葉

小鍋峠

開国の歴史を見つめた天城峠以南の難所
  第1回探訪1998年1月
  第2回探訪2000年12月

小鍋峠地図

  この道は、下田市と河津町を結ぶ古道で、峠の標高は290メートル。三島から下田に至る下田街道の一部です。江戸時代には、天城峠に次ぐ難所と言われたそうです。その時代には、かのハリスも松平定信も谷文兆もこの道を通りました。今は誰も通る人がなくひっそりとしている峠道ですが、旅人でにぎわった昔に思いをはせながら木々のざわめきを聞くのもよいでしょう。では、道筋に沿って案内いたします。

 バスで行く場合は、「北の沢」で下車してください。その北側に、三叉路があります。分岐に伊豆横道12番札所法雲寺の石碑が建っています。
北の沢三叉路
         北の沢の三叉路

  そこを左に入り、道なりに進みます。まもなく右手の民家の庭先に、大きな楠があります。これは、その昔、旅人が足を休めた大楠の孫と言うことです。元の楠は、もう枯れてしまって、ないそうです。
孫の大楠
       孫の大楠

  またしばらく行きますと、道が2本に分かれます。真っ直ぐ行けば八木山の集落、右下に下れば国道と合流して河津に至ります。分岐に2つの道標があります。手前のはお地蔵様で、資料に寄りますと、光背に「□証菩提 右 十三はん堂山 左 ミしま 道」と刻まれているそうです。(堂山というのは、この先にある普門院のことです)その向こうの道標は、安政2年(1885年)に、沼津の商人、増田七兵衛がたてたもので、「右下川津東浦 左三しま 道」と刻まれています。ちなみにこの増田七兵衛さんは、河津町小鍋にも、同じような道標をたてています。どうやら、商売がうまくいったことに感謝してたてたようです。
北の沢の道標
        北の沢の2つの道標(夏)

 さて、道を真っ直ぐ進んでいきましょう。いったん民家は途切れ、でこぼこのコンクリート道を進んでいきます。やがて左手に小屋が見えます。中には、万延元年(1860年)にたてられた供養塔と、安政3年(1856年)のお地蔵様、明治2年の巡拝供養塔が納められています。

北の沢廻国塔
         廻国塔(夏)

  さらに進みますと、左手の路傍に石祠があります。八木山の賽の神だそうで、古くなったお雛様をお供えする風習があるそうです。前年に行ったときには確かに古いお雛様が置いてありましたが、今回は、何やら割れた仏面が置いてありました。

賽の神2
       北の沢のサイの神

  ところで「塞の神」というのは「塞ぐ神」と同義で、集落の入り口にあり、「ここから村に災いが入らないように」と願ってたてられたそうです。村の境で文字通り災いが入り込むのを「塞ぐ」のです。村人達はそこを通るたびに手を合わせたことでしょうね。
 ここまで来ますと、行く手右に八木山の集落が開けます。山間の小さな集落で、ぽつりぽつりと家が建ち、人々がひっそりと暮らしています。

八木山の景色
  八木山の風景 古道は右の沢伝いにあったそうです

 道に沿って民家が点在していますが、最後の家を過ぎるとやがて牛舎が右手にあります。その左手に林道が延びていますが、実際に車で来られるのはここまでです。ここから先は、夏は草が生い茂り、徒歩でも入り込むのは難しいでしょう。
小鍋峠への道
      小鍋峠入り口

 冬でしたら、林道に入ってください。夏草は枯れて、道が分かるでしょう。

峠への林道
        林道の様子 

 ほぼ真っ直ぐ延びた林道を数分進むと、車の回し場のように広くなった所があります。さらに奥に進むと、林道が大きく右に曲がるところがあります。よく見ると、その手前に、左の斜面を登る道がつけてあります。分からなければ、そのもっと奥の林道の右カーブから左に分かれてもよいです。いずれにせよ、ここがいよいよ峠道への入り口となります。(慣れた人が一緒でないと、入り口は分かりづらいかもしれません。迷いやすいところです。)2000年12月現在では、「立ち入りご遠慮ください」と書かれた黄色い柵が立てられています。それを目印にして、その左手前から山に入ります。その入り口が分からない場合はそのまま真っ直ぐ進み、「山火防止」と書いてある白い杭の所を左に入ってください。すぐに道はつながります。

