葉

七曲り峠に寝小便地蔵を探しに行く
中村〜白浜を結んだ古道
そして秋葉神社跡と不思議な洞窟   
 最新探訪2002年1月5日



 平成5年に中村区が自費出版した資料『中村 今昔』という本に、七曲り峠や寝小便地蔵、お不動さん、秋葉神社跡などの探訪記が載っています。昭和の中期までは盛んに往来があったというこの道の周辺には、年輩の人しか知らない史跡があるというのです。残念ながらこの本は私の手元にないのですが、どりあえず以前読んだ記憶を頼りに、中村から七曲り峠を目指し、峠付近にあるという“寝小便地蔵”さまを訪ねてみようと思いました。

 取り付きは、下田警察署の裏あたりの住宅地を東に進みます。山の麓に着いたところに、『ななや』という屋号のお宅があります。実はこのお宅の庭が、七曲り峠への道の入り口になっているのです。しかしこのお宅には元気なワンちゃんが2匹いて、容易に入れません。前もってななやさんに頼んでおいて、ワンちゃんを見ていただいているうちに通るのがよいと思います。夏に一度ここを下見に来た時、おばあさんにお会いすることができたのですが、「今は山の手入れをしないので、倒木がひどく、上までは行けないでしょうよ。」とのことでした。寝小便地蔵様については、「ええ、ありますよ。昔はよく、寝小便が治るようにと、お参りに行ったものですよ。」と話してくださいました。(後で聞いたことですが、ななやさんに向かって左の山裾から入る道があるそうです。よかったですね、ワンちゃんに噛まれなくて…。)


        中央の窪んだ付近が峠です

 さあ、いよいよ道を進むことにしましょう。ななやさんの裏から山に入りますと、行く手は鬱蒼とした杉林で、かなり道は荒れた様子が伺われます。倒木も多いようです。しかし、実際に歩き始めますと、道が回りより一段低く窪んだようになっていますので、踏み跡はしっかりしています。この辺りはまだ稲生沢川の鉄橋を渡る伊豆急電車の音が大きく聞こえます。


       うーん、荒れていますね

 倒れて朽ちた木々を越えたり踏んだりしてしばらく行きますと、左に石組みの遺構があります。何かの建築物があったようです。あるいは畑があったのでしょうか。これは土地の人に聞いてみる必要がありますね。

 またしばらく行きますと、今度は右手に、岩を大きくくり抜いたような跡があります。高さは5mほどあるでしょうか。底も深く掘ってあります。これはきっと石を切り出したところでしょう。こんな所に石切場があるとは、予想だにしませんでした。これが有名な“伊豆石” の産出地の一つなのでしょうか。これも、識者に聞いてみたいものです。おや、また左に石組みの遺構があります。道に沿って組んだ石垣や、家の敷地のように平らに積んだそれがあります。どなたかの屋敷があったのでしょうか。作業小屋や納屋の跡にしては立派すぎます。う〜ん…。


       所々で見かける石垣


                 石切場の跡ですね、きっと

 さて、道はやがて竹林の中に入ります。踏み跡ははっきりしているのですが、倒木(倒竹?)が多いため、歩きにくいです。この辺りは昔段々畑だったかのように棚状になっており、道はその間を縫うようにして曲がりながら上っていきます。そして道の脇にはきちんと石垣が組んであり、まるで道を踏み誤らないように配慮したかのように歩く者を誘導してくれます。その昔はもっと山の手入れが行き届いていたと言うことですから、きっと回りの木の丈が低く、日当たりもよかったことでしょう。きっとこの辺りは畑になっていたのでしょう。
 道は、竹藪を抜けてなお、七曲り峠の名の通り、右に左にくねりながら上っていきます。傾斜もかなりありますので、かなりの難所と言えそうです。学校の遠足ルートとしてはちょっと使えませんね。探検ごっこにはよいかもしれませんが…。

 ふもとから歩くこと約25分。道はいよいよ荒れてきて、時々踏み跡を離れて迂回しなければならない所もでてきました。伊豆急電車の音も、かなり小さく聞こえるようになりました。おや、前方が明るくなってきました。もうすぐ峠でしょうか。半ば藪こぎをするようにして歩いていきますと、急に前が開け、きれいな尾根道に出ました。おやおや、これはまるで別の道のようです。今まではひどく荒れた道でしたのに、ここはなだらかで窪みもなく、倒木はほとんどありません。 

          もうすぐ峠かな?               出ました、これが峠です 別の道があるじゃん!

 確か資料の記述によりますと、峠に出てから右に30mほど行くとお地蔵様がある、とのことです。ちゃんとそちらに道が延びています。(この道をしばらく行ってみましたが、かなり南東方面に続いているようでした。方角としては、総合庁舎の辺りに出るような気がします。) 果たしてお地蔵様は…、おお、ありました。小高い丘の上に鎮座しておられました。これが寝小便地蔵様ですね。久々に味わう感動! 


