葉

小杉原マンガン鉱山を訪ねる
探訪 2006年12月27日   
 
記憶
 貴兄は、中学校の理科室の隣にある理科準備室の薬品庫に、瓶に入った黒い粉末があったのを覚えているだろうか。その名はマンガン。元素記号Mn。私は特に実験に用いた覚えはないが、家で乾電池を分解したら出てきた覚えがある。

そのマンガンを掘っていた鉱山が、松崎町小杉原にあるという。

アプローチ
 2001年5月。当時、古道探索を始めたばかりの私は、小杉原から加増野を目指そうと思い、婆娑羅の山に踏み込んだ。このルートは、国土地理院2万5千分の一の地形図に点線でしっかり記載されている。
 しかし実際に足を踏み入れてみると、沢がいくつも分岐しており、分かりにくい。ようやく尾根筋に達したものの、そこから加増野側に下りるルートが分からず、その時は志半ばにして引き返した。敗退したのである。

 しかしその道中、偶然に穴を3つ見つけた。
 その頃は婆娑羅の姥捨て伝説が強く心にあったので、とても中を覗く気にはなれず、写真は撮ったものの、足早にその前を通り過ぎていた。実はその穴を、てっきりお年寄りを捨てた穴だと思っていたからだ。

 しかし後にそれらの穴は、鉱山の坑道であることが分かった。そこで改めてかの地を訪ねてみようと思ったのだ。

地主さんに聞く
 ここに来るに先立って、小杉原にマンガン鉱山があったことを磯崎氏の文献調査によって聞いていたので、小杉原の知人を訪ね、ご母堂に鉱山について話を聞いた。

 話をすると、ご母堂はすぐには思い出せなかったようだが、私が婆娑羅の下で穴を見たことを話すと、思い出してくれた。何と伺った知人はその一帯の地主さんであり、戦後、ある男性が鉱山を開くために土地を利用する承諾を得に来たというのだ。

 「鉱山? ああ、そういえばあったね。うちの山を貸したですよ。そう、戦後ですよ。銅を掘っていたですよ。初め、男の人が石を持ってきて、こんなのが出るから掘らせてくれ、って言ってね。何だかよそから持ってきたような感じの石でしたよ。ちょっと怪しいような感じでね、あんまりいい人じゃなかったように思えたね。ええ、10年ぐらい掘っていたかねえ。」

「そしたら、今度は沈殿池を作りたいから、田んぼを貸してくれって、言われましてね。こちらは乗り気じゃなかったけど、どうしてもと言って、強引に借りてたね。そら、小杉原の外れに、土砂やコンクリを置いてある所があるでしょ。あれは元は三町歩ぐらいある田んぼでね。その中にコンクリの沈殿池をつくっちゃったですよ。でも水害で田んぼが流されて。その後、仁科の西伊豆興業という会社が土をどけて均してくれたもんで、そのまま貸してあるですよ。だからあの土をどかせば、下から沈殿池が出てきますよ。」

木橋を渡って
 取り付きは県道下田−松崎線の婆娑羅トンネル西の大カーブだ。ここに車を停め、南に入る。辺りは暗い檜林であるが、踏み跡はしっかりしている。時々沢を木橋で渡り、道なりに進む。


     杉林の中を入っていく

記憶を辿って
 通り過ぎる沢の数が多くなり、左に行くか右に行くか、徐々にルートの選択が難しくなる。確か5年前に来た時は左に入る踏み跡を辿り、道がなくなるのを確認した上で右へ右へと進んだ覚えがある。それにしても前回と比べて、今回はずいぶん山の奥に踏み分ける感じがする。こんなに歩くものだっただろうか…。


     炭焼き窯の跡がいくつもある

 道はこんな様子で私を奥へといざなっている。昨日の大雨のためか、水量は豊かだ。



 道は、木橋によって沢を右に左に渡って奥に延びている。



四ツ沢神社
 間もなく、右手の大岩の上に祠があるのに気づいた。5年前に来た時はまったく気づかなかったのに…。



 銘を読むと、「四ツ沢神社 大正十二年二月十七日 仁科ハマ □主 須田浦吉」とある。確かにここは西伊豆と下田北部を結ぶ古道であるが、なぜ仁科の人がこのような場所に祠を建てたのだろうか。


