葉

寝姿山のトンネルの事実〜その4
回想 2007年7月8日   
 
海側の坑口はどこに?
 では、ここで気になる海側の坑口について触れておこう。

 まずは、下の写真を見て頂きたい。


        路面が舗装されているので、昭和40年代に入ってからの写真だろう 

 これは、現在のベイステージ下田の付近を撮影した写真である。データは不明であるが、おそらく撮影されたのは昭和40年代の中頃だと思われる。中央右に移っている乗用車が、昭和40年代初め頃に販売されていたAP型パブリカに見える。当時は国道135号線が2車線で、海岸線がこのように陸地に迫っていた。ガードレールとして設置されているのは、台形をしたコンクリートのブロックである。万が一、車がクラッシュした時のことを考えると、むしろ危険だろう。時代の古さを感じる。

 さて、この写真の中央上部に、ある遺構が写っている。その部分を拡大してみよう。これである。


             向こうには、今はなき下田ドックが写っている

 岸辺からお気にかけて直立する3つの石柱。

 一番左のは、西条八十の歌碑であり、これは場所を変えて今でも間戸が浜海浜公園の一角に立っている。
 そして中央のと右のは、当時から「ピーヤ=pier=埠頭、船着き場」と呼ばれた桟橋の橋脚だと言う。この橋脚が、かの寝姿山のトンネルから搬出されたカリ鉱石を船に積み込むための施設跡だと言われているのだ。
 しかし、実際にこの橋脚の上に板が渡され、鉱石が船に積み込まれたのかどうかは不明である。その話をする人に私はまだ会ったことがないのだ。

 この写真が撮影された後、下田湾の埋め立てが進み、道路が拡張されるにつれて、ピーヤは姿を消した。

間戸が浜(海側坑口)へ
 さて、今年の2月、「昔の白浜に学ぶ会」の例会で中村の丁場跡を訪ねた時に、トンネルについても探索した。その時のレポートを載せておく。

 間戸が浜の有名ホテル脇の階段を上る。もちろん辺りは個人の民家が密集しているので、控えめに上っていく。


      某ホテルの脇を上がっていく ちょっとドキドキするのは、もろ私有地だから

あなたがこの地を訪れ、当地に住む人に出会ったら、正直に目的を話して了承を得よう。きっとやみくもに拒まれることはないと思う。

 民家の裏に回り込むと、このようなプレハブ倉庫が斜面に立っている。両側は畑の土留めの役を果たすコンクリートの擁壁のように見える。


       初めは左右の塀が翼壁だと分からなかった…

しかしこれらは、実はトンネルの張り出した翼壁なのだ。

 そしてその奥に、寝姿山のトンネルの海側の坑口がある。一見するとコンクリートで法面を吹き付けて固めたような印象を受けるが、地主さんの話によると、これは山の斜面が自然に崩落してこうなったと言うことだ。


     吹き付け法面かと思ったが、山肌が自然に剥落してこうなったそうだ

しかし坑口には、トンネルを掘削する際の工法がほとんど加えられていない。一般的な山岳トンネル工法が用いられていたと思うが、アーチ環には石が用いられていない。

そして坑口のほとんどが埋没している。内部には人為によっておびただしいゴミが放り込まれている。ひどい惨状である。


           狭い! これでは入れない!


          それにしても、ゴミ穴になってしまうとは…

手にしたデジカメを突っ込んで撮影してみた。内部にはそれでも空間があるようだ。しかしこの状況では、進入することはかなり厳しいだろう。ってか、無理!


              何とも無惨な状況である

 実はこの時、トンネル前で土木作業をしている男性がいた。彼は思いの外饒舌で、我々の突然の来訪に驚く様子も見せず、このトンネルについての由来や現状を話してくれた。


      ここ数日、こつこつと土木作業を続けている、という男性がいた

 彼の事を少し話そう。彼の名は、“タンギート木田”さん。このトンネルの前に建っている元旅館の主人にして、この地の主である。つまり地主さん。

 情報公開になってしまうだろうが、氏の言葉を借りて、この寝姿山のトンネルの生い立ちについて記そう。

 このトンネルは、彼の御尊父が当主だった戦時中に掘られたそうだ。発注したのは、何と日本軍だという。工事を請け負ったのは、当時のゼネコンの間組だそうだ。建設の目的は、この山の向こうにある肥料工場から製品を運び出すためだ。

 当時、海外から物資や原料の輸入ができなくなった日本は、国内で食料増産のための肥料を生産することは必須だった。そのため、化学肥料の原料となる“カリ鉱石”が採掘できる寝姿山に鉱区と肥料工場を造って、肥料を生産していた。そこで生産された製品をこのトンネルを通して港から船に積み込み、搬出する計画を立てていたそうなのだ。これは米軍の攻撃を避けて安全に輸送するためだったらしい。

