葉

落合から縄地へ
探訪2002年8月10日


 落合−縄地の道は、3年前に私が初めて自分のホームページに掲載した道です。あの頃は稚拙な内容でしたが、それでも初めてアップしたものですから、十分に嬉しかったものです。そのページは、パソコンのハードディスクの故障とともに消え、また、現在この道は車道になっているため、ずっと再取材はしていませんでした。
 しかし、道幅は広がっても、ここは歴史ある古道です。縄地の史跡についての知識も増えましたので、もう一度訪ねてみることにしました。
 
 取り付きは、バス停『落合』です。川に沿って南に上っていきます。白浜峠への分岐を右に見て進むと、やがてわき水のある地点に達します。ここは、書物『静岡の名水百選』に「落合の水」と紹介されたりテレビの旅番組で紹介されたりしたため、かなりの人が水を汲みに訪れます。この日も、二グループが水を汲みに来ていました。しかしたいてい一人がいくつものポリタンクやペットボトルを持ち込むため、タイミングがよくないと水を汲む事はできません。おまけに車は列をなすし、方向転換をするのに適した場所がないので、大変面倒です。中には、道下にゴミを捨てていく人もいるので、私は利用しません。湧き水は常用しているのですが…。

 やがて落合側の最後の民家や美しい棚田が広がる地点を過ぎ、道は峠を目指します。彼岸花が咲く頃、またここを訪れることにしましょう。きっと畦を彩る赤い絨毯がきれいに違いありません。
 昔はもちろんこの道も人しか入れない山道だったそうです。いつ頃車が通れるほどに幅を広げられたのかは知りませんが、箕作在住の郷土史家であるF川先生は、子どもの頃に磯物を獲りにこの道を歩いて縄地へ行かれたそうです。車道となってからはきっと道筋も変わってしまったことでしょう。

 さて、3年前に来た時はまだ舗装してなくて通るのに難儀した道ですが、すでに峠付近を除いてコンクリートで舗装してありました。しかし峠のお地蔵様の前だけはまだ砂利道なのです。なぜでしょうね。気の毒に、峠のお地蔵様は、車のはね飛ばした泥で汚れていました。ばちあたりなことをする人もいたものです。

 お地蔵様は、赤いよだれかけを四重にかけられており、銘が読みにくいです。よだれかけを取り外して調べてもよいのですが、それをめくったとたんに隠れていたクモなどが飛び出してくることがあるので、ちょっと恐いです。(以前、大沢の子育て地蔵でよだれかけをめくった時にその目にあって、懲りました。)でも銘を読みますと、『嘉永三年二月丑□…』『□川津名□…』と読めます。縄地側の篤志家が建てたのでしょうね。

 ところで、4年前の中央公民館主催の古道探索ツアーで一緒に行った縄地のご婦人が、「峠から稜線に沿って南北に道があり、河津や下田方面に行くことができた。」と話していたので気に留めているのですが、本当にその道はあったのでしょうか。明治時代の古地図にその記載は見られませんので、土地の方に聞く必要がありますね。もちろん今は峠が切り通しになっているため、そんな道への取り付きは見られません。


        峠の地蔵様

 縄地側は、アスファルトできれいに舗装されています。道なりに下っていきますと、やがて『通行止め」の表示板が立っています。もちろん車はそちらに進んでいくので通行止めということはないのでしょうが、なんでこんな表示があるのでしょうか。
 旧道は、その表示を左に入って集落に至ります。急なS字カーブを過ぎますと視界が広がり、上条地区の家々が見えます。その手前、小さな橋のこちら側に、石造物があります。左は墓石群のようです。右には、石祠が二つあります。立地条件からして、サイの神か、あるいは忘れられた屋敷神かもしれません。見ると、古いお雛様がいくつも備えてあるので、サイの神である可能性が高いです。後で土地の人に聞いてみることにしましょう。

       古道は左に下りるのです                        上条の集落


        上条のサイの神

 道なりに下っていきますと、石垣の上に馬頭観世音と大日如来の銘が刻まれた石柱がありました。上半分がありません。途中で折れた状態で重ねてあります。刻銘に『寛永二年…』と読めます。よく見ますと、何と折れた上半分を横にしてその上に残りの半分を立ててあります。どうやらここは、大きな家を取り壊して更地にしたところのようです。きっとこの家で飼っていた牛馬を弔うために建てられたのでしょう。しかし家は既になく、石柱だけが隅にぽつんと立っているというわけです。過疎化が進んでいるとはいえ、淋しさを禁じ得ません。懸命に働いた牛馬はなく、その飼い主の家主も既になく…。これが世の移り変わりというものでしょうか…。


     半分折れた馬頭観音・大日如来の石柱

 下田と河津を結ぶ旧道に入り、右に折れて大正15年製の橋を渡りますと、山側に湧き水を溜めているコンクリートの瓶があります。その脇に、自然石をくり抜いて作った窪みがあります。何と、これが婆娑羅の旧峠にある『駒止の岩』のそれにそっくりなのです。実は、柿崎の東浦路付近にも同じような窪み掘って湧き水を溜めた所があります。昔の人はよくやったのでしょうか。やはり馬に水を飲ませたのかな…。


    自然石をくり抜いて作った窪み

 さて、道を戻って南に進みますと、庭で水撒きをしている男性がいます。声をかけてサイの神について聞きますと、「ここから2つ目の橋を渡ったすぐの所にあるよ。今でもそこでどんど焼きをするので、サイの神だよ。一番上の家の近くにある祠? うーん、昔はそこでもどんど焼きをやったので、それもサイの神かもしれないな。」という答えが返ってきました。やはりあのお雛様が備えてあった石祠は、サイの神と見てよいのでしょう。
 ところで2つ目の橋を渡ったところにあったものは…、『大□□来』とかろうじて読める、苔むした石柱でした。これ、本当にサイの神でしょうか? 謎です。