           四ツ沢神社 台座からの高さは80cmほど

 しばらく歩くと左手に木橋が架けてあり、向こう岸に炭焼きの作業小屋があるのが目に入る。



 私の体重によってたわむ木橋を渡り、道なりに歩いてみた。しかし道は尾根を上るようになることから、おそらくは林業従事者のための作業道であろうと見当をつけ、引き返してきた。5年前にも踏み入った記憶がある。

坑口発見!
 道は左右に分岐しているところが多い。それから2度ほど左に入る道を辿り、倒木やら地滑りやらで行けなくなっていることを確認し、右へ右へと進路をとった。と、赤く染まった川床が見える。山師はこれを見て鉱脈を探したのではなかろうか。単に推測に過ぎないが…。


    何らかの金属成分を含んだ土地なのでこうした色が着くのだろう

 間もなく、左手に黒い口を開けた坑口が見つかった。ようやく見つけた、という印象だ。

 さて、深さはどれくらいあっただろうか。記憶にないので、SF501をザックから取り出し、照らしてみた。





どうも試掘の跡のようだ。奥行きは極浅い。フラッシュの色温度が低いせいだろうか、赤っぽく写っている。



 続いて、その向かい側に、2つ目の坑口を発見した。こちらも試掘跡のようだ。入り口から斜めに掘られているが、奥行きは3mほどと、ごく浅い。やはり水が湧いて溜まっている。こちらは記憶に全くないので、5年前には気づかなかったのだろう。


       埋もれるようにしてある2つ目の坑口


           内部はやはり浅い
そして次々と…。しかし実体は?
 そこから50mほど歩いて、3つ目の坑口を見つけた。こちらも試掘跡であろう。フラッシュに照らされた岩肌は赤っぽく写り、まるで巨大は忠類の喉を覗いているかのようだ。


            こうした沢を登っていく 道はちゃんとある
  

          半ば朽ちた木橋を渡っていく


          3つ目の坑口発見!



 それにしても、変だ。伺った話では、10年ほどここを掘っていたという。10年にしては試掘跡ばかりで、鉱山の実体が見えてこない。10年間の採掘に堪えていた坑道は、どこにあるのだろう。

 3つの試掘跡からしばらく歩く。足元の沢は細くなり、代わりに空がだんだん下がってくる。稜線が近いのだ。こんな上の方にまだ坑口があっただろうか。記憶にある坑口はまだ現れいない。沢筋が違っているのだろうか…。しかし沢の分岐などにこうした露頭が見える。探せばまだ坑口はあるのだろうか。


         沢筋を分けるようにしてこうした露頭が見える

 間もなく沢は枯れ沢となり、周囲が開けてきた。と、左手に坑口を発見。2つ目に見つけた坑口同様、入り口からいきなり曲がっている。



 今度は奥が深そうだ。半身を突っ込んで中を覗き込むと、「ピチャン、ポトン…。」という水滴が水面に落ちる音が響いている。これは本物かも!

 しかし今回、私は大失敗をやらかしていた。長靴を忘れてきていたのだ。家で長靴を車に乗せようとしてバイクに積んだまではよかったのだが(私の86号の駐車場は自宅から離れているので、自宅からバイクで移動している)、バイクから86号に載せ替えずに来てしまったのだ。だから今日はしかたなくドライビングシューズで歩いて来ている。これがフラットなゴム底なので、歩きにくいの何の…。大事な品を忘れるなんて、加齢によるボケが始まっているのか、私…。

 自分の愚かさを後悔しながらもSF501の青白い光で奥を照らすと、坑道は5mほど進むと右に曲がっているようだ。その先はどうなっているのだろうか。


            SF501は青白い光で内部を照らす

カマドウマとお友達
 ここで靴を脱いで裸足になり、歩いていけばよかったものの、お楽しみは後で、というか何というか、坑道の天井部分に無数のお友達(カマドウマともいう)がいるので…あわわ、と慌て、靴で行ける範囲で進入は中断した。するとそんな私の心を見透かしたようにポトッと私の頬に何かが落ちてきた。カマドウマだあ〜っ!
 


