葉

仁科の「戦線鉱業 仁科鉱山」跡を訪ねる〜その1
探索 第1回 2006年10月22日(日)   
 
プロローグ 
 1980年8月10日、日曜日。就職と同時に伊豆に帰ってきてから、初めての夏休み。私は当時乗っていた1972年式スズキハスラー250で、河津から大鍋越えをへて松崎に抜け、海岸線を北上し、仁科から再び山間部に入って諸坪峠を経て河津に抜ける、というコースの林道ツーリングに出かけた。(当時は林道にゲートが設けられておらず、そういうコース設定が可能だった)

 その途中、鬱蒼と茂る森の中の林道が白川の集落を抜け、かなり上に上った辺りで、不思議な塔を見つけた。まだ新しい白いコンクリート製の塔に、ロープを持った鉱夫風の男性の像が立っている。

 塔にはめ込まれたプレートを読むと、かつてこの地にあった戦線工業株式会社のアルミ鉱石(明礬石)の採掘現場で多くの中国の人たちが過酷な労働条件の下で命を落としたとある。その慰霊のために建てられた塔であったのだ。
 静かで穏やかな深山の中でそこだけ異様な光景が広がり、亡くなった人たちの怨念のようなものを感じて、私は思わずバイクのアクセルをひねった。 今から26年前のことである。

 その後伊豆新聞などで、日中友好協会や仏教会の主催により、毎年、亡くなった人たちの供養祭を行っていると読んだ。遺骨は既に本国に送られ、かの地で眠っているが、日本では過去の過ちを忘れず、次世代に申し送る意味もあって、供養祭を営んでいるらしい。 が、それに反して、鉱山の位置や様子、どこにどのような施設があったのかなどは資料が公開されておらず、まるで封印されたかのようにページを閉ざしているのだ。 


 しかし2年前、下田市の社会科の教員のために開かれた研修会で、その道の権威であるT橋先生のご講演があった。その中で、先生が松崎高校ご勤務時代に松高の郷土研究部の生徒と共に戦線工業仁科鉱山について調べたスライド(既にPC用に映像を変換されていた)を見せてくださった。運よくその場に紛れ込んでいた私は、これ幸いとばかり、目を皿のようにして拝見した。

 そのスライドは、現地の山々の写真や古老から聞き取った現地の見取り図などから構成され、最後は鉱石を積み出した仁科港で終わっていた。仁科港は、鉱石積み出しのために整備された、戦争史跡の一つだということであった。

 

 上の画像は、その時のスライドの一部である。インクラインは、トロッコ一台分の幅を持つ規模として描かれている。画像が薄いため、一部加筆してある。

このイメージが長いこと私の頭にあった(無断借用ごめんなさい)。 この規模のインクラインが鉱山跡にあると思っていたのだ。

 現地に行ってみたい。そしてインクラインの跡をこの目で見てみたい。そうした思いは強くあった。
 しかし現地の山は深く、どこからアプローチしていいか分からない。インクラインの跡も、既に雨に削られて痕跡さえ残っていないのではないだろうか。しかも私の意識にあるのは、慰霊碑から赤川を渡ってすぐの赤川林道を進んだ北側(=左側)の山肌にインクラインの跡がある、という漠然とした予想図であった。

 このような乏しい予備知識だけでは、おそらく勘の鈍い私では山に分け入ったとしても敗退することは目に見えている。そんな悶々とした思いを持ち続けて2年間が過ぎた。が、そんな状況を打開して私の足を仁科鉱山へ向ける契機ができたのだ。それは…。

開かれた扉〜朗報、もたらされる
 しかしこの秋になって、大きな展開があった。

 今年になって交流していただいている「裾野麗峰山の会 伊豆里山クラブ」の後藤様が、当HPの掲示板にある書き込みと画像貼り付けをしてくださったのだ。

 それによると、氏は10月7日(土)に仁科鉱山があった十郎左ェ門西尾根を登攀中、484mの地点(国土地理院地形図に ・ として表示あり)にて、錆びた鉄のプーリーと、ロープウエイのプラットフォームのようなコンクリート塊を見たと言う。画像を見ると、とても頑丈そうで大きなプラットフォームだ。これはまさにインクラインの施設の一部に違いない。

 この出来事で、探索への扉が開かれた。インクラインの跡は今でも残っている! とにかくそのコンクリート製の遺構を見に行こう。規模と位置を確かめるのだ。そこから新たな情報が分かることだろう。がぜん探索計画が現実的になってきた。

