葉

小松野道(横川〜大沢)
南伊豆から天城に抜ける人々が歩いたという南北の交易路
探訪 2001年5月4日   

 
 ゴールデンウイーク後半の5月4日、家族で出かけるにしてもどうせ道路は混んでいるでしょうからと、一人で古道探索に出かけることにしました。そろそろ道には草が茂り始め、虫や蛇が出てくる頃です。この黄金週間が探索の最後のチャンスかもしれません。(次のチャンスは、晩秋になりませんと…。)

 さて今回は、南伊豆と天城・西伊豆を繋いでいた古道、小松野道を訪ねてみることにしました。横川は、3月まで私が勤めていた学校の校区で、この道が通じる大沢は、4月から勤めている学校の校区です。ちょうどよいつながりになります。

 アプローチは、県道の横川の信号を南に入り、聖門橋を渡ってすぐの三叉路を左(南東)に入ります。ここは阿弥陀堂という地名があり、サイの神をはじめとする石仏群がある一つの見所となっています。「観音温泉」の看板といくつかの石造物がを見て左に入ってください。


          小松野道の入り口

 しばらくは、車の通れる農道が続いています。三叉路から歩いて10分ほどで、農道の終点に着きます。そこは車の回し場のような広場になっています。最初に黒猫がいるのに出会いましたが、私の姿を見るなり草むらの中に逃げていきました。こんな人里離れたところで、何を食べて生きているのでしょう。しかし、人のいるような気配があります。ビールの空き缶や椅子のおいてあるコンテナなどがあるのです。

 
   ここが農道の終点 黒ニャンがいました 

 すでにこの時には夏草が茂り始めていましたから、どこが小松野道の入り口か迷いました。しかし、道なりに先を見ますと、一つのお地蔵様が立っているのに気がつきます。大きな自然石の上部を削って、その上に立っています。はじめは(お墓かな?)と思って画像を撮らなかったのですが、後で資料と照らし合わせてみましたところ、どうやらこれが道標になっているようなのです。光背部の刻印は、苔がついているために読むことができません。お顔も欠けています。資料によりますと、「右ハこまつの道 左ハ下田」と記してあるそうです。
 この時はこのお地蔵様を右に見て進む道しか見えませんでしたので、左に進路をとって進んでみました。そちらに踏み跡がはっきり見て取れたからです。


            小松野道の道標

 夕べの雨のせいで、下草が濡れています。ズボンの裾を汚しながら歩いていきますが、くもの巣もところどころで張っています。夏は古道探索に合いませんね。
 道は、左に沢を見て登っていきます。踏み跡ははっきりしています。荒れも、そうひどくはありません。

 やがて尾根筋をたどる道になります。辺りの木々は新緑の若葉を身につけ、まぶしいくらいです。ウグイスを初めとする野鳥の声が響き渡っています。うーん、いい気分。まさに生きてるって言う気持ちです。

 
          明るい尾根筋の道

 途中に、竹藪の中を通るところがあります。でも、他の古道のように道まで竹は浸食していることはありません。人通りが多いのでしょうか? もちろん、イノシシが竹の子を掘り起こした跡はそこかしこに見られますが。


          竹藪の中の道

 一部に道が崩れた部分もありますが、ちゃんと橋が架けてあり、歩きにくいことはありません。
 そうこうするうち、前方が明るくなってきました。どうやら峠のようです。ここまで、横川のサイの神の三叉路からゆっくり歩いて40分あれば着くでしょう。

 
     おお、ここが大沢への峠でしょうか

 道を上り詰めると、いきなり道幅が広くなり、左右にみかん畑が広がりました。仕事をしている人がいるらしく、発動機の音が聞こえました。ここから先に上り坂はないので、どうやらここが峠のようです。南に眺望が開け、遠くに高根山が見えました。

 
        遠くに高根山を望む

 さあ、峠からいきなり車の入れる農道が開けたので、面食らいました。ここは、何処に出たのでしょう。かなりみかん栽培に力を入れているようです。東伊豆には荒れ果てたみかん畑が広がっている所がかなりあるのですが、こちらではまだまだ盛んなんですね。

 とりあえず道なりに下っていきますと、いくつかの分岐がありまして、どちらに進んでよいものか、迷いました。道なりに進んでいきますと、下大沢の集落に出ます。おや? 分岐の右、一段高いところにお地蔵様が二つ並んであります。よく見ると、向かって右は子どものお墓(『童子』と刻んであるので分かります)で、その隣のは馬頭観音のようです。どちらも「明治12年 大沢鈴木某…」の刻印があります。地元の同じ方が供えたのですね。お墓のお地蔵様は、赤ちゃんを抱いたお姿をしています。幼いうちに亡くなったお子を弔ったのでしょう。すぐ前には幾本ものお酒の瓶が転がっていました。
 そこでは、ラジオの大きな音が聞こえていました。見ると、道下に炭焼き小屋があり、赤銅色に焼けた中年の男性が仕事をしています。そこで、仕事中のため恐縮しながらも声をかけ、古道に関する話を伺いました。

