学制発布
日本の近代教育の出発点は、明治5年発布の「学制」にある。維新政府は、旧来の因習を破り知識を世界に求めることを国の根本方針とした。そして「万機公論」の精神を尊重しつつ、国を挙げて近代国家の建設に力を尽くした。その支柱となったものが、教育立国への先見であり、「学制」の発足であった。
ところが、法はできても市井の財政や人々の暮らしを改革して行くには時間がかかる。この「学制」は国民一般の実状や経済を無視した机上論であるとされ、本格席な学校の整備が始まるのは明治12年の自由教育令や翌13年の教育改正令、そして19年の小学校令などが出されるのを待ってからのことであった。
そうは言っても、学校をわが村に、というのは人々にとっては願いでもあった。
ここ南伊豆町でも各所でお寺に間借りした尋常小学校が設けられ、家庭の事情によって通うことのできない子もいたが、徐々に地域に溶け込んでいった。
青市にて
さて、南伊豆青市の上組地区には公会堂がある。元は小学校が建っていた土地であるらしい。この坂を登りながら、向学と立身の夢を膨らませた子ども達が大勢いたことだろう。
この学校には、一つ北側にある中組地区の洞からも子ども達が通学していた(「洞=ほら」というのは川沿いの集落のこと。川に沿って田畑や家屋が展開し、集落を形成して集団の単位となる)。
しかし中組と上組は異なる洞である。その間には一筋の尾根が存在し、両者を隔てている。当然、中組から上組にある小学校に通うには、一旦中組の麓まで降りて上組の洞に入るか、中組から尾根を峠で越えて上組に入るしかない。前者は平坦であるが距離が長い。後者は短距離だが山道は険しい。痛し痒し、なのである。
そこで、子ども達の不便さを少しでも取り除こうと、大人達は立ち上がった。中組と上組を隔てる山塊の下り尾峠に隧道を穿ち、子ども達の負担を軽減しようとしたのだ。
下の地図をご覧いただこう。中組から上組に行くには、下りを尾峠を経由した方がずっと近いのがお分かりいただけるだろう。
しかし、これから紹介するトンネルは後から作られたものであって、峠道自体はもっと古い時代から存在し、人々の生活に供用されていたことは疑いのないことである。

では、この地に小学校ができたのはどんな経緯だったのか。
資料によると、次のような経過があったようである。
明治6年 8月 湊村に三餘館を置く
明治6年11月 手石、青市を一学区として養蒙館を置く
明治19年5月 手石、湊、青市、下流、大瀬、長津呂を合併。一学区とし、本校を手石に置く。尋常小学校手石学校と称す。各村に分校を置く。
明治22年3月 竹麻村を一学区として竹麻尋常小学校を置く。
明治25年4月 青市尋常小学校独立
明治41年9月 竹麻尋常高等小学校と改称
昭和12年10月21日竹麻尋常高等小学校、青市尋常小学校を廃し、新たに両校を統一した竹麻尋常高等小学校を新設
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明治25年4月に青市尋常小学校が独立した、とある。校舎はこの年ぐらいに落成したのではないだろうか。
しかし明治6年に青市に置かれたという養蒙館がお寺に併設されていたのかは分からない。また、明治25年に学校が今の公会堂のところに新築移転してきたことも資料から読み取ることはできない。
もう一つの資料『南史』には、このようにある。
「公会堂のところに小学校が新築され、子ども達の通学の負担を少しでも減らそうと、有志3人の手によって下り尾峠にトンネルが掘られた。明治25年に着手。3年をかけて掘り、供用されたのは明治28年頃と思われる。」
アプローチ
下田から車で南伊豆方面を目指し、銭瓶峠を越える。道路の勾配が緩やかになり、周囲に田畑が広がる辺り、そこが青市地区である。
直線道路の信号近くに南伊豆町の観光協会案内所がある。そこを右折し、大賀茂と一条を分ける八声トンネル方面へと向かう。本の数分走ると、道ばたに「青市公会堂」と書かれた小さな案内板がある。訪ねる場合は、静かに行こう。ここは静かな山間の静かな集落であるのだ。
家々の間を縫うようにして公会堂への道を登る。上組の子ども達もずっと昔に学用品を包んだ風呂敷を抱えてこの坂を登り、未来という空への飛翔を夢見たのだろう。

青市の小学校跡(現公会堂)へ行く上り坂
静かな公会堂
日曜日の公会堂にはなぜか紅葉マークをつけた数台の軽トラ(近所の人たちの車か?)が止まっている。しかし誰もおらず、ひっそりとしていた。

ひっそりとしている青市公会堂
峠はどこに
敷地の奥に、山を登る林道が見える。案内板はないが、峠はそちらに間違いないだろう。

現ゲートボール場の脇に峠へ行く林道がある
この日は西風が強かった。ジャケットの襟を立てて登っていく。木々の葉が揺れて撮影時にブレてしまう。おまけに太陽光線が低いので、陰影がきつすぎて、狙った通りの写真が撮れない。

公会堂の奥から登っていく道
あの坂を登って
軽トラ1台が通れるくらいの幅の道を歩いて登る。道がぐぐっとS字に曲がった先は車で越えられる峠のようだ。その手前で細い山道が右に分岐している。ここか? ここなのか?!