 しかし、実際は軍がここにトンネルを造ることでもたらされる補償金をめあてに、建設会社が請け負って工事を進めていたとも考えられるそうだ。が、建設途中で終戦を迎え、トンネルはそのまま放置された。あるいは完成させることよりも補償金を受け取ることが目的なので、あえて放置された、というようなニュアンスも感じ取られたのだが…。したがって、このトンネルを通って運ばれるはずだった品が、製品としての肥料なのか、それともカリ鉱石そのものなのかは、不明である。ただはっきりしているのは、ここにも一つ、下田に残る戦争史跡がある、ということだ。

 地主さんの家では土地を提供するということで、当時の金額にして相当な補償金を軍から貰ったと言うことだが(←あわわ、オフレコ?)。何分にも軍が関係するために、このトンネルに関しての話は機密事項として扱われてきたらしい。

 現在は、少しずつ進んでいる崩落に対応するべく、地主さんがこつこつと地ならしなどの土木工事を手作業で行っているそうだ。住宅地の裏手に位置することから災害発生にも繋がることなので、いっそのこと予算を組んで防災処理をしてほしい、と行政に申し出たこともあったそうだが、実現はしていないと話していた。

 ところで、こちら側の坑道はどのくらい奥まで続いているのだろうか。その点について伺ってみたところ、この隧道は戦時中、防空壕として使われており(ということは、戦時中に既に建設は中止されていた?)、地主さんも避難したことがあるそうだ。奥はやはり当時も繋がっておらず、100mか120mほど行くと、工事を止めたように行き止まりになっていたそうである。


      女性陣が背を向けているところにトンネルの坑門上部がある

 その後、終戦を迎えてからは、このトンネルは防空壕から廃棄物のゴミ捨て穴となったことは、もはや言を待たないであろう。

 これでこの“幻の寝姿山のトンネル”のほぼ全容が明らかになったと思う。トンネルは、軍が関係するために機密事項として下田の歴史の中で闇に葬られ、知る人ぞ知る謎のトンネルのまま、齢を重ねてきたのだ。
 しかし、もしこのトンネルが完成していたら、どんな形で肥料運搬に用いられたのだろう。やはりトンネルの途中でホッパーを使って製品を降ろしていたのだろうか。資料が公開されていないのでまったく裏付けがとれないが、知りたいものだと思う。

 ところでタンギート木田さんはこのお話をしてくださった後で、私たちをお住まいに招いてくださった。
 氏はかつて旅館を経営していたが、家族経営では時代の波に対応することができず、今は営業していないとのこと。そして以前は本業として外国航路の船員として客船に乗り込み、その傍らでフラメンコの指導者をしておられたそうだ。華やかだったその踊りの世界で活躍していた頃の写真や、海外公演の旅の途中で蒐集した世界の珍しい物品のコレクションが所狭しと旅館時代のホールに展示してあり、タンギートさんは目を輝かせて説明してくれた。

 ついでに記すなら、彼は下田北高卒の先輩であり、英語はもちろんのこと、ポルトガル語など数カ国語を話す秀才かつ国際人である。ポルトガル語は動詞の活用が30以上もあるので、習得するのが非常に難しい言語である、と話しておられた。今でこそ高齢者の範疇に片足を入れてしまっておられるが、若い頃の写真を見せてもらったところ、俳優の宝田明かと見まごうような彫りの深い二重瞼と甘いマスクを持つ渋いイケメンであった(下の中央に張ってある白黒写真で女性と腕を組んでいるのが若き日のタンギート木田さんである)。


      タンギートさんが経営していた旅館内にある“旧ダンスホール”である

 これで今回の“幻の寝姿山のトンネル”の探索には一区切りつけることとする。

 あ、そういえば何年か前に他県で防空壕に潜り込んで遊んでいた中学生が酸欠のために死亡した事件があったが、その時、下田市でも同様の事故が発生することを懸念して、放置された防空壕などの調査を行い、閉塞処理がされた。
 しかし寝姿山のトンネルは、そした対応が為されなかった。若い世代には知られていないことと、民家から離れた山中にあることのためかと思うが、このサイトを読んでいるあなたは、決してトンネルに足を踏み入れてはならないよ。

それだけは約束してネ。

追記
 実は、寝姿山にはもう一つの“謎のトンネル”がある。

 えっ!?

本当の話である。いずれその話題に触れる時、再び寝姿山の謎を紹介しよう。


            「もう一つの寝姿山のトンネル」へ


                                             
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