「こんにちは。ここは下大沢ですか? 上大沢ですか?」
「ここは、下大沢だよ。上大沢に行く道? すぐそこにあるけど、今は行けるかなあ。草が茂って、行けないんじゃないかな。ああ、そこのお地蔵様かい。ああ、馬頭観音か。そうかも知んねえな。昔は、子どもを欲しがる人がよくお参りに来ていたよ。」
 赤ちゃんを抱いたお地蔵様なので、墓石といえどもお参りする人がいたのですね。明治12年といえば、まだ江戸時代が終焉してから間もない頃ですから、信仰心も深かったのでしょう。〈お墓の写真は撮らないことにしていますので、画像はありません。)

 さらに道を下りますと、下大沢の集落が広がりました。


           下大沢の集落

 折しもこの時期は茶摘みの季節。道ばたの茶畑で、ご夫婦が茶摘みに精を出しておられました。
「こんにちは。お仕事中にすみません。この辺りの古い道を訪ねてきたのですが、上大沢につながる道を教えてくださいませんか?」
「上大沢へ行きたいの? じゃあ、この道を上って、車が行けなくなった辺りを左に入る道があるから、山を巻くようにして行くんですよ。口では説明しにくいから、その近くにいる人に聞いてください。道標ですか? その分かれ道に、立っていますよ。どこから来たんですか? え、横川? まあまあ、よく通れましたね。気を付けていってください。」

 うーん、やはり土地の人に聞くとよく分かる。さっそく、今来た道を戻って見ることにしました。すると…!
さっき通った分かれ道に、道標があるではありませんか! さっきここで(おや? 分かれ道だ…。)とその先を見たばかりです。気がつかなかったとは…。とほほ…。


        上大沢への分かれ道と道


    高さはおよそ80pぐらい

 道標には、『文久三年亥十月』という刻印が読めました。(文久3年は、1863年。明治元年は、その5年後の1868年です。)他は摩滅が進んでいて読めないのですが、資料によりますと、『右ハよこ加ハ ま津さき 左ハこま津の こうら ミち 下ハ下田』と記されているそうです。よく見ますと、道標の下、三分の一は彫りが荒いです。きっと地中に埋められていた部分なのでしょう。現在は土手に立てかける形になっていますが、昔はちゃんと分岐に埋めて立てられていたのでしょう。ちなみに、ここから始まるコンクリートの舗装道にも、『1978年11月』と彫ってありました。きっと、舗装工事が行われた時に誰かが刻んだのでしょう。面白い取り合わせだと思いました。

 さて、さきほど峠を越えた所のみかん畑に、三世代の家族で仕事をしている方々がいましたので、声をかけて道を聞いてみました。するとおばあさんとおじいさんが答えてくれました。

「こんにちは。上大沢に行きたいのですが、道を教えていただけますか?」

「上大沢け? すぐ下の道を右に行けば、ここの畑の下を通るようにしてずっと行けるよ。道を左に左に進んでいけば、お地蔵様があって、下に降りる道があるよ。そこから上大沢はすぐだよ。」

「道標? その道の分かれるところにあるよ。この辺りにはそこしかないな。一つだけだよ。道標のそばにある神様? あれは山の神様だよ。どこから来た? 横川? おやおや。あははは…。よく来たねえ。あはは…。この辺は、道が入り組んで複雑だからねえ…。」

大変にこやかに、しかもていねいに教えてくださったので、恐縮しました。

 さて、道標のある三叉路を西に進みますと、すぐ右手の高いところに石灯籠が建っており、2つの石祠が祀ってありました。これが、先ほどのおばあさんが言うところの『山の神様』ですね。二つの石祠は、形に相違点があります。向かって左の祠には扉がありますが、右のそれには扉が無く、石柱に屋根を載せた形になっています。左の石祠は、屋根は大きめですが落合のサイの神様に似ています。同じ石工さんが作ったのかもしれません。石室には、何が入っているのでしょうか。(知りたいからと言っても、勝手に開けるものではありませんよ。)


         道標近くの『山の神様』

 さあ、道を進みましょう。しばらくは車が入れる道幅がありましたが、やがて分かれ道が現れました。ここは左へ…と伺っていたので、そちらに進みますと、どうも道があやしくなりました。たまたまそこのみかん畑でみかんの収穫をしておられるおじいさんが居たので、道を訪ねてみました。

「こんにちは。お仕事中済みません。上大沢に出る道というのは、ここでよろしいのですか?」

「上大沢? その道は、一つ上の道だよ。ほらあそこに通っている…。だいたい稜線に沿っている道だよ。ずっと行くと栗の木峠に出るんで、そこを右に行けば稲梓に行き、左に下りると上大沢だよ。」

「え? そう、そこの道が小松野道だよ。だけど今は草が茂っているんじゃないかなあ。昔は、郵便屋がバイクで上大沢からその道を通って配達に来たもんだったが、今じゃ通り人もいないだろうから…。」

「サイの神? 集会所の下にあるよ。一人かい? どこから来なすった? え、横川? おおそうか、何でそんなことをしなさるの?  趣味かあ、いいねえ。みかんを持っていかんかね。その辺の枝からもいで、2つでも3つでも持って行きなさいよ。」

 ここでもたいへん気さくに、しかもていねいに道を教えていただきました。早速、いただいたはっさくを一つリュックに入れて、歩き始めました。
 一旦戻って中央の道に入りました。するとじきにまた分岐があります。右に下りると、どこに通じるのでしょうか。ここは、道なりに左に進みました。
 


    ここは中央の道を進みます


  ここは左です 右の道はどこへ?

