葉

不思議な石積みの謎を探る
 子浦から上小野の県道を辿って
探訪2004年9月25日
 
「銭亀峠」は「銭瓶峠」の誤りです。失礼いたしました。
「不思議な石積み」の情報
 9月下旬、berryさんからの掲示板にお初の書き込みをいただきました。その内容は、「子浦から下田に向かう県道119号線に、道ばたの土手をけずって石を積み上げてあるが、あれは何ですか?}というご質問です。う〜ん、分かりません。見たこともないのです。と言うより、その道はまだ通ったことがないのでした。折りしも掲示板にもうお一方、根岸さんも書き込みをしてくださり、ちょっとテンションが上がっている私。ちょうど週末の休みを迎えていますので、ここは自分の目で確かめてみようと思い立ちました。
 道に関するヒントをいただくと、探索ががぜん楽しくなるもの。今回も、断片的にしか分からなかった点と点が、数々の出会いによって線で結ばれていく過程を堪能することができました。では、ご一緒に参りましょう。

 夜半は雨が降り、朝になっても路面は濡れていましたが、かみさんは職場の運動会が決行されるというので、出かけていきました。私もその後を追うようにしてバイクで出発します。ルートとしては、まず子浦に行って県道119号に入り、戻ってくることにしましょう。地元の人にも話を聞きたいものです。


    今日はこれに乗ってでかけましょう

銭瓶峠
 下田と南伊豆の境に、銭亀峠があります。資料によりますと、ここに乗合馬車が通ったのが明治37年。1台6人乗りで、南伊豆(のどこからかなぁ)から下田まで、運賃は一人15銭でしたが、50銭出せば一人の客でも馬車は出たそうです。それまでは、別の山坂道を半日かけて歩いて下田まで出たそうです。

 峠にはいくつかの石造物がならんでいます。銘がよく読めないので由来は分かりませんが、供養塔か念仏塔、そして地蔵菩薩などではないでしょうか。
 

            銭亀峠の石造物群

 この日は各地の小学校で運動会が行われる日です。竹麻小学校でも、ぬかるんだ運動場に土を入れて、盛大に催していました。太陽も顔を出し、雰囲気は盛り上がっています。

 ふと見ると記録係をしているかみさんが眩しそうにしています。きっと天気は曇りと読んで、帽子を持ってこなかったのでしょう。気の毒なので、下賀茂のミロー(この辺唯一の安売り店)へ行って帽子を買い、届けました。そしたら、「どこから(帽子を)持ってきたの? 持ってるよ。」ですと。骨折り損でした。まあ、それからかぶってはくれましたけど。



道標見つかる
 竹麻小学校のある南伊豆町日野(ひんの)から温泉会館の前を通って加納へ行き、妻良(めら)を目指します。二条から蝶ヶ野経由で行くと近いので、そちらにバイクのハンドルを向けました。

 途中、道路を拡張したばかりの三叉路の内側に石造物が立っているが目に留まりました。
 何か引かれるものがあり、止まって見てみますと、巡拝塔のようですが、な、何と、道標を兼ねているではありませんか。ここがまさに古道であることを示す道標。私はこういうのに巡り会うのが大好きなのです。いつか下田や南伊豆の道標マップを作りたいな、と思っています。


         道標を兼ねた巡拝塔(高さ80cmほど)

 さてこの石造物の銘を読んでみました。正面に「右 子浦 祈願常無大師遍照金剛 左 妻良」とあります。ということは、ここが子浦と妻良の分かれ道なのでしょう。ただしこの道標が示す「右」は下賀茂方面なので、ちょっと位置関係が違います。目の前の山に入っていく細い道が子浦への道だとしたら、きっとこの道標は、元は道の反対側にあり、道路工事によってここに移動されたのでしょう。立てられて100年以上経った今では、珍しいことではありません。河津町の道標には、移動された例が顕著です。まあ、工事の際に捨てられなかっただけでもありがたいことです。あとで地図で確認してみましょう。

 一方、石柱の左側面には「申中村字二条五番 明治廿四年七月造立 心願主高橋忠三郎」、右側面に「諸縣修行巡拝之者志ヲ以一富為す致し候事」とあります。諸国を旅する修験者の安全と成功を祈って立てたのでしょう。道標にしてあるところに、建立主の願いの深さが表れていますね。なお、この道を少し奥に入りますと、「百番供養塔」と記された石柱と、お地蔵さま。さらに「秋葉山」と銘のある常夜灯が1つ立っていました。やはりきっとここから子浦につながる古道があるのでしょう。もちろんいつかたどってみますよ〜。
 
