3号隧道の奥に、この第4号隧道が待っていた。またしても私たちを待つ隧道。頭がくらくらしてくるのを感じた。それは永遠に繰り返される輪廻のように私たちを惑わす幻夢かと思われた。

 4号隧道は、入り口付近からいきなり湾曲している。従って向こう側の出口は見えない。しかし少し入ると、比較的近くいところに灯りが見える。そして、おお、足元にはまだ枕木がきちんと並んで残っているではないか。



見よ、この枕木を。等間隔できちんと並び、対先ほどまでレールを支えていたかのように端を揃えている。



 第4号隧道の長さは、ざっと見て20mというところだ。4つの隧道群の中で、最も保存はよい。



逍遙の果てに
 しかし隧道群の存在はここまでであった。第4号隧道を出ると道幅は徐々に広くなり、やがてトロ軌道跡はスイッチバックする形で右下方向(赤川林道方向)に折り返していた。



そしてスイッチバック地点の奥に、いくつもの石垣が現れた。



何かの建造物があったのだろう。 排水溝のような造作箇所も見られる。



そして沢の対岸にも、幾重かに重なる石垣が組んである。



 ここに何らかの建物や施設があったことは想像に難くない。トロ軌道に導かれるようにして歩いてきた私たちは、果たしてどんな遺構の拠点に出たのであろうか。多くの石垣が意味するものは何なのだろう。次回報告は、この軌道最深部のほぼ全貌を明らかにする!

                                             
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