葉

小鍋峠
天城峠以南で最大の難所
探訪2002年10月15日
 
 小鍋峠は、海抜290m(二本杉峠のそれは830m)。昔も今も、天城峠以南で最大の難所です。今も難所というのは標高が高いこともありますが、現在ほとんど顧みられていないので道が荒れているからです。せいぜい狩人しか通らないのではないでしょうか…。では、ご案内します。迷いやすい所がありますので、しっかり私についてきてくださいね。

 慈眼院から下って小鍋神社に寄り、小鍋川を渡ったところに、道標地蔵が二つ、石垣にはめ込まれています。そこが小鍋峠への入り口となります。


     右に上がる道が小鍋峠への道です

 この坂に入りますと、民家の間を行く上りになります。この日はたまたま農作業に行くご主人に出会いましたので、ちょっと話を聞いてみました。
「峠を越えて行く? 行ったことあるの? ほう…。 ああ、昔は炭焼きでも旅人でも、みんなここを通っただろうよ。何たって下田街道の主要幹線だったんらからね。」「昔の話を聞きたいと行っても、この辺りはそう大年寄りはいないので、難しいだろうね…。」とのことでした。

 道標地蔵様から歩いて5分ほど道を真っ直ぐ上り、車道が左に折れるところに、そのまま直進して山に入る細い道があります。そこからいよいよ小鍋峠への古道が始まります。

 ここはなかなか急な坂で、辺りは昼なお暗い鬱蒼としたひのき林。沢に沿って上る道は、傍らに大岩やわさび田の跡があり、つづら折りに上ってきます。


       山に入ってすぐの古道

 左にそのわさび田の跡を見つつ、2度、木橋で沢を渡ります。ぽつんと立っている小屋に突き当たりますと、道は急角度に右に曲がります。さらに上りますと、突然お地蔵様が立っています。ちょっとびっくりします。


         突然現れるお地蔵様

 お地蔵様の頭部はなく、頭に似た形をした自然石がのっています。台座に「文政十年(1827年) 堂山二十九世」の刻銘があります。この先にある普門院の29代目のお坊さんが立てたようです。普門院は今でこそ廃寺となっていますが、かつては末寺四十九ヵ寺を持つ曹洞宗の名刹だったそうです。お地蔵様の向こうに、右の下る道がありますが、里に下りる道なのでしょうね。

 この辺り、街道は辺りより一段低く掘り下げたようになって上ります。辺りはやはり暗く、淋しいところです。しばらく行きますと、三叉路があり、中央に道標が立っています。これは、逆川の奥にある普門院に通じる道を示す道標です。立てられたのは元文二年(1737年)で「従是下田道」「従是普門院道」と記されています。かつては逆川の国道はなかったのですから、こちらが普門院へいくメインストリートだったのでしょうね。もちろん下田街道もここがメインst.だった訳ですが…。


     「左 普門院 右 下田道」の道標

 さて、この道標を過ぎたところから道はなだらかになります。ほとんど平らと言ってもよいです。この辺り、右は急に落ち込んだ崖で、左はなだらかな丘となっています。すなわち段丘の縁を進むような形です。しばらく行きますと、道が急になくなっています。そう、道は崩落して失われているのです。幅はほんの数mですので、ここは左に迂回して先に進みます。

 が、この時の探訪では、なるべく道に沿って迂回しようとしたため、かえって崩落地点を斜めに下ってしまい、迷ってしまいました。これには参りました。辺りは眺望がききませんので、一体自分がどこにいるのかを知る基準がないのです。おまけに獣道や人の踏み跡のような軌跡が無数にあるので、同じ所をぐるぐると回ってしまったのです。結局このときは上に上にと登り、元の道に戻ることができました。それにしてもこわい体験でした。ここは、やや大回りに迂回するのがよいようです。でも十分気をつけてくださいね。(これでは道案内人になりませんね。失礼しました。)
 
 この一つ目の崩落箇所を過ぎますと、次に出会う石造物は墓石です。高さ40cmほどの小さな石柱です。銘を読みますと、須原の人が普門院のお坊さんの徳を偲ぶために立てたような意味が読めます。実は私が山で迷ったこの時、やっと道に出たと思ったら目の前にこの墓石があったのです。導いてくれたのでしょうか…。

 この後、もう一度同じような崩壊した地点があります。気をつけて山側を迂回します。次は間もなく地滑り地帯があります。ここは、山の斜面がそのまま流れており、道も消えています。しかしおおよその道筋は分かりますので、杉の幹をたどりながら進みます。靴底のエッジを効かせながら、慎重に行ってください。こうなりますと、スニーカーより軽登山靴の方が適しています。この峠を訪れる際は、ぜひ登山靴でおいでください。


