葉

河内文芸に寄せた文章
「信仰と石造物の宝庫 高根山に登る」
2004年9月22日作成
あまりおもしろくない文章ですね…。  
 

 
向陽院の山門から稲生沢川の方を見ると、細い路地が目に入る。それが高根山への参道の始点である。昭和の中期まではそこから向こう側に橋が架かっていたと聞く。

 高根橋を渡って迂回し、向こう岸の堤防に立つと、そばに共同湯がある。そのすぐ向かいに、苔むした石柱とお地蔵様が立っている。石柱には向陽院からの距離を示す「一丁」の文字と、それをここに奉納した願主の名が彫られている。ここでは小生の判断により、これを「丁石」と呼びたい。一丁は約109m。丁石はこれから一定の間隔を置いて路傍に点在しており、山頂近くまでに十七石を数える。高根山は航海の安全を守る由来があるところから、願主の名には、「比井(和歌山)」や「淡路」などの地名、そして「辰富丸 右衛門」などと、船とその主らしき名が彫られている。

 一方、お地蔵様の由来は不明であるが、近くのご婦人の話によると「子どもの守り地蔵」ということである。
 さて路地に歩を進め、「高根山参道」の小さな道標のある四辻を突っ切ると、道は沢筋を行くことになる。途中、山下氏邸の生け垣の中に「二丁」の石柱が立っているので、見逃さないようにする。別の山下氏からは、「昔は夕方になると、この道は高根山から下ってくる参拝者の列がつながっていたものだ。」と伺ったことがある。
 無人踏切を渡ると、すぐに「奉納経供養塔」と彫られた石柱が立っている。江戸時代にこの辺りの由右衛門という人が立てたらしい。その向かいには「三丁」の丁石がある。地元の方の厚意により登山者用の杖が用意されているのが嬉しい。  「四丁」を見て、まもなく砂防ダムを越える。すると左に自然石を利用した祭壇が作ってあり、その上にいくつかの石造物がまとめられている。

 小さな丸堀単座像のお地蔵様はとても美しい造形をしていて、思わず見とれてしまう。その表情は、いたずらでもしそうな子どものそれを彷彿とさせる。きっと腕のある石工が彫ったのだろう。他には明治十二年建立の「大日如来」の石塔と、光背型単立像のお地蔵様がある。「大日如来」は真言密教の最高仏であるが、野辺にある石柱は、牛馬の供養のために立てられた意味が強い。これから先にいくつか炭焼き釜の跡があるので、炭を運搬するのに使われた牛が死んだ時に立てられたのであろう。もう一つのお地蔵様には、光背に「信女」の銘があるので、墓石と分かる。が、ここにお骨は埋まっていないだろう。実は同じ女性の墓石と思われるお地蔵様が、これから先に4つも立っているのだ。市史編纂室の佐々木先生の話では、娘を亡くした親が供養のために立てたのだろうということだ。その悲しみはよほど深かったに違いない。あるいはここが航海の安全を祈る山でもあるので、海難事故で娘を亡くした親が立てたのか。

 さて、道はこの辺りから険しくなる。辺りは鬱蒼とした杉林で、右手には沢が流れている。足元には子どもの頭ほどの岩がごろごろし、朽ちた炭焼き釜の跡が物寂しさを増している。
 ちょうど登山道の中間点とも言うべき所に、大正6年に立てられた道標がある。表には『右 山道 左高根道』と刻まれている。ここの分かれ道を右に行くと諏訪につながるようであるが、定かでない。
 腰を下ろすような場所もないので、東京電力の保守道に迷い込まないように気をつけて歩く。倒木を越えることもあるので、滑りにくい靴は必須である。途中、右手に丁寧に組んだ石垣の跡が見られる。かつてはこんな所にまで畑があったのだろうか。先人に伺うしかない。