 この計画について、トロッコ線路に詳しい磯崎氏と、歩く不思議発見レーダーのKAZU氏も同行することになり、かくて戦線工業仁科鉱山探索チームが結成された。書き込みをしてくださった後藤様にただただ感謝、感謝である。

大正13年生まれの意味〜いざ白川へ
 探索は、10月14日(土)に行うことに決定した。

 当日の午前7時。教育会館で磯氏と待ち合わせて、その後、KAZU氏をピックアップ。一路西伊豆町へと86号のステアリングを向けた。

 どんよりした空の元、先に天城鉱山の探索を済ませていた私たちは、仁科川の左岸に沿った県道を下り、白川の集落へとバス停「出合」の三叉路を左折する。 途中で路傍にいくつもの石造物を見る。いつかこれらもじっくり見てみたいものだ。

 最後の民家を過ぎてしばらくすると、当時、幹部の宿舎があったという広いところを通る。と、上から歩いてくる男性が見えた。すれ違いざま、男性の方から手をあげてくれたので、私も手を挙げ返した。
 その様子を見ていたKAZU氏がすかさず「話を知っているかもしれない! 聞いてみよう。」と叫んだ。

 86号をバックさせ、3人で降りて男性に挨拶。そしてこれから行く仁科鉱山について尋ねてみた。

大正13年生まれというこの男性は、「もう、もうろくしているから、昔の話はできないよ。」と言いながらも、私たちの矢継ぎ早の質問にていねいに答えてくれた。



「ああ、鉱山か。あんたたち、よく知っているなあ。 あるよ。もうだいぶ跡が消えているけどね。私もひと頃働いていたよ。だけどすぐに中国に兵隊で行っていたから、ほとんど当時のことは知らないけどな。」

「ついこの前、作業小屋を取り壊したばかりだよ。いや、鉱山のではなくて、営林署の小屋さ。わたしも戦争から帰って、何とかして食わないとならないから、営林署に12年間勤めたよ。結構あちこち苦しい思いをして(山へ)行かされたなあ。」

「インクライン? ああ、あったよ。山の北の斜面にあったよ。」

「その頃の事を知っている者は、もうだいぶ死んでしまったよ。ここでは残っているのは私ぐらいじゃないかなあ。」

 戦線鉱業が活発に採掘事業を行っていた期間に中国へ兵役に行っておられたという事は情報収集の点で残念であったが、確かに白川に暮らす貴重な生き証人である。大正生まれの人たちは、こうして静かに記憶を脳裡に刻んだまま世代交代をしていくのだろうか。

 さて男性にお礼を言い、再び車を走らせる。すぐに慰霊塔のある広場に到着した。


  この日、慰霊の塔には花は添えられていなかった

 ここは戦線工業の事務所があったところと聞いている。確かに、建物の形通りに古いコンクリートの基礎が残っている。
傍らには、同日に十郎左ェ門を攻めているM氏の車が停まっている。既に出発しているので、無人だ。

 装備を整え、出発。(しかし私はここで失敗をしてしまった。仁科鉱山は露天掘りと聞いていたので、懐中電灯を車に置きっ放しにしてしまったのだ。それがなぜ失敗なのかは後述する)

さあ、出発だ
 赤川橋のゲートを乗り越え、諸坪峠と赤川林道の分岐にある尾根に取り付く。 傍らに「山火事防止」の赤い垂れ幕がある。


  閉鎖ゲートのある橋を渡ると林道の分岐がある


 表示にある 「赤川林道」には今回足を踏み入れなかった


  484m地点を目指して目の前の尾根に取り付く  この地点は標高200mだそうだ

 ここからは登る一方だ。薮はない。鬱蒼とした暗い木立の中を、ひたすら登る。しかしかつては学術参考林だったのか、樹木名の表示板が幹に掛けてある。


       学術観察林だった頃の名残か

 登り始めて30分。先にずんずん登っていくKAZU氏から遅れた磯氏と私は、たどり着いた小ピークで小休止。お茶で喉を潤す。 もしかして先週の万二郎の登りよりきついかもしれない。相当体力が衰えているな、私。
 再び歩き始め、KAZU氏の「もう少しですよ。」の声に励まされる。