妻良にて
 吉祥から妻良へは、妻良トンネルを通ります。ここも昔は峠越えの道だったのでしょう。そうしたところには、石造物が残っている場合が少なくありません。今回も、トンネルの脇にそれらしいき石像があるのを見つけました。
 寄って見ますと、どうやら大日如来さまのようです。ポイントは、両手で智拳印を結んでいるところです。きっとこの辺りで農耕に供した牛馬の供養のために立てられたのでしょう。小さい像ながら造作が立派なので、きっと豊かな農家の人が立てたのだと思います。


   妻良トンネルの東入り口にある大日如来(右) 左の石仏は何でしょうか

 また、トンネルを抜けてしばらく行ったところにも、お地蔵さまがありました。バイクを止めて写真を撮っていると、通りかかった車から迷惑そうにクラクションを鳴らされました。確かにここは山道なので、私のような行為は危険なのでした。残念ながら銘が不鮮明で読めませんでした。
 
 妻良と子浦は、その昔、帆船の時代には風待ち港だったと言います。天候によって一ヶ月も船を出せないこともあり、船宿が30近くもあって、おおいに賑わったそうです。その船宿は、各国から江戸を目指してくる船ごとに指定されていて、「播磨屋」「半田屋」「広島屋」が妻良、「志摩屋」「常滑屋」「新宮屋」が子浦というように、各地の船の出港地名がつけられていたそうです。そうしたことから、ここには旅芸人から乞食までが集まり、疫病さえも持ち込まれたとのことです。治療のために、ここから下賀茂や蓮台寺に出かけて、湯治によって癒したそうです。


     港では、漁師さんたちがえび網の手入れをしていました

 妻良には三島神社などがあり、ゆっくり歩いてみたいところですが、今回は道の探索なので(バイクでですが)、それは次回に譲ることにして、子浦へと移動しました。

子浦にて
 妻良と半ば向き合うようにしてあるのが、子浦です。帆船は、西風が吹く時には子浦に入り、東南のそれが吹く時には、妻良に入って日和が良くなるのを待ったそうです。
 さて、子浦に入って少し歩きますと、いくつか石造物が目に留まりました。庚申塔や馬頭観音なのですが、それらが溶けたように風化しています。きっと石の材質がもろかったのでしょう。それが潮風で冒されてこのように…。港の奥にも小さなお地蔵さまがありましたが、墓石も一緒にあったので、きっと無縁さんでしょう。集落のお寺は、子授け寺と謳っていました。
 

    溶けたお地蔵さま(高さ70cmほど)


  どんな由来のあるお地蔵さまなのでしょう(高さ40cmほど)

 さて、私は滅多に外食はしないのですが、今日は「今津屋」に寄ってみました。ここは海鮮の食事屋で、かつて休日の昼は大勢の客で賑わったのです。でも一度、中トロ丼についてきたサザエの壺焼きがいかにも2,3日たったような臭いがしていたので、奢れる平家は……と思い、足が遠のいていました。
 でもあれから何年もたっているし、もう一度行って、酢飯の味も盗みたいと思ったのです。
 と、ここで、らいおんさんがHPに載せておられる風化した馬頭観音を発見。どこにあるかと思っていたら、こんな所にあったのですね。今津屋の店のすぐ前に、唯年念仏塔と並んでありました。


      何かちょっと気味悪いです(高さ35cmほど)

       夜は予約客のみだそうです
      てこねアジ丼 1260円

 今津屋では、手ごね中トロ丼は2100円になっていたので、断念。一番安い1260円の手こねアジ丼にしました。そうしたら、お品書きに「酢飯ではありません。」と書いてあります。がっかり。やっぱりちらし寿司風の酢飯がいいですね。今度は寿司酢を持参してこようかな。いえ、そんなことをしたら叱られちゃいますね。(んー、でもわかめのお吸い物は、本○しの味がするニャー。)

 さて、ここで例の積み石の情報収集を試みました。頃合いを見てお店の人に声をかけ、そういつ積み石をご存じか尋ねてみたのです。
 ところが、料理を運んできた奥さんも厨房で料理を作っているご主人も、そんなものは見たことがない、と仰います。もっとも、子浦の人はあまりその道を通らないので、上小野へ行って聞くのがよいでしょう、とのことでした。残念。