            やっとお会いできました、寝小便地蔵様

 お地蔵様は、3つありました。すぐさま合掌して、よく拝見しました。いずれも舟形光背をもつ浮彫単立像で、形は完全に残っています。向かって右の2つのお地蔵様は同じ形で、左の1つは違った特徴を持っています。しかし、どのお地蔵様の光背にも年号などは掘ってありません。見ると、お地蔵様の前に倒れている石柱に、『□暦十年□…』と掘られています。江戸時代で暦がつく年号と言えば、「明暦(1655年〜)」か「宝暦(1751年〜)」です。いったいどちらでしょうか。いずれにしても古い年号ですね。それにしても、どうして「寝小便」という名がついたのでしょうか。ちょっと気の毒のような気もします。
 3つのお地蔵様に対して4つの線香立て(というの?)があります。ちゃんと小枝が供えてありましたし、古い瓶が何本もありました。やはり訪れる人はいるんですね。


          「暦」の字が読める石柱
 

 さて、お地蔵様からとって返し、峠に戻りましょう。ここではもう一つ見るべき史跡があります。峠を登り切ったところのすぐ左を、藪に入ってください。高さ160cmほどの石柱が立っているはずです。この山にはその昔、秋葉神社があったそうで、その石鳥居が残っているのです。残念ながら鳥居は折れており、かろうじて石柱の形で立っています。2本の柱(低い方はさらに折れて2本並んだ形になっています。)の幅は、大人が両手を広げたくらいあります。あまり大きな鳥居だったのではないようです。鳥居の上の部分が、手前に落ちています。こちらも長さは2mくらいでしょうか。人が2人並んでくぐられるくらいの小さな鳥居だったような印象を持ちました。ここと道を挟んだ下側にも、鳥居の上の部分が落ちています。同じパーツが2つあるということは、もしかしたら鳥が二つ重なって立っていたのかもしれません。


  秋葉神社の石鳥居 左側はツタに覆われています

 さて、鳥居跡から稜線に沿って踏み跡がついています。辺りは、この神社の氏子さん達が植えたという檜林になっています。そこを100mほど登りますと、山の頂に出ます。その山頂に、秋葉神社の礎石と伝えられる石があります。私が見た限りでは、礎石というより倒れた石柱のような感じがしましたので、本当の礎石は土に埋もれているのかもしれません。この秋葉神社は、その後、中村の神明神社に合祀されたそうです。(秋葉神社というのは、静岡県磐田郡にある秋葉神社のことです。防火の神様だそうで、『秋葉街道』という参拝道は有名です。)ここの秋葉神社は、その分け宮ということです。


      秋葉神社の礎石ということですが…

 神社跡から下りましたら、峠を左に進みましょう。山肌を左に見て進むこの道は、ほぼ平坦に続いています。

 ここで何気なく足元を見たところ、ズリ(鉱石のかけら)のような石が目に留まりました。こんな所に赤茶色の石のかけらがあるなんて、道の様子からして不釣り合いです。(おやっ?)と思って辺りを見回しますと、こ、これは?! 山肌に黒い洞穴がぽっかりと口を開けているではありませんか。枝をかき分けて近づいてみますと、大きな岩の割れ目をさらに広げた形で穴が掘ってあります。しかしその口は石を積み上げて塞いであります。これは…、間歩跡ではないでしょうか?! こんな所で鉱山の試掘をしたのでしょうか…。全く聞いたことがなかったので、面食らってしまいました。何となく歩いていたのでは気がつかないかもしれませんが、道を挟んだ斜め向かいに炭焼き窯の跡がありますので、探そうとすればすぐにお気づきになると思います。(画像が暗くてすみません。)

   
       謎の洞窟 間歩跡                 

 道は徐々に明るくなり、5分ほど歩きますと寝姿山−高根山ハイキングコースに出ます。峠からは大きな起伏はなく、荒れてもいないので、歩きやすいです。


           歩きやすい平坦な道

 近くに東京電力の鉄塔と送電線が通っていることから、どうやらこの道はそのメンテナンス用の道として、寝姿山方面から入るようになっているようです。ハイキングコースとの合流点に、鉄塔への案内板が立っています。この合流点を右に折れると下田−白浜間の市道に出ます。お地蔵様にお参りするだけでしたら車で出かけ、ハイキングコース入り口に車を置いて歩き始めるのが楽です。

 
       寝姿山ハイキングコースに出ました            車道からの入り口です(左へ入る)

 ところで、その市道を少し下田側に進みますと祠があり、中に別の3つのお地蔵様があります。その一つの光背に「文政」という銘があり、水鉢の表に「寛政元年」と彫ってありますので、こちらも古いお地蔵様であることが分かります。(文政は、1818年〜。寛政は、1789年。)由来等はまた別の機会に調べてみたいと思います。


         もう一つのお地蔵様

 後でななやの奥様から聞いたことですが、その昔この七曲り峠を通って白浜から北高生が通学していたと、よくおばあさんが話していたそうです。いずれその頃の話を詳しく伺ってみたいものです。          
                                             
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