いよいよ洞門内部へ
緑濃い薮に包まれたそれは、まさに海を見下ろす路盤に続く坑門であった。

海側に開けられた窓が海からの光をアーチ型に切り取っている。
逆U字形の導光窓は、侵食しようとしている蔦を絡ませながら、さながらギリシャの神殿の窓を思わせるように静かに光を導き入れていた。

坑門から内部を見た。光のある部分から暗いところへと、一気に続くグラデーションを作りながら、隧道は続いている。私の心の興奮は今、まさに最高潮を迎えていた。

この鉄骨による覆坑を見よ! まるで巨大哺乳動物の肋骨を思わせる鉄骨が、東海道の輸送を強固に支えていたのだ。

この洞門の中をかつては湘南電車が時速100km以上の速度で上り下りしていた事を語る要素は、どこにも見られない。私たちの脳裡の記憶を除いては…。

眼下に望むのは、相模灘の静かな入江である。かつての乗客達はこの海面をみながら、駅売りのプラスチックに入ったお茶を窓際に置いて小さなキャップで啜っていたのだろう。昭和40年代の客車風景を想像し、私はしばしこの海を見下ろしながら佇んだ。

海を見下ろす方洞門はさらに続く。アーチ窓から差し込む光は、もはや通ることのない列車をいつまでも待ち続けているように見えた。

やがて丸アーチの洞門の先に、方形を描く暗渠のような空間が見えた。

後から増設された洞門であろう。およそ100mほど上り方面に続いている。

洞門の外に出ると外構は異国の神殿のように見え、夏の日差しの中でそれでもなお揺らめいていた。

洞門の彼方に
赤坂トンネルを過ぎると、既に人が一人歩けるだけの草地になった路盤が続いていた。
100mほど歩くと、向こうにコンクリートの建造物が見えた。現在の線路に突き当たったのだろう。
災害を懸念して線路の付け替えをしただけあって、新線脇ののり面も賢固に固められているように見えた。

新しいトンネルの扁額には「湯河原隧道」と記してある。113系湘南電車ではない、アルミボディのE231系下り列車がトンネルに吸い込まれていった。

帰り道
現在線に突き当たってからは、引き返すしかない。私は惜しみながら歩みの一歩一歩を乾いた路盤に記した。
鉄橋の下から人の声がするので驚いたが、どうやら海上の漁船が拡声器で連絡を取り合う声がここまで届いているようだ。


現役時代の写真
これらの隧道が使用されていた時の写真を拝借した。現在の姿とは全く違う姿である。
赤沢トンネルへ入る列車からの風景「国鉄昭和35年の旅」様より借用
赤沢トンネルを通過中の列車からの風景「国鉄昭和35年の旅」様より借用
豆相人車鉄道の復元客車
隧道探訪を終えた後、湯河原の和菓子屋さんが復元した豆相人車鉄道の復元客車を見に行った。

場所がなかなか分からなかったが、その道のエキスパートである磯崎氏に電話をして位置を特定し、探し当てることができた。私は海岸と湯河原駅の間ぐらいにあると思っていたが、駅よりずっと山側へと上がっていった方にお店はあった。
店内でお菓子を食しながら客車を眺められるようになっている。
店のオーナー氏はかなりこの客車に愛着を持っているらしく、店内には新聞記事などが展示してあり、お菓子として製品化もしている。
私も人車もなかを一つ買ってみた。甘さを抑えた、なかなかよい味のもなかだった。

これが現役時代の写真。

改めて復元客車を見てみると、中に入れるようになっていた。

車内にも展示があった。
今回この隧道探索を企画し、下見までしてくれたのは、若き探索家クロイヌ氏です。大変な仕事だったと思います。クロイヌさん、ありがとうございました。
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