公会堂からカーブを2つ曲がるとこの細い道が分岐している
寒風に背を押されるようにして登っていくと、小さなトンネルが隠れるように私を待っていた。

ひっそりと隠れるようにしてある極小トンネルだ
初めて歩く道はワクワクする。その先にトンネルがあるのだから、なおも気分が高揚してくる。

見えたー トンネルだ!
方形の断面を持ったトンネルは西風の通り道となり、乾燥している。降り注ぐような竹林のざわめきに包まれて、下り尾峠のトンネルは久々の来訪者をくぐらせた。

すぐ向こうに出口が見える
コウモリ男爵やゲジゲジ侯爵などは、もちろんいない。ただ冷たい西風だけが早く私を追い出そうとしているだけである。

今日は冷たい風の通り道になっている
私の歩数にしてわずか15歩。距離は約10.5mとみた。あっという間に中組側の出口に至った。

もう出てしまった だから何度も行ったり来たりした
中組側は竹藪になっており、すぐに道は下りとなる。この道はどこに出るのだろうか。行ってみよう。

この道はどこに通じているのだろう わくわくわする
こんな切り通しがある。いい雰囲気である。ここもやはり古道なのだろう。

いい雰囲気の切り通りがあった
右に傾斜する斜面を道は進む。右は畑である。

南側には畑が接している
柔らかな枯れ葉のクッションが足に優しい。しかし滑りやすい。気をつけて行こう。

落ち葉で滑りやすい 要注意!
しかし一部ではこのように倒木が行く手を遮る。

今は道普請をしないのだろうか やや荒れている
途中、このように路床を削って階段状にしたところがあった。子供の歩幅に合わせのか、蹴上げはごく小さい。

1年生の歩幅に合わせたのか、かわいい石段である
やがて右(南)側が明るくなり、家々の屋根瓦が見え始めた。遠く、車の走る音も聞こえてきた。

見えたー お里だ
中組の集落へ
集落が見えた。中組のどの辺りだろう。

さっきから車の音は聞こえている
町道であろう。こんなところに出るんだったんだ。

細い町道に出た
とりあえず国道まで出てみることにした。
途中、民家の庭山にこんな念仏塔と常夜灯が立っていた。

念仏塔は上部が欠落している(基部を含めた高さは80cmほど)
携帯電話の電波塔がある。国道は、青市の直線部分の北側部分のようである。

向こうに見えるのは国道であろう
上組の洞の入り口までには、なるほどかなり距離がある。

まもなく青市の直線道に入る辺りだ
帰路を辿る
では、今来た峠道を逆に辿ってみよう。
弓ヶ浜から下田方面に向かい、電波塔のある細道を入る。

携帯電話の電波塔かな?
民家の前を、幅の広い方の道を選んで進んでいく。

静かな集落である
国道から80mほど進んだところで、左側の山道に入る。辺りに歩く人の姿は見えない。

60mほど入ってきた
この道である。

入り口はきれいに手入れがされている
山神様の祠か
登り始めて間もなく、右手の一段高いところに石の祠が見えた。山神様であろう。

登るための石段もつけられている

祭壇を含めた高さは70cmほど
小さな手掘りの石段と祭壇もあった。
手を合わせ、道に降りて、再び歩き出した。

この道にもう通学する子供達の歓声は響かないのだろう
もうすぐ峠とトンネル、というところで、左に分かれる小径があった。後で分かったことであるが、この道はトンネルの直上を越えて林道を横切り、上組の奥に通じているルートのようだ。

左に分かれる道はやがてトンネルの上を越えていく
響くお念仏の声
トンネルの中組側坑口に来た。
この時気づいたのだが、竹林にはどこからともなく「おーん
おん おーん おん おん・・・」という、お念仏のような男性の低い声が聞こえているのである。その声に混じって、「パシッ、ピシッ!」という人が竹の枝を弾くような音も聞こえている。だ、誰かが私を見ながら念仏を唱えている。ぞお〜っ。さっき国道近くで念仏塔を見てきたからだろうか。ここは念仏に守られた峠なのか・・・。

ひいいっ、竹林からお念仏が聞こえてくる〜
しかしせっかく来たのだからと、恐さを振り切って写真を撮ってみた。

冷たい風が吹き抜けてくるー
手掘りの鑿の跡がはっきり残っている。
また、地層の筋も見てとれる。

石としては柔らかそうな感じだが

手掘りの鑿の跡ということだ
この向こうは、2,3分下ればすぐに学校がある。このトンネルをくぐった時、子ども達はほっとしたことであろう。

この角を曲がればまもなく学校である
明治時代はそこに見える林道もなかっただろうから、同じような山道が学校まで通じていたと思われる。

昔はあの林道も細い山道だったのだろう
立体交差
ここで、同じく尾根筋に向かう林道を歩いてみた。
この林道は尾根を越えて中組地区の奥へ通じているような感じだった。
一方、トンネルの向こう側で分かれた小径はトンネルの直上を尾根道として越え、林道を横切って上組の奥へと続いているように思えた。
尾根を越えて中組の奥に通じているのだろうか
再び学校跡地へと戻ってきた。やはりそこには誰もいず、軽トラだけが赤いテールランプを並べていた。誰かいれば昔の話も聞けたであろうが。

やはり公会堂はひっそりと静かなままだった
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