         第3の崩落地点

 無事に3カ所の崩落地点を過ぎれば、後は難なく峠まで行き着くことができるでしょう。道は周囲より一段低くなっていますし踏み跡もはっきり分かります。それに上り坂もほとんどありませんので…。ところでこの日は珍しく遭遇者がありました。峠の手前で、3人のハンターが下ってきたのです。そのうちの一人が、「峠に行くの? もうすぐだよ。峠を下るとすぐに下に下りられるよ。こっち(小鍋方面)の方が長いよ。」と教えてくれました。ハンターなら山歩きはお手の物。この峠のあたりの道なき道は歩き尽くしているのでしょう。そして徐々に峠に近づきますと、「ホー、ホー、来い来い、来ーい!」と盛んに誰かを呼ぶ指笛と人の声がします。どうも今会ったハンターを呼ぶ声ではないようです。果たして峠に行きますと、2人の別のハンターが3匹の犬と共にいて、北の方に向かって盛んに呼んでいます。どうやら放った猟犬が戻ってこないらしく、「奥の方まで行ったのかなあ…。」とつぶやいています。3匹の犬は猟犬のわりに大変人なつこく、盛んに私の足下にまとわりつくのですが、飼い主にたしなめられ、すごすごとお座りをしていました。かわいいのになあー。


                       峠の切り通し

 さて、前回訪れた時には2体のお地蔵様が斜面から滑り落ちて無惨なお姿をしていたのですが、この日は、ちゃんと立ててありました。そういえば、ここまでの道のりに倒木がほとんどありませんでした。たぶん地元の人の手によって整備されたことがあったようです。
 お地蔵様は伊豆南部の路傍のお地蔵様の中ではもっとも古い部類に入る「宝永七年(1710年)」の銘があります。もっとも、この日峠を下りたところのおばあさんに聞いた話によりますと、この地蔵様の隣には、旅人や地元の人が上げた小さなお地蔵様がいくつもずらりと並んでいたそうです。私が「そんなお地蔵様はなかったです。」と話しますと、「もう土に埋もれてしまったのかねえ…。」と遠い目をされていました。またすぐそばには、かつて“峠の一本松”と呼ばれた松の大木が倒れ朽ちています。行く人もの旅人を見守ってきた松の木でしょうに、時代の流れを感じずにはおられません。


    立てられていた2体のお地蔵様

 かなり河津と下田の集落から離れたこの峠では、昭和の30年代には乞食が3人ほどいたそうで、かつて通勤でこの道を歩いた私の友人の御尊父が、「こわかったものだったねえ…。」と語ってくれたことがありました。峠の追いはぎほど恐ろしくはなかったでしょうが、たしかに気持ちのいいものではなかったでしょう。とはいうものの、「乞食」なんて言葉はもう死語ですね。(まさか差別用語ではないでしょうね。) ちなみに私の母は「おこんじきさん」と呼んでいました。昔は、おこんじきさんが各家庭を回って物乞いをしていた時代があったのです。

 峠にある他の石造物としては、小高いところにある安政六年(1859年)の題目塔と、半分土に埋もれた歌碑が2つあります。このうちの一つは、3年前の下田市中央公民館講座『このまちのかたち』の古道散策ツアーの下見でたまたま見つかり、掘り出されたそうです。何と書いてあるかが読めないのがつらいところです。

         題目塔                     歌碑その1             歌碑その2

 土に埋もれた歌碑に昔のこの峠の栄華を偲びつつ、下田側に下ることにしましょう。下り道は、小石で足下をすくわれそうな、やや急な坂道です。峠から斜めに真っ直ぐ下り、沢に突き当たったところで左(南東)に折れます。右手に山の斜面を見ながら、人一人がやっと歩けるような細い道を下っていきます。やがて竹の茂るやや広い所に出ます。右手からは、別の沢が合流しています。道なりに行きますと右に進みたくなりますが、ここは左側の低い方に進みます。竹や檜に囲まれた道は昼なお暗く、淋しいところとなっています。左手には沢が流れており、そちらを行くのもよいのですが、踏み跡がはっきり見て取れる間は道を進んでください。その方が、古道の息吹が感じられます。かなり下に下るまで、峠で犬を呼ぶ猟師の声が聞こえていました。


                  下り道の様子

 やがて道が周囲より一段低くなったと思うと、前方に林道が見え、そちらに合流します。林道はかつてこの辺りの山の手入れのために使われた道で、河津浜の元名主の名字から、「黒田林道」と呼ばれているそうです。左手の沢伝いに下った場合は、「関係者以外立ち入りご遠慮ください」と書かれた黄色い車止めがあるはずです。いずれにしても、ここは下へ下へと下ればもう迷うことはありません。この辺りは腰の高さほどもある雑草が茂っており、もはや自動車は入れないと思われます。夏は、鎌を持って入らないと歩くことはできません。

 さて林道は、左に杉林と山田の跡を見下ろしながら、なだらかに下っていきます。夏草の名残も徐々に少なくなっていきます。先ほど下ってきた道の傾斜角から推測しますと、古道はもっと低く、この下の沢伝いに下っていったのではないかと思いますが、どのようなものでしょう。

 やがて道ばたに“昭和49年頃のスバルレオーネ1400GSR”が見えますと、そこはもう下田市・須原の八木山の集落の北端です。牛糞の臭いが漂い、前方が明るくなったところに、牛舎があります。お疲れさまでした。まさか山中で私のように迷いませんでしたよね。ここから下田街道は、沢の右岸を行く車道とは反対側の左岸を進んでいたそうです。そちらの探索はまた次の機会に行います。なお、別ページの「稲梓の古道」では、下田側から登った記録を掲載しておりますので、そちらもご参照いただけると幸いです。


               もうすぐ出口です
                                             
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