 でもこのご主人、私がバイクで出発の支度をしていると外に出てこられて、いろいろ質問に答えてくれました。海の神様の「弁天さま」がお寺の近くの日和山にあり、お地蔵さまがあること、バイクに乗る友人がいて下小野に行く道を通った時「道に苔が生えていて恐かった」と言っていたことなど…。「気をつけて」の言葉に送られて、119号を目指すことにしました。

いよいよ山道へ
 地図を見ますと、119号線に入るには、一度子浦の集落を出て、陸橋の手前を右折することになるようです。で、行ってみましたが、あれれ?分かれ道がありません。そのまま臨海学園を過ぎて峠の茶屋に出てしまいました。ああ、これは手作りのおまんじゅうがおいしいと新聞に出ていた店ですね。Uターンしながら寄ってみますと、確かにまんじゅうやようかんがおいしそうに並べられていましたが、小さい割に高価ですね。それでも500円の栗ようかんを買ってきました。おじさんが「食べてみなよ」と草餅をくれました。おいしかったですよ。ヨモギの香りがしました。もうすこし大きいとよいのですが…。(1個100円なんだもの…。)


  ご主人が和菓子職人という峠の茶屋

 茶屋の前から三浜小学校の前を通って集落に入れるので、急な坂をエンジンブレーキを利かせながら下っていきました。やけに路駐の車が多いと思ったら、小学校で運動会をやっていました。きっと村の運動会という感じなのでしょうね。

 探していた119号線への取り付きですが、郵便局の辺りを適当に奥に入ると駐在さんがあり、何となく良さそうなのでそのまま進みました。そうしたら、あ、これもらいおんさんのサイトでみた像です。ここが三浜中学校だった所ですね。

     県道119号線への入り口       「協力」という題の彫塑のようです

地蔵さまと馬頭観音
 その後無事県道119号線に入りました。陸橋のはるか下をくぐるのでした。すぐにお地蔵さまがあったので、合掌。銘がないので、由来は分かりません。
 Y字路があったので、右に進路を取り、上小野を目指しました。さて、berryさんのおっしゃる石積みは、どこにあるのでしょうか。「こんな道があったんだなあ。本当に路面に苔が生えてるぞ。」とこわごわ上っていきますと、路傍に石塔が見えました。止まって見ますと、馬頭観音の石柱です。「嘉永七年(安政元年=1854年 ぺりーが来て条約を結んだ年)馬頭観世音 願主□氏」と銘があります。

      きちんとお世話されていますね      嘉永七年の馬頭観世音(高さ40cmほど)

積み石発見!
 直道を上っていったのですが、なかなかその石積みはありません。古い石垣はありましたが、まさかそれではないでしょう。もしかして炭焼き釜の跡を見間違えられたのかも…。と一瞬思いましたが、急なカーブを左に曲がったところで、おややや? もしかしてこれ? たしかに道の壁をえぐって石を積み上げてあります。ううむ、これですか〜っ!


        やっと見つけました! これですね

 これは一体なんでしょう。登山をしていると時々見られるケルンのようですね。台座とも思われる自然石の上に作ってあるので、もしかしてここにあったお地蔵さまを里に下ろした後、その代わりに置いたのかもしれません。が、しかし、私自身、実はそうした例を今まで見たことはなかったのです。それともこの土地に伝わるなにかの儀式か、それとも風習なのか…。
(どんなものかなあ…)と思ってまた進みますと、あ、ここにもあります。やはりもしかしてお地蔵さまがあったのかも、と思われるような所に石が積んであります。


         ここにも…。賽の河原の積み石のようです

 さらに行く先のそこかしこに見られるようになりました。その数は十カ所以上でしょう。こうなると、もうお地蔵さまの身代わりではありませんね。路傍にこんな数のお地蔵さまがあったとは思えませんから。ただし、石を積むにしても、車で来て積んでいったとは思えないので、歩きながらこつこつと積んでいったのでしょう。くずれた石積みがないところを見ると、恒常的に積まれているのでしょうね。この道のことですが、切り通しの「のり面」を見るとかなり古くから通じていたようです。幅員が狭いので、対向車には気をつけなければ行けません。

 ここで、不思議な積み石について、見たことや考えたことをまとめてみましょう。

 ・積み石は明らかに人為的なものである。
 ・石を積んだのは、何か土地に伝わる因習を具体化するものか、あるいは記念や記憶を守るためのものようにも思える。
 ・でも畑仕事帰りの人が積んだような感じがしないでもない。(畑は道ばたには全くないが)
 ・子浦の人が知らないので、あまり有名ではないのかも…。

