葉
   湯川橋から不越坂へ
 
 川端康成の名著『伊豆の踊子』は、「横瀬八幡神社近くの湯川橋で“私”と踊り子は初めて出会った。」と記しています。

湯川橋
 湯川橋は、横瀬八幡神社前の三叉路を南に折れた所の川に架かっています。むろん踊り子の時代の橋ではないでしょう。が、ここが踊り子と“私”が出会った場所だと思いますと、どことなく風情が感じられるものです。

 ここから国道136号線に合流するまでの数kmが、下田街道です。ここには「小立野」「本立野」という地名があり、宿屋が並んでいたそうです。
ただし、江戸期は小立野の遠藤橋から先が狩野川の断崖となっていたため、街道は修善寺東小学校前までは右手上の畑の脇を通っていたそうです。

修善寺東小学校脇の石仏群
 きれいに舗装された街道筋には、役場や病院があります。
 途中、日向道への分岐になる遠藤橋を過ぎる辺りから、道は緩やかな登りになります。街道はここで山の上に入っていったそうで、いまの車道は後から開かれた道であるそうです

 さて、やや道幅が狭くなってきたかと思うところの右手に、修善寺東小学校に登る入り口があります。逆の見方をすれば、山から下りてきた街道の出口ということになります。その小学校に登る石段の右手に、いくつかの石仏群と庚申堂があります。

 見ますと、庚申塔、馬頭観音、大黒天、お地蔵様などが並んでいます。『伊豆のサイの神』著者の吉川静夫氏はここにサイの神があると教えられて行ったそうですが、実際にはなかったそうです。特に関心のない人には、石仏もサイの神も一緒なのでしょうね。
ここの石造物の一つに大黒天があるのですが、商売の神様として知られているので、以前は御利益にあやかろうと体を削って持ち帰る人がいたそうです。

  左は学校への階段で、右が下田街道だそうです               体を削られたという大黒天

本立野の道祖神
  小学校前から街道に戻り、さらに進むことにしましょう。
達の郵便局を杉、しばらく行きますと、右手に小さな道祖神が鎮座しているのが見えるでしょう。私は資料を元に、何度となくこの道祖神を探したのですが、今回やっと見つけることができました。それまでは道下にあるとばかり思っていたのに、実は道上にあったのです。灯台もと暗し。目の前の霧が晴れたような気持ちになりました。まだまだ勘が鈍いですね。


 さてこの辺りは、右に山、左は狩野川に落ちる崖がある土地です。江戸期には、河原の船着き場に下りる道があったそうです。また産業としては、和紙が有名だったそうです。調べてみる価値はありそうですね。

不越坂の道祖神
 いよいよ道は不越坂に向かって登っていきます。
初め、私はこの地名が読めず、「ふごえ坂?」などと読んでいたのですが、後に「こえじ坂」と読むことを知りました。漢文のようにして読むのですね。
ちなみに不越坂は修善寺方面に行く道をそう呼んだそうで、下田街道は途中で坂と分かれて南に進みます。

 さて道が緩やかに右に曲がるところの外側に、道祖神があります。この辺りでよく見られる丸彫単座像の神様で、行き交う人車を静かに見送っています。
台座に建立した発起人の人々の名前が彫ってあります。この道祖神を過ぎたところの交差点にバス停「不越坂」があります。



 この辺りの路地を北に向かって行きますと、越路トンネルの手前に出ます。昔、修善寺方面に行くにはトンネルの上の峠を越えなければならなかったのですが、やはり難所であったのでしょう、越えることのできない坂、という地名が残っているのは、いかにも土地の様子を表しています。

 この不越路坂を上りきった地点にバス停があるのですが、本立野方面に行くバスは「本立野経由」という表示を出しており、不越トンネルを通るバスは「狭間経由」という表示を出しています。

 「狭間」というのは両側を山に挟まれた谷間のことを言いますので、江戸期はこの道を切り通りのようにして通っていたのでしょう。トンネル上の峠道も、いつか探索してみたいものです。 

不越坂の石仏群
 修善寺東小学校の南を通る細い町道を登りますと、越路トンネルの手前に出ます。途中にサイの神があるそうですので、今度探してます。
 トンネルの手前200mほどの国道脇に、お地蔵様や馬頭観音などが並んでいます。道路工事の際に、ここに集められたのでしょうか。坂や峠の近くには、たいていこのような石仏群がありますね。車を停めるには交通量が多くて危ないので、自転車かオートバイで訪ねた折りに見てください。


          越路トンネル近くの石仏群
                                             
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