 踏み跡はしっかりついており、高低差も少ないので、歩きやすいです。しかし昨日降った雨でぬかるんでいる道には、無数にイノシシの足跡が付いていました。もし目の前にイノシシが飛び出してきたら、どうしましょう。あたりは、野鳥の鳴き声が盛んに聞こえています。


 おお、イノシシの足跡が無数に…

 そうこうして歩くこと10分ほど。峠のような小高いところにさしかかりました。ここが栗の木峠でしょうか? 峠を示す史跡などがないので、全く分かりません。分かれ道のような踏み跡も傍らに延びていますが、ただの山道のようです。

 とりあえず画像だけ撮って、先に進みました。道は緩やかな下りとなります。倒木が少しあるものの、歩きやすい道です。今日訪ねている道は、これまでの古道探索の中で最も歩きやすい道と言えます。

 峠か?と思った道から5分も行かないうちに、目の前がぱっと開け、古木やお地蔵様、石造物が建っているのが目に入りました。ここが、あのおばあさんのおっしゃった「お地蔵さんがあるところ」でしょう。


       突然出会ったお地蔵様と椎の古木

 いくつかの石造物は、手前から『奉納 明治廿二年八月十一日 四國八拾八ヶ所供養塔』と記された供養塔、由来不明の〈地元の方に聞けば分かるかも)の丸彫り単立像の小さなお地蔵様、『天保六未年 八月廿四日』と記された光背型単座像お地蔵様(天保6年は1835年)、少し離れたところに刻印の何もない丸彫単立像のお地蔵様です。傍らの大きな古木は、椎の木のようです。


     背の高さは130pほどのお地蔵様

 ここからは、左に下りる道と、真っ直ぐ上る道、そして右に下りる道の3本が認められます。とりあえず、上大沢に下りると教わった道を行ってみましょう。お地蔵様の前を通り過ぎ、下りること5分ほど、最初の民家がありました。ちょうど茶摘みをしているご婦人がおられたので、栗の木峠の所在を伺いますと、これまたていねいに教えてくださいました。
「栗の木峠ですか? その道を上っていくと、お地蔵様がありますからね。そこが栗の木峠ですよ。向こうに下りると稲梓に出て、右に行くと下大沢に出ますよ。峠から真っ直ぐ行く道は、やはり上大沢に出る道ですが、ただの山道ですよ。サイの神ですか? 普通は一つの部落に一つ、三つ角にあるもんですけどね、ここ(上大沢)にはないですね。」

 ああ、あのお地蔵様のあるところが栗の木峠だったんですね。これでやっと頭の中の点と線が結ばれ、霧が晴れたように思いました。
 この話を伺ったお宅から下ると、上大沢の市道はすぐです。市道には、こんな様子で出ました。でも、ここは上大沢のどの辺でしょうか。地図で見当を付けると、どうやら上大沢の一番奥のようです。小松野道の後半はここから先ですので、いずれ訪れることにしましょう。
 

       おお、市道に出ました


 材木の手前左が入り口〈分かりにくい!〉

  ここで一旦栗の木峠に戻り、「向こうに下りると稲梓」という道を通って帰ることにしました。資料によりますと、その道こそが小松野道で、もう一つ、途中に道標があるそうなのです。


   峠から横川に通じる小松野道の入り口

 道はおおむね山肌を左に見るようにして下っていきます。踏み跡はしっかりしており、迷わずに進めます。檜が植えられた山田の跡も見られます。時折沢を渡りますが、木橋が朽ちていますので、気をつけていきましょう。それにしても、この道はさっき下大沢に来た道のどこに合流するのでしょうか…。


      うーん、古道って言う感じ…

 やがて傍らを流れる沢の水音とが徐々に大きくなり、前方が開けました。峠からだいぶ下りましたので、この分では、山中で往路と合流することはなさそうです。もしかして…。
 
 辺りの様子は、どこかで見た景色です。そう、林道の終点、初めにお墓かと思ったお地蔵様のある所ではないでしょうか…。
 と思う間に、まさにそのお地蔵様の脇に出ました。とすると、これはお墓ではなく、資料にある道標なんですね。なあんだ、そうだったのか…。これで資料にあった道筋がすべてつながりました。めでたし、めでたし。

 今回の探索は、人に聞きながら行ったので、大きな収穫がありました。小松野道もたどることができましたし。道が思ったより荒れていないのは驚きました。今でも土地の人々が利用しているのでしょうか。次回は、ぜひ上大沢から南伊豆町の一条に出る、小松野道の後半を訪ねてみることにしましょう。
                                             
トップ アイコン
トップ
葉