こんなところでしょうか。が、この後、上小野に下りたところで、話は急展開を見せるのです。それは…。

 峠の様子はと言うと、暗い杉林の左右を大きく切り開いた立派な切り通しでした。峠に付き物の石造物は見られませんでした。
 道なりに下っていくと、世を捨てたような民家が2軒と、農作業小屋、そして墓地がありました。まもなく平地に下りるというところで、薮の中に無縁さんが20基ほど集められていまた。江戸期の墓石のようです。写真撮影はやめました。興味本位で撮るものではないという気がしたのです。

 119号線は、上小野の集落に出ました。東海バスの終点「別当」があります。あたりは稲が収穫の時期を迎え、黄金色に頭を垂れている稲もあれば、すでに刈り取られてウマに掛けられているものもあります。いいですね、こういう風景。私が生まれ育ったところがこんな所だったので、大好きです。


          黄金色の田んぼです


  ここを通るのは2度目でした。前回は山芋を探しながら迷ってここへ出てきたのです

上小野で謎は解けた!
 さて、上小野でも土地の人に伺ってみないとなりません。
 ちょうど道に近い田んぼで稲を束ねていたご夫婦がおられたので、ご主人に声をかけ、話を伺いました。ご主人は仕事の手を休め、私の目を見て真剣に話してくださいました。お年は、私より少し若いかな、と思われるくらいの方です。
さて、積み石の謎、知りたいですか? ではその時の会話の再現をどうぞ。

「恐れ入ります。お仕事中申し訳ありません。子浦から山道を来る間に積み石がしてあったのですが、あれは何かこの辺に伝わる風習ですか?」

「積み石? そんな風習はないよ。それはほら、ウォーキングに来た人達が歩きながら積んだんだよ。この道を何回歩いたか数えるようにしてね。」

ガーン! そうだったのか…。今はやりのウォーキング。おばちゃんやおじさんたちが大勢で歩きながらか休みながらか、道ばたの石を拾って積みやすい所に置いたのでしょう。言われてみれば、ありそうなことです。

 あまりにもあっけなく謎が解けてしまったので、(ごめんなさいberryさん。期待外れでしたでしょう?)119号線について尋ねてみました。

 ご主人曰く、

「あの道はね、田中義一内閣時代の国会議員の小泉三申(こいずみさんしん)って、知ってる? (知りません…)子浦出身の人でね、上小野出身の県会議員、長田ショウゴ(字がわからん)と言う人とつながりが深かったので、その2つの道をつなげる県道をつくったんだよ。いわば政治道だな。(中略)役場の隣りに南伊豆郷土館があるから、行ってみると書籍があるよ。」

 ご主人はかなりの博学で、県道ができた訳を短い時間で的確に教えてくださいました。やはり土地の方に話を聞くことを惜しんではいけませんね。南伊豆の郷土資料館には、一度行ったことがあります。では新たなヒントが得られたところで、その郷土館に行ってみましょう。土曜日だけど、開いているでしょうか。

南伊豆町郷土資料館を訪ねる
 コスモスの花の揺れる田舎道を10分ほど走り、下賀茂の中心地に入ります。役場は休みなので、駐車場はがらがらです。郷土館もひっそりとしています。入り口が開いているので、町外からの来客に配慮して開館しているのでしょう。
 内部には、展示品と資料の棚があります。そっと入っていくと、奥の事務室からお姉さんが出てきました。
 119号線の積み石から話し始め、ここに来ることを勧められたと告げますと、小泉三申に関する新聞記事をはじめ、いろいろな資料を見せてくれました。
 中でも、南伊豆町の郷土研究誌である『南史』には、町の歴史の他、古道やサイの神、庚申塔などに関する実際的な記述があり、非常に関心を持ちました。思わず1時間半も読みふけってしまったほどです。

 根岸さんからいただいた「蓮台寺から加納への道は?」の質問に関しても、「大賀茂の柳沢から山を越えて青市の惣町を通り、上賀茂の落合に出る」ルートがはっきり示されています。この古道につきましては、後日探索してみたいと思います。


      小さいけど必見の南伊豆郷土館です

おわりに
 さて、今回の探索は、1つの疑問を書き込んでいただいた事から端を発して、思わぬ方へと話が進みました。私自身、これほど南伊豆町に関心を持つことになろうとは思いませんでした。これから幾度か資料館には足を運び、下田に通じる古道を調べてみたいと思います。 「これだから古道探索はやめられない」とはいつも使ってしまうまとめの言葉ですが、「これだから皆さん、カキコしてね。」とお願いしたいです。できたら一緒に歩きたいですね。どうもありがとうございます。
                                             
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