葉

いよいよ二本杉峠へ
探訪2002年10月5日   
 
 緩やかな登りで大川端に着いた下田街道は、ここで西に折れ、二本杉峠へと向かいます。
 大川端にはキャンプ場があり、休憩施設や親水公園などが整備されています。ここから登りがきつくなりますから、ちょっと一休みしましょう。そうそう、ここには、長野県から運んできた森林鉄道のディーゼル車と客車が展示されています。

炭焼き市兵衛の墓



 森林鉄道の近くに、竹垣に囲まれた「炭焼き市兵衛の墓」があります。高さは60cmほど。天明七年(1787年)に亡くなった尾鷲の炭焼き職人の市兵衛さんの墓石です。市兵衛さんは、尾鷲から炭焼きの技法を伝えに伊豆に来たそうです。

 これは道標を兼ねており、「右ハヤまミち 左ハ下田海道」「南無阿弥陀仏」などと記されています。元は、もっと下の滑沢渓谷入り口にあったそうですので、大川端に遺骨はないようです。
市兵衛さんはどうして遠い伊豆までやってきて炭焼きの技法を伝えたのでしょうね。何か縁故があって請われて来たのでしょうか。今では墓石に語りかけても、渡る風が木々の梢を揺らすのみです。

 さてキャンプ場内は、現天城峠と二本杉峠の分岐になっています。管理棟を左に見て親水公園に進みますと、右に林道が延びています。そこを左に外れ、遊歩道に入ります。やがて山道となり、小さな堰堤を越えて森に入ります。

 しばらく行くと、先ほど分かれた林道に出ます。左下には、沢に作られたわさび田が見下ろせます。間もなく林道は左に、二本杉峠への道は右に進みます。いよいよここから本格的な登り坂が始まります。

 辺りは鬱蒼とした檜林。所々に架けられた木橋は苔むし、風情を醸し出します。道はたびたび天城を襲った台風などによって崩れた所や倒木が行く手を阻む所があります。この急坂では、松陰を乗せた籐篭を担いだ人足は、さぞ大変なことだったでしょう。何人かで組を作って、交代で担いだのでしょうかね…。

         私の好きな二本杉峠への道の風景2つ    江戸時代の香りがするでしょ?

二本杉峠
 キャンプ場の分岐から早足で歩くこと25分。そろそろ前方が明るくなってきて、稜線に出るかな、と思われる所になりますと、もうすぐ峠です。
峠は、熊笹に覆われた緩やかな丘という印象の所です。いくつかの案内板や東屋があります。もちろん、ひときわ目立つ二本の杉も静かに辺りを見守っています。

 この二本の杉は、ここに峠道を造るためには邪魔だというので江戸幕府の伐採を申し出たところ、「貴重な杉なので、道筋を変えるように。」とお達しがあって残った木ということです。今でも二本の杉は安心したように静かに立っています。(某案内書には「トイレあり」と記述がありますが、トレイはありません。)


             中央に二本の大きな杉の木が見えます
     
 この日、私がここに着いたのは午前10時。この峠は、風が吹く日は木々の梢がざわざわと鳴り、淋しいことこの上ありません。でもこの日は大変穏やかな日和で、安心できました。と言っても、話し相手もいないし、他のハイカーも来ないので、一人でそば茶を飲んで、早々と出発しました。

 峠からは、天城峠方面に延びる道と、仁科峠方面に延びる道が交差しています。思わずそちらに進みたくなりましたが、まだ機は早いようです。特に仁科峠方面に進むと、帰りの交通の便がよくないそうです。いずれは行ってみることにしましょう。

 ところで、峠の案内板に「谷文晁もこの峠を越えた」と記述がありますが、この峠が河津に通じたのは文政2年(1812年)で、谷文晁が松平定信に随行して伊豆を訪れたのは寛政5年(1793年)ですので、違うのではないかなあ、と思います。
松平氏一行が通ったのは、もう少し北にある「中間業峠(ちゅうけんぎょうとうげ)」だそうです。中間業峠から稜線を歩いてこの二本杉峠に来て大川端に下ったのでしょうか。詳しいことは、歴史研究家の方に伺ってみましょう。

六趣能化尊(ろくしゅのうかそん)
 峠を出ますと、すぐに南に下る道との分岐があります。そこを下りますと、大鍋川に沿った大回りの道を進むようです。下田街道は道なりに標高を保って左に進みます。
 あたりはなだらかな丘のような土地です。この辺に峠の茶屋があったそうなのですが、資料を読んでも、私には特定することができませんでした。