林道からの分岐点
白い杭(「山火防止」と書いてあります)を左に入ります

 道は、斜面を左に見ながら、沢に沿って登ります。しばらく行くと、正面に山肌が現れ、突き当たるような形になります。そこを大きく右に曲がるのです。この時はちょうど杉の倒木が行く手を示すように右に倒れていました。ここは道がほとんど消えているので、気をつけてください。右の沢に入るのですよ。

 道筋が分かったら、それからまたしばらく登ってください。徐々に沢の水量が少なくなり、上りが急にきつくなるところがあります。ここはほとんど川の源流だと思われます。そこで沢を渡って再び右に折れるのです。


     道はこんな状況です

  辺りは杉林で、道は再びはっきりしてきます。山の斜面を左に見て3分ほど登ると、前方が明るくなってきます。峠はもうすぐです。
 さあ、前方に枯れた大木が見えたら、そこが峠です。お疲れさまでした。道を知っていれば、八木山のはずれの林道を登り始めてからここまでで、20分もあれば着くでしょう。案外近いものです。
  峠と言っても、展望はよくありません。薄暗く、ひっそりとしています。道は、尾根を斜めに横切る形でついています。渡る風が木の葉を揺らし、寂しさを増します。

小鍋峠
  ここが小鍋峠です あたりはひっそりとしていま

 ここにはいくつかの石造物がありますので、紹介しましょう。
 まず峠に着くと、左に2つの歌碑があります。手前のは、2年前に下田市中央公民館講座『このまちのかたち』の事前調査の折り、教育委員会の方が発見して掘り出したものです。建立された時期などは分かっていないそうです。何と書いてあるかは…、分かりません。
 
発掘された歌碑
 峠に残る歌碑 まだ半分地中に埋まっています

その右側に、もう一つの歌碑があります。やはり何と書いてあるかは、私には分かりません。

歌碑その1
 もう一つの歌碑 上半分が欠落しているようです

 一方、右手には枯れた松の大木の根がのこり、傍らに2体のお地蔵様があります。しかし周囲の様子がかなり荒れていますので、安置してあると言うより、斜面に立てかけてある感じです。蓮華座なども崩れて落ちているようです。
 向かって右側のお地蔵様には、宝永7年(1710年)にて立てられたと刻んであります。実に290年前になります。かわいそうに、頭がありません。

 もう一つのお地蔵様には、何も刻んでありません。資料によっても、建立年は分からないそうです。こちらも一度切り離れた頭を首にのせてあるようです。何とも淋しいお姿です。(また、ほかにもお地蔵様があったという見方もありますが、素人の目には何も分からず、残念に思います。)
   
峠のお地蔵様の様子
  中央に2つのお地蔵様が並んでいるのが分かりますか

  また、その左手上には、安政6年(1859年)に八木山の人が建てた題目塔があります。 

峠の題目塔
   髭文字で「南無妙・・・」と書かれています

 お地蔵様にそっと手を合わせ、小鍋側に下ることにしましょう。

 峠からは、山の斜面を右に見るようにして、緩やかな下り道を歩きます。初めは道も残り、歩きやすくはあります。が、徐々に道は細くなり、とうとう途中で途切れてしまいます。どうやら雨で斜面が崩れたようです。

道が消えました
ひえーっ、ほとんど道がありません上に迂回もできません
でも、そのまま行けるんですよ

 次に、熊笹の茂った所を通ります。笹をかき分けて進みますと、その後、急に道が落ちてなくなっています。さあ、どうしましょう。ここは、右の杉林へ逃れて迂回してください。30メートルほど歩いてまた左に戻れば、道に合流します。