 道はこの辺りから一段と険しくなり、つづら折りの坂をふうふう言いながら登る。ひときわ標高が上がったところに、左に下る道がある。石切山製材所の辺りに出る道らしいが、行ったことはない。
 まもなく、左の小高いところに小さな石室があり、中に単立像のお地蔵様が納められている。台座に「文化六(1809)年 正月吉日 河内村 願主□□」の刻銘が見られる。一昨年の小学校の遠足で、子どもがここで古銭を拾っている。
 険しい道をなおも行くと、左手の山肌に石祠がある。山の神ではないかと思うが、どうだろうか。尾根が近いので、風が森を揺らし、気味が悪い。
 上り道が緩やかになると、左に「十七丁」の石がある。ここまで来れば、山頂にはもうすぐである。やがて木立の間から海が見え始めると、右手に最後のお地蔵様がある。例の信女の銘がある墓石である。その視線の先に一筋の尾根道が分かれている。落合と白浜の境の峠につながっているらしい。

 そちらには進まずに南進すると、山頂の地蔵堂が見えてくる。周囲には石塔や供養塔の一部が転がっている。お堂の中には大小様々なお地蔵様が納めてある。
 お堂の向こうのひときわ高いところが標高343mの山頂である。高陽院から石造物を眺めながら歩いて1時間半ぐらいか。天気がよければ遙か遠くに富士山も見える。残念ながら河内側の眺望は開けていないが、白浜側のそれは素晴らしく、しばし疲れを忘れて見入ってしまう。お地蔵様や石祠も立っているが、あるはずの「十八丁」が、いくら探してもない。残念至極。所在をご存じの方がおられたらご教示いただきたい。
 山頂からそのまま進むと、テレビ中継塔がいくつか建っていて、やがて急な下り道につながる。道が下り始めたかという所に、役行者(えんのぎょうじゃ)の石像が自然石の上に鎮座している。実は、役行者の像は大変に珍しいので盗難にあう危険性をなくすためその所在を一般に広めるべきでない、と佐々木先生に釘を刺されていることをご了承いただきたい。ちなみに役行者は伊豆大島から一足飛びにこの地に降り立ち、富士山などに修行に出かけたそうである。そういえばこの石像のお顔は、どことなく烏天狗に似ている。
 近くには、菅原道真公と伝えられる石像がある。頭部が欠けており、代わりに小石が載せてある。また、大きな石祠も少し離れたところに立っている。そこから望む東側は険しい崖であるが、木々に覆われて下を見ることはできない。だが、高根石を切り出した丁場があるとのことで、やはり佐々木先生が調査に入られたことがあるそうだ。

 高根山頂からは来た道を戻ってもよいし、白浜側に下りて寝姿山遊歩道に入り、途中の峠から諏訪に下ることもできる。諏訪に下る場合、峠には天明二年(1782年)の古いお地蔵様があり、旅人の安全を守っているのを見ることができる。正月には米やみかんが供えられるので、どなたかがお世話をしているのだろう。ありがたいことだ。
 峠から荒れた道を30分ほど下ると、諏訪の地に出る。白浜からこの峠を越えて豆陽中学(現下田北高)に通った生徒たちは、草の露で濡れたわらじを諏訪の重右衛門さん宅に預け、そこで木下駄に履き替えて河内を抜け、通学したらしい。彼等は、お祭りの時には白浜から伊勢エビなどを持ってお礼に伺ったそうだ(これは「昔の白浜に学ぶ会」の会長さんから聞いた話)。なお、重右衛門さん宅前の市道には、立派な「西国四国板東供養塔」が立っている。すぐ近くの諏訪神社に、下田の産んだ銘石工、小川清助氏作の狛犬が奉納されていることはご存じであろう。

 こう見ると、高根山はまさに信仰と石造物の宝庫であることが分かる。こうした山の存在は、下田市でも珍しいと思う。どなたもぜひ一度は訪れていただきたいものである。
                                             
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