 さらに道なりに下りますと、道の際に4つのお地蔵様が屋根の下に納められています。だいぶ朽ちたお地蔵様もありますが、こちらがサイの神ではないでしょうか…。でも、資料『伊豆の道祖神』で紹介されている“縄地のサイの神”とは違います。またもや謎が生じてしまいました。

    サイの神と教えられた石造物            その次にあるお地蔵様

 国道をガードでくぐりますと、やがて道は古道「東浦路」に合流します。このあたりの様子は、伊豆新聞の『東浦路を行く』で紹介されていましたね。左(東)に折れる道を見ますと、ご婦人が二人、野良仕事からお昼に帰る様子です。挨拶をすると笑顔と返事を返してくださったので、いろいろ話を伺ってみました。この地で育った方と、西伊豆から昭和28年にお嫁に来たというお二人でした。お話は、要約すると次のようになります。

「ここは、河津へ行く古い道と聞いてきましたが、そうですか?」(私)

「ええ、そうですよ。山を越えてトンネルの脇に下り、また今の旧道に上がって河津に行ったんです。ガソリンスタンドの横に道があるでしょ? でももう今は行けないんじゃないかねえ。」

「あんたは、その道を歩いて学校(現河津南小学校)に通ったんでしょ。もう行けないかね?」

「行くんだったら、石切場の道を行けば旧道に出られるけどさ、あんた(私のこと)は研究で来ているんでしょ? じゃあ、それじゃ役に立たないからねえ。」

「道標? そこの家の庭にあるよ。後で見ていきなさいよ。」

「そこの角には、昔、お堂があってね、地名も海善寺といいますよ。いまでは下河津に移ったそうです。」

「サイの神? ああ、いくつもあるんじゃないかな。お雛様が供えた祠があった? それもそうだね。このすぐ下にもあるよ。そこが昔からの道でね、大正何年かに旧道が開かれる前は、皆その道を通っていたんだよ。」

「鉱山かい? 昔は盛んだったようだね。今でも、山に入ると、穴が空いているよ。だけど危ないので、塞いであるけどね。でも、所々にはまだ深い穴が開いていて、覗くと深くて恐いよ。あれは、落ちたら声も届かないんじゃないかな。だから素人はこの辺の山には入らない方がいいよ。」

「鉱山長屋は、旧道の下にあるよ。今では荒れているだろうねえ。縄地は昔、『わらじの脱ぎどころ』といって、ここに来れば仕事があるという話が、私の育った西伊豆にも話が届いていたね。それだけ鉱山が盛んだったということだね。」

「この道に一番奥の家のおじいさんは鉱山で働いていた人だから、話を聞くと何か分かるかもね。お寺にも、鉱山の印のある地図があるから、行ってみるといいよ。」(ほかにも伺った話はありますが、省略します。)

    角にある道標 高さ40cmほど             『千と千尋の神隠し』の1シーンを思わせる石造物群
   
 お話を伺った後、さっそく道標を探しました。高さ40cmほどのそれには、「下田…」などの文字銘がありました。
はっきり読めないのですが、「下田・天城・川津」などの文字が刻まれているのでしょうか…。また、その向かい側に、自然石に鬚文字を掘った念仏塔がありました。近づいて辺りを見回しますと、おお、斜面におびただしい数の石柱があるではありませんか…! 中には、倒れたままのそれらもあります。墓石かと思ってよく見ますと、ほとんどの表に『馬頭観音』『大日如来』の文字を読むことができます。こ、これは…! 牛馬のための供養塔です。『千と千尋の神隠し』で、千尋の家族が不思議の世界に迷い込む直前に見た石祠群のある風景に似ています。

 このように、貴重なお話をいろいろ聞くことができました。この後、東浦路を河津方面に峠まで行ってみましたが、そのおじいさんのお宅はひっそりとしていましたので、今回は、取材を見送りました。改めて訪れるとしましょう。

 さて、さらに海の方に下り、下条のサイの神を訪ねました。かなり大きな石祠と、3つの石柱が祭壇に並んで立っています。一番大きな石柱には、『奉納 西国四国 納経塔 明治廿戌年四月立之』と銘があります。あとの2つの小さい石柱には、『大日如来』の銘が読めます。石祠がサイの神でしょう。この日はその前に軽トラックが亭まっていたので画像を撮るのに苦労しましたが、いかにも古道といういい雰囲気がありましたよ。


  東浦路の道ばたに佇むサイの神など

 さあ、いよいよ今回の探訪の終点、子安神社に参りましょう。3年前、お社は朽ちて傾いていましたが、その後再建されたそうです。はたしてお社は材木の色も鮮やかに真新しく建て替えられていました。
 境内脇の広場に、子安様の大岩が鎮座しています。立派な陽石ですね。錆びた鋼材が2本立てかけてありましたが、そんな罰当たりなことをするものではありません。やった人には災いが降りかかるかもしれませんよ…。

 この日は大変天気がよく、海も穏やかで、2組の家族が磯遊びをしていました。東側の磯をぐるっと回れば、縄地鉱山の桟橋跡があるはずです。いずれ地形図を手にしてに改めて訪ねることにしましょう。(縄地鉱山については、先輩がネットに載せていますので、検索してみてくださいね。)


     子安様…、立派です

 今回の探訪は、これで一区切りつけることにします。でもまだ鉱山跡や東浦路の探訪もしてみたいですし、古老の話も伺ってみたいです。次回もきっと新しい発見があるに違いありません。楽しいですね、古道探索。あなたも訪ねてみませんか?
                                             
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