    道が落ち込んで消えています

 この辺りは道はほぼ真っ直ぐ進んでいますので、崖の淵を見失わないように進めば、何とか行けます。あせって右の杉林に深く入らないことが大切のように思います。

 やがて再び道ははっきりしてきます。十数分下りますと、右から来る道と合流します。その辻に道標があります。その道の先には、河津逆川の普門院というお寺(現在は無人)があるそうです。普門院は鎌倉公方足利持氏の開基で、末寺四十九カ寺を有していた名刹だったそうです。道標には、「従是下田道」「従是普門院道」などと刻んであります。日があまり当たらないところのせいか、保存は良好です。

普門院への道標2

 余談ですが、実は、国道414号線の逆川にも普門院への入り口を示す石碑があります。昔は巡礼の旅が盛んだったので、こうした碑が建てられたのでしょう。

伊豆横道十三番観音普門院
 国道414号線から見た、普門院への入り口を示す石碑です
「伊豆横道十三番観音普門院」と刻んであります

 さらに下りますと、分かれ道に行き当たります。そこは右に下るのですが、待っていたかのようにお地蔵様がおられます。

坂の途中のお地蔵様全景
  頭の代わりに丸い自然石をのせてあります

 このお地蔵様は、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。でも頭が無く、代わりに丸い石を乗せてあります。蓮華座には、「文政十年 堂山二十九世 奉造立 」「世話人 小鍋村神田 仁左衛門 石工 豊松」などと刻んであります。堂山というのはこの奥の普門院のことですから、そこの29代の住職さんが中心になって立てたということでしょうか。

 ところで、古道を探索していますと、頭のないお地蔵様や顔の削られたお地蔵様を見ることがあります。どうしてそんなひどいことになっているのでしょうか。これは、一説によりますと、博打うちの人の間で「お地蔵様の頭をお守りにするとツキが開ける」という言い伝えがあるそうで、それを信じてあちこちのお地蔵様の頭をもいでいったためだそうです。そういえば何年か前に、芝川町でしたか、富士山を背景にいい景色で立つ六地蔵様の頭が軒並み切り取られ、大きな騒ぎになったことがありました。地元の人々に大切にされていたのはもちろん、遠方からも季節ごとに写真を撮りに来る熱心なファンもいたとか…。今でもそんな迷信がギャンブラーの間にあるのでしょうか。ひどい話です。

 さて、先に進みましょう。お地蔵様のところで右に折れますので、斜面を右に巻くようにして行きます。すると間もなく突き当たりにわさび沢が現れます。ここまで来れば、小鍋の集落はもうすぐです。この辺りには人が入った跡があり、道ははっきりしています。道はつづれ折りの道になり、坂もきつくなります。木の梢が所々道にはみ出していますので、顔を払われないように気を付けてください。

いよいよ小鍋地区に
     まもなく小鍋の集落に出ます

 道幅が広くなりますと一気に眺望が開け、小鍋の家並みが目に入ります。お疲れさまでした。あとは民家の間の急な坂を下れば、町道に突き当たります。

 ここで、さらに右に下れば、国民宿舎や河津西小学校の前を通り、国道に出ます。バスも通っていますので、帰りには困らないでしょう。
 ところで、この町道は、下田街道がそのまま道になっています。道なりに左に進みますと、すぐに道は右に橋を渡って行くことになりますが、その橋の手前の左の斜面に、お地蔵様を兼ねた道標が2つあります。元々は二つが道を挟んで向かい合う形で置かれていたようですが、道を拡張したときに動かされたらしく、今では並んで土手にはめ込まれる形で残されています。たぶん夏は草に覆われて、見つからないでしょう。

道標jのあるところ
    みを入れる箱の左に道標銘があります

並んだ二つの道標
      土手にはめこまれた2尊のお地蔵様=道標銘です

 光背に刻まれている文字は判読しがたいのですが、向かって右の道標には「河津ミち 三志満ミち」と刻まれ、左の道標には「○志まミち 下田ミち」と刻まれているそうです。

 ここから先、天城につながる旧街道には、馬頭観音や道祖神が数多く残っています。それらの紹介は別の機会に譲りますが、今は顧みられることも少くなったそれらの石造物を見ますと、進んだ社会の中でひっそりと時の流れを刻む歴史の証として、大切にしていかなければならないと思います。
 
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