葉

狩足から北の沢を目指す
探訪 2004年4月10日    
 
 稲梓の古道で懸案事項の1つだった「八木山→大鍋」ルートについて情報を探すうち、力強い味方が表れました。地元で猟師をしている須郷の兄さん(私の妻の従兄弟)です。ちょうどネットに参入したところで私のHPを見てくれて、そこなら猟場にしているところだから、と快く道の案内を引き受けてくれました。
 どうせなら仲間を連れてきて、という配慮もしてくれたので、職場の先輩を連れて行ってきました。
 
 一緒に入ってくれたのは、1つ上の先輩、ワタナベ先生です。いつもいろいろと教えてくれて、趣味の話もするいい兄貴です。
 
 さて土曜日の朝、八木山のここに降りて来るという水道タンクの脇に先生のワゴン車を置き、私のハチロクに乗って兄さんの家に行きました。ここから徒歩で狩足を通り、その奥の山にはいるのです。

 狩足は須郷や目金の水源地となっており、梓山の家のイベントで観察会などが行われる所です。

 入谷のサイの神がある三叉路を右に曲がり、坂を上ります。左手眼下には、とてもよい春の里山の風景が広がっています。須郷は、とても静かでのどかなところです。時間がゆっくりと流れている感じです。私もできればこんな所に住みたいと思うような場所でした。


         これが日本の里山の風景です 住みたい!

 さて、歩を進めるうち、山仕事に向かうおじいさんに追いつきました。須郷の兄さんはもちろん顔見知りなので、これから行く山のことや昔の話などを聞きながら一緒に歩きました。

 曰く、昔はそれこそこの道が稲梓と上河津をつなぐ道で、往来がとても多かった事。でも今は通る人がいないので、それを知っている人はいないだろうし、道も消えているということ…。まさに伊豆は山の国であります。

 そうこうするうち、右手に石造物を見つけました。どうやら回国塔のようです。やはり人通りは多かったのですね。街道としての機能があったのでしょう。また、すぐそばにお地蔵様を見つけました。こちらは大日如来のようです。「これは牛馬の供養をした記念碑ですよ。」と私が説明しますと、おじいさんが「ここでは昔、牛に灸をすえた場所だったんだよ。」と教えてくれました。体を病んだ牛や馬に、ここでお灸をすえたそうです。大事な労働力の牛馬が病気になっては困りますものね。また、そうしてかわいがった牛や馬が死ぬと、悲しみに暮れ、大日如来や馬頭観音を立てて弔う気持ちが生ずるのはとても理解できます。


   牛馬にお灸をすえたという場所に立つ大日如来さまです

 さて、狩足の水源地は、単なる川の上流でした。湧き水を利用しているのではないようです。


  水源地そばに建つ別荘 外国人さんが来るそうです

 そこから登ること数分。行く手が2つに分かれています。正面には2つのお地蔵様が立っています。光背を持つ単立像で、そこに刻まれた文字を読んでみますと、何と道標になっています。


   道標銘になっているお地蔵さま Ss先生に見せて差し上げたいです

 「右 かわづ」と彫られたそれは、まさに河津への道を示す道しるべ。またもや資料『下田市史』にない道標を見つけてしまいました。

 そこからは山の東斜面を南に向かって歩きます。倒木はあるものの、下草が生えていないので、それほど歩きにくくはありません。アオキの灌木はシカに食べられているそうで、葉がありません。兄さんの話では、シカが葉を食べるため、昔より返って歩きやすくなったそうです。

 さて、きつい登りにひいひい言いながら登りますと、最初の峠にでました。ここは、「小峠」と呼んでいるそうです。ここからすぐ下は、須原の北の沢の集落があるそうです。


   小峠の様子 左に下ると北の沢に出るそうです

 小峠でしばらく休んだ後、さらに稜線を伝って登ります。途中、山椒の木を見つけたので、兄さんに切ってもらいました。これはすりこぎとして貴重な木なのです。なかなか店では売っていないし、あっても大変に高価です。1本切ってもらい、ワタナベ先生と分けました。

 さて、ここにお地蔵様があるはずだよ、という頂きに立ちましたので、そのお地蔵様を探しました。誰よりも早く見つけたかったのですが、でも私の石造物レーダーは鈍いようです。山の南斜面に立つお地蔵様を兄さんが見つけて呼んでくれました。

 これは四角柱に彫られた単立像で、気の毒に、お顔が削られています。廃仏毀釈運動が行われた頃に削られたものか、それとも博打打ちに持ち去れれたのか、いずれにしても銘にある狩足の願主の家の方を見守るように静かに立っています。


     狩足の集落を見守るようにして立つお地蔵さま

 さて、この辺りは雑木林で、あちらこちらに山椒の木が見られました。もう一本、すっくと立ったそれを切ってもらい、杖代わりにして歩きました。

 いったんピークから降り、また緩やかな坂を上って奥へと進みます。右手には、大平山や高根山、そして眼下に八木山の集落が見えます。坂戸の辺りが全く違う景色に見えます。


          あれは坂戸の方ですね
  
 さて、ここに道標があります。


     「右 大鍋  左 池代」 の銘あり 高さ80cmほど

 これも『下田市史』には載っていません。誰が立てたものか、建立年も立てた人の名も彫ってないので分かりませんが、歴史の確かな証がここにもあったのです。

 さて、右に行くと小鍋を経由して大鍋に行くそうなのですが、左に進んでもそちらに行く近道があるというので、ここは左、池代方面へと行くことにしました。

 暗い檜林の中を歩いていきますと、初めは踏み跡が怪しかったものの、そのうち立派なU字形の道が現れました。ここを通って、稲梓と池代の人たちが行き来したのですね。

 そうして、「ここを右に折れるとさっきの道標を右に行ったところとぶつかりますよ。」という地点に着きました。ここから先には、大池という平らな場所や、大鍋へ行く分岐、そして池代への道が続いているそうです。大池というのは、名前からしてもしかしたら火口の跡かもしれません。せっかくなので、案内してもらうことにしました。

 しっかり作られた道を辿り、三角点があるというピークに立ちました。ここで小休止をし、兄さんの奥さんが作ってくれたお弁当を頂きました。ここで、古道の話や狩猟の話を聞きました。いまは雑木林が減ったために、シカやイノシシが里まで下りてくるので、農作物に被害が出てるそうです。でもむやみやたらには狩りをしないのだそうです。この辺は微妙ですね。

         標高563mの三角点

 さてお腹がふくれたので、さらに奥を目指すことにしました。運動不足の体にはきついですが、せっかくきたので、行かない手はないでしょう。

 右手下に大鍋の集落を見ながら、道にそって歩いていきます。途中でぬた場があり、そばにはシカが体をこすりつけたために皮がすっかり剥けた檜の木がありました。どうやらシカは夜にそうした動作をするようです。

 さて、ここが大池だよという場所に来ますと、火口の跡らしき地形は認められませんでした。ここを稜線づたいに行けば池代に出ると聞き、大鍋へと下る道も教えてもらいました。ここから大鍋へは急な谷を下るので、いったん下ると登って帰ってくるのは大変なので、あらかじめ車を向こうに置いてから来るのがいいそうです。
でもこんな淋しい場所には、一人で来たくないですね。私は古道探索家失格