 見よ! このカマドウマの大群を! しかし彼らは劣悪な食糧事情のためか、どれもみな小さく、市井で見るような大きな同族のように育ってはいなかった。


          黒い点々はすべてカマドウマである
 
 軟弱な私は改めてこの地を訪れることを心に誓い、次の坑道を探した。すると、この4つ目の坑口、いや坑道と向かい合うようにして、5つ目の坑口があった。こちらも記憶にある。やはり入り口からすぐに曲がって掘り進んでいるのは、鉱脈が沢に対して斜めになっているからだろう。3つ目と4つ目の坑道と鉱脈が同じベクトルを示している。



 こちらも深いかと思われたが、4mほど左に進んで行き止まりである。

 天井部分には、カマドウマ、じゃない、黒い筋がくっきりと見える。これがマンガンの鉱脈だろうか。(もちろんここにもカマドウマは棲息していた)


         中央に見える黒い筋は、マンガンの鉱脈であろうか

 結局、坑道と呼べるのは4つ目に見たそれのみだった。それとも、他の沢筋に坑道が存在しているのだろうか。実は、この後、山を下りながら違う沢筋にも入ってみたのだが、それらしき坑口は見られなかった。これ以上の探索は、鉱山関係者に尋ねないとできないのではないだろうか。あるいはハンターに聞くとか…。

 とうとう鉱山の実体が見えてこないうちに、車を置いた場所に戻った。

沈殿池跡は
 この日はもう一つの鉱山跡を訪ねることにしてあったので、その途中で、沈殿池があったという場所に寄ってみた。既にここに田んぼがあったという面影はなく、殺伐とした廃コンクリート置き場になっていた。




       ここに当時は田んぼと沈殿池があったという

伊豆の休廃止鉱山リスト
 ここで、磯崎氏のまとめた資料を転記してみる。こんなにも鉱山があったのかと驚く。それぞれ採算がとれていたから稼働していたのだろうが、スローライフの時代だからこそ可能だったのかもしれない。

片瀬硅石  Si
佐賀野(佐ヶ野?)Au,Ag,Cu,Zn
湯ヶ野   Au,Ag,Cu,Fe,(Pb),(Zn)
沼ノ川   Au,Ag
大松    Au,Ag
吉孝    Au,Ag
縄地    Au,Ag 満金    Au,Ag
加増野   Au,Ag,Cu,Pb,Zn
加増野東部 Au,Ag,(Pb)
加増野北西部Au,Ag
加増野南部 Au,Ag,(Pb)
蓮台寺   Au,Ag,Cu,Mn,(Pb),(Zn)
白浜    Mn,(Au),(Ag)
万蔵山   K
須崎    Fe,Au,Ag,(Cu)
三倉山   K
大道    Au,Ag,Cu,Pb,Zn
小松野   Au,Ag,Zn,(Cu),(Pb)
日光    Au,Ag,Pb,Zn
一条    C
三坂    Mn
賀茂    Mn
伊豆    Mn
妻良    Mn
毛倉野   (Au),Ag,(Cu),(Zn)
奥山    (Au),Ag,Cu
奥山北西部 (Au),Ag,(Cu)
青野    (Au),Ag,Cu
光明    Au,Ag
小杉原   Mn
池代    Mn
輪(三ノ輪?)  Mn
南郷    Mn
寺川    Fe,Ag,(Cu)
野畑    (Mn),Au,Ag
祢宜畑   Au,Ag
宮ヶ原   Au,Ag
天城    Au,Ag
板ヶ沢   Au,Ag
昌平    Au,Ag
大久須東部 Au,Ag
大久須南部 Au,Ag
黄金崎   Au,Ag,Zn,Fe
仁科明ばん石Al
深田明ばん石Al
伊豆珪石  Si,Al
土肥    Au,Ag
清越    Au,Ag
持越    Au,Ag
加瀬    Au,Ag
豆州    Au,Ag
浄蓮    Au,Ag
湯ヶ島   Au,Ag,Pb,Zn,Mn
船原明ばん石Al
尾崎    Au,Ag,Fe
大平    Au,Ag,Cu,Zn
大仁    Au,Ag,Cu,Pb,Zn



たぶんこんな配置だと思ったけど…。GPS導入は必要ですね。
                                             
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