  
     ふうふう言いながら尾根を登る  薮こぎのないのが幸いだ

 林道を出発して50分。辺りの傾斜がなだらかになったところで、倒木の枝に掛けられた鉄製の錆びたプーリーと磁器の白い碍子を教えてもらう。先日、後藤氏が拾って掛けたのだそうだ。


     2つのプーリーと1つの碍子(ガイシ)が残っていた

 これか、これなのか。今まさに私たちの目の前に、60年の時を越えて負の歴史の呼び声がこだましようとしている。そして私は目の前に広がる光景に戦慄を覚えることになった。

インクラインincline(名詞)
  意味=1 傾斜、勾配、斜面
     2 ケーブルカー
 プーリーの掛けられた倒木がある辺りは平にならされており、何かの作業場があったような印象を受ける。  
 その向こうに一段高い場所があり、かなりの規模のコンクリートの基礎が見える。これほどの規模の施設だとは、想像だにしていなかった。まさに驚愕の光景である。

 最上部のそれは動力部が設えてあったのか、太い鉄筋のボルトが何本もむき出しになってコンクリート塊から直立している。ここに、かなりの重量物である何らかの動力機械が据え付けられていたのであろう。


  施設跡の最上部を下から見る  左右にそれぞれ何らかの機械があったと思われる


  横から見た基礎の最上部  ここにも大型のプーリーがあったのだろうか


      すでに周囲のコンクリート擁壁はだいぶ倒壊している


     施設跡の最深部  やはり何らかの固定ボルトが突き出ている

 そしてプーリーの回転によって削られた跡のあるガイドプーリーの基礎。2基あったと思われるそれの一方は、すでにボルトのみが痕跡を残す。


  最上部から下方を見下ろす  それぞれの施設跡が見えない動線で結ばれる


 失われた基礎と、代わりに残るボルト   しかし左側にはそれがない  左右対称だったはずだが…


 プーリーがコンクリを削った跡が見える  部品精度が低かったからか、それとも強度不足で歪んだのか

 さらにそれらの下方には、こんな規模の施設があったのかというほどの4基のプラットフォームが灰色の姿を見せている。こ、これは…。まさにインクラインの山頂駅跡である。

 そこから下には、鉱石を積んだコンテナが上下した窪みが、幅15m、深さ3mの規模で麓の方へ下降している。麓まではとても見下ろすことは叶わない。いったいここから下方へ何m下っているのだろうか。それは見る者を奈落の底へ落としめるような恐ろしささえ感じさせた。

 ここで、4つのプラットフォームを眺めてみよう。

 これは、西側から俯瞰したところの画像である。


  
 次に、上から覗いてみる。

 これが、左端のプラットフォームだ。 幅は2.5mほど。 これを1号とする。



 とすると、これが2号。


        
 さらに、3号。


            
 そして、これが右端の4号となる。


          
 それぞれの隔壁に刻まれたこのスリットには、何が嵌め込まれていたのだろうか?


   
プラットフォームの傍らに、錆びた金具が落ちていた。


       
 しかし、これは私が想像していたインクラインの方向と違う。規模も全く違う。こんなに大規模なインクラインだとは想像だにしなかった。 なぜ誰もこのことを語らなかったのだろう。そして今に伝えていないのだろう…。

2本の水平な道
 インクラインの山頂駅、と言っても正確には山頂ではなく、尾根の小ピークである。広さは、テニスコートがゆったり1面とれるくらいであろうか。落ちていたプーリーがある箇所は、これからインクラインに積み込む鉱石置き場だったのだろうか。

 そこから、尾根で分けられるように2本の水平な道が尾根の左右を奥に走っている。


 プラットフォームの奥に延びる水平道  道幅は4mほど  車が1台通れるほどの幅である

 上の画像は、北斜面につけられた道である。傾斜は右から左へと下っている。KAZU氏はこれを採掘跡だろうと仰る。

 が、それにしてはこれだけの規模の施設を誇る割に、採掘の跡が小さいのではないか。また、過酷で危険な重労働によって多数の命が失われたにしては、運搬器具があれば、この程度ならそうそう大変な仕事のようには思えない面がある。

 この疑問を私は暫く持ち続けていたが、それは私たちの探索がまだこの時点で緒に就いたばかりだったからだ。後に、磯氏の資料を手がかりにしてKAZU氏が見事にその疑問の解答を見つけることになる! 次号を待て!

 

          「戦線鉱業仁科鉱山を訪ねる〜その2」を見る
                                             
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