葉

南郷マンガン鉱山跡を訪ねる
探訪 2006年12月27・30日   
 
伊豆の鉱山
 「昔の白浜に学ぶ会」メンバーの藤井氏や磯崎氏のまとめたデータによると、伊豆にはかつて数多くの鉱山が存在したことが分かる。しかしそれらは今、大部分が閉山し、既に痕跡を探すことすら難しい状態になっている。なぜなら、河津や大仁や土肥のように大きな鉱山を除いて、それらのほとんどが小規模であり、稼働期間も短かったからである。「伊豆の金山は鉱脈が短い。」と言われたことから分かるように、短期間で掘り尽くされ、閉山の運命を辿った鉱山が多いのである。
 しかし、伊豆には金山だけがあるのではなかった。マンガン鉱もまた多かったのである。

松崎町にて
 松崎町加増野のマンガン鉱山跡を訪ねたその足で、もう一つの鉱山跡に行ってみた。

 実は図書館にある地域関連コーナーで蔵書を紐解くと、まれに伊豆の鉱山についての記述や写真を見ることがある。今回訪ねたのは、松崎町にある南郷マンガン鉱山跡である。ある本にその坑口のアップ写真があり、何か関心を呼び起こすオーラがあった。しかし正確な所在地が分からない。
 そこでかの町の識者に訊ね、おおむねの位置を特定した。あとはわが坑口レーダー(勘ともいう)を頼りに訪ね当てるだけである。

トロ線跡?
 小杉原から下りて川端の空き地に車を停めると、猛烈な西風が吹いてきた。冬の西伊豆に特有の風だ。ドアを開けると吹き飛ばされそうになるので、車の向きを180°風上に向けて変えた。




  これはもしかしてかつてのトロ線が通っていた跡ではなかろうか? いや、水路の跡であろう

 およその場所を見当で歩いていくと、ミカン畑で夏みかんを収穫している男性がいる。どうやら私有地を通って行くらしいので、心証を悪くしてはいけない。
 そこできちんと挨拶をして、正直に鉱山跡を訪ねてきたことを話し、よければ詳しい位置を教えていただけないか、尋ねてみた。
 すると男性は、思いの外親切にその位置を教えてくれた。

竹藪をかき分けて



 その坑口の位置はこうだ。

「その畑の左際を上がって、ほら、あの椿の木の手前で畑を右に横切って、上に登るんだよ。そうすると水道タンクがあるから、その奥に行きな。」

聞いてきた通りだ。

「ああ、坑口は一つだけだよ。」

そして男性は付け加えた。

「かなり奥は深いよ。コウモリがいるよ。ヒッヒッヒッ…(とは笑わなかったが)。」

 コウモリ男爵は既に仁科鉱山や河津の大名坑で遭遇している。その数は少なかったので、ま、問題はないだろうと思っていたのだが…。その姿は後ほど画像でお見せしよう。

たった一つの坑口
 竹藪をかき分け出て水道タンク脇の土手をよじ登ると、そこは放置されたミカン畑であった。そしてその奥にひっそりと坑口はあった。


   荒々しい岩肌にその坑口は閉ざされることもなくひっそりと佇んでいた

 坑口からは水が湧き出ている。辿ってきた水道パイプは、坑道の奥へと続いている。果たしてこのパイプは生きているのだろうか。



 やはり長靴を忘れてきたポカはここでも影響したが、水の流れ出る地点をどうにか過ぎると、後は難なく歩いていくことができた。そして男性の予告通り、そこにはコウモリ男爵が黒い男爵服をまとって天井からぶら下がっていた。

 しかしここのコウモリ男爵は、これまでに見たことのない数であった。坑道はまもなく右に曲がり、落盤によってか、天井が低くなる。そして手の届くところでコウモリ男爵は数を増し、今にも飛び立とうかとその体を揺らすのであった。

その奥は
 別に、コウモリ男爵が恐いのではない。ただ彼らの眠りを覚ましてはいけないと思ったのだ。
 坑道は、落盤地帯を過ぎると今度は左に曲がっているように見えた。手にしたSF501は青白い光で坑内を照らしているが、男性の言った「奥は深いよ。」という言葉は、どの程度の意味を示唆するのだろう。


  坑口を入って真っ直ぐ10m進むと、坑道は右に曲がっている

 落盤によって盛り上がった部分を越えると、そこには複雑にくりぬかれた石室が広がっていた。

 縦横に走る石室の通路。縦に横に、それらは無限の暗闇を広げている。


        石室から上を見上げたところだ

そして奥に眠る地底湖…。


   水が深く湛えられている その先にはまだ行けそうなのだが…

 その先にまだ坑道は続いているのだろうか。水深が腰より深いことは明らかなので、今回はそこから先に進むことはできなかった。




     石室の構造は複雑である 鉱脈を探して掘り進めたのだろう

 そしてコウモリ男爵達は固まって飛翔の時を待ちかまえていた。ぞわっ!


  これほど多くのコウモリ男爵を一カ所で見たのは初めてだ


     見事なコウモリ団子だ(前ピン、がっかり…)

新たな情報
 帰り道(おいおい、もう帰るのか!?)、今度は女性が洗い物をしていた。鉱山について尋ねると、やはり笑顔を湛えてていねいに答えてくださった。

 その話を再現してみよう。

「お仕事中、申し訳ありません。今、この奥の鉱山の跡に行ってきたのですが、いつ頃掘っていたか、ご存じですか。昭和の戦後でしょうか。」

「いやあ、そんなもんじゃないですよ。もっと古いものでしょう。私の父が若い頃からあったと言っていましたからね。明治26年生まれの父がいったのですから、掘っていたのは明治の後期から大正にかけてではないでしょうか。」

「そんなに古いのですか。」

「ええ、父はその竹藪を切り開いて作ったと話していましたよ。」

「トロッコなんかもあったのでしょうか?」

「いやあ、分からないですけどね。あったんじゃないでしょうか。天窓洞みたいなものじゃなかったでしょうかねえ。」

「天窓洞と仰いますと、雲見に行く方にある石丁場ですか?」

「ええ、そうですよ。あんな風に掘っていたんじゃないでしょうかね。」

「そうですか。私はまだそこに行ったことはないんですけど、としますと、奥は深いんでしょうね。」

「私は入ったことはないですけど、兄たちは入ったと言っていましたよ。」

「そうですか。お兄さま達が…。」

 明治後期から大正期にかけて稼働していたということは、比較的古い部類に入る鉱山ではないだろうか。そこにトロッコ線路はあったのだろうか。採掘されたマンガン鉱はどこに運ばれ、どこで選鉱されていたのだろう…。

見間違い
 帰り道、車に戻ろうと踏み入れた草っ原で、放置された鋼材をみた。あっ、レールがあった! と思ったのもつかの間、それは単なるU字鋼だった。なあんだ…、がっかり。


  これがもしレールだったら…

 さて、その所在について詳しく記した書物がない今、こうした伊豆の鉱山は土地の識者や先達に聞くしか訪ねる方法がない。その意味で、ある種、古道探索に似た高揚を訪ね探す私にもたらしてくれるのだ。このサイトの主旨から少し外れるが、しかし、それもまたよいのではないだろうか。

 最後に付け加えよう。この鉱山跡から引いている水道パイプは現在利用中であり、そこに至るまでの畑も使用が明白な私有地である。したがって、いくらそこに好意的な土地使用者がいても、むやみに訪れるのはお勧めできない。私ももう行かない。ただ、そうして人々の記憶からこうした鉱山が消えていくのは何ともさみしい限りである。
                                             
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