 峠から下る、と言ってもほんの数十秒ですが、左斜面にこちらを向いて石造物が立っています。気と付けないと見逃してしまうので、目を皿のようにして探してください。(某案内書では「六地蔵」と紹介されていますが、どこで六地蔵と判断したのでしょう。とほほ…です。)



 「六趣…」というのは、仏教での「六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」とつながりがあるのでしょうか。音の響きからすると関連があるように思います。
 刻銘には、「宝暦十一年(1761年)」の建立年や「庄司庄三郎」などの発起人の名が列記してあります。炭焼きの仕事に関わっていた人たちが立てたようです。六趣、というところから、元は六体あったと思われますが、破損されたものもあり、また、違うパーツを積み重ねたものもありますので、昔の姿はとは違うと思われます。
峠を行く人々を百数十年、小高い丘から見つめてきた六趣能化尊。峠の様相の移り変わりを聞いてみたいものです。五つの石仏はただ黙っているのみですが…。

地蔵さま
 峠から下りますと、しばらくは等高線に沿うようになだらかな道が続きます。右手に大鍋越えの山塊を見るビューポイントを過ぎますと、やがて左に曲がる少し高い曲がり道に、一体のお地蔵様が立っています。この天城往還ができあがったことを記念して文政二年(1890年)に地元・湯ヶ野の人が立てたそうです。

 実は、ある資料では、ここが本当の天城峠である、としています。確かにそんな感じもします。真実の解明は、今後の課題にしましょう。

 資料『下田街道』には頭部の欠落した写真が載っていますが、この日はちゃんと頭がありました。2年前、私が初めてここを訪れた時も、頭部はありました。不思議なことです。
 祭壇には、たくさんのお賽銭や空きコップ、空き牛乳瓶などが供えられていますので、どなたかが不憫に思って、首を付けてくれたのでしょう。
 むろん接合部にセメントを使っているので後から繋げたことが分かるのですが、光背の裏を見ますと同じノミで削った跡が確認されましたので、どこからか欠落した頭部を探し出してすげたのかもしれません。すごいことです…。大事にされています。私も…と思い、転がっていた湯飲みを元に戻し、水筒からお茶を注いで手を合わせ、お地蔵様を後にしました。



 このお地蔵様を過ぎると道は下りになり、歩くのに難儀するようになります。

 つづら折りの下りを歩いていきますと、いつかしら沢水の流れる音がし始め、やがて左手に沢が現れます。以前来た時には、その左斜面の少し離れたところを白い物体が「がさがさっ!」とすごい速さで下っていったのを見ました。野ウサギでしょうか。それとも、もののけ姫? もののけ姫が出てもおかしくないような幽玄の谷間です。

途中、道はいったん広い林道に出ますが、50mほど歩いてまた沢筋に戻ります。この辺り、タラの木が群生しているところなのですが、年々、本数が減っていくような気がします。タラの木は春に2度新芽を摘むと枯れてしまうというので、山菜マニアによって絶えてしまうのかもしれません。



 道がなだらかな下りになりますと、踏み跡は沢の左岸や右岸を交互にたどるようになりますが、沢の流れはいつしか伏流水となり、水音も聞こえなくなります。
この辺りは比較的道が荒れており、沢のこちら側を歩いていたら道がなくなり、おやっと辺りを見ると向こう岸に道があった、なんていうこともあります。安全を促すテープが張ってある地点もいくつかあります。

 辺りの景色は同じような感じなので、ちょっと飽きてきます。仲間がいたら少しは楽しいでしょうが、単独行はある意味孤独との戦い(孤独を楽しむ人もいる?)です。
 途中、木橋の崩れたところがあり、インディジョーンズの世界を彷彿とさせます。ここは、川底に下りて通過します。
 

               壊れた木橋

 アケビの実がいくつも下がっている林で少年に戻り、自然のシソ(?)の群生地に驚き、杉林の中に取り残された炭焼き小屋の跡に昔を思い、岩の上でこちらをにらんでいる大ガマガエルの姿に飛び上がって走り出しますと、いきなりコンクリートの小橋が見えました。
 橋を渡りますと、目の前に大きな楠がそびえ、石仏が根元で佇んでいます。そう、ここが宗太郎園地です。左には、中間業(ちゅうけんぎょう)峠へ行く道が延びています。石仏や墓標は、静かに川の水音に耳を傾けています。
 峠からここまで約1時間。実際に歩いた時間より長く感じられる道程でした。


     宗太郎園地の分岐 左二本杉峠へ 右 中間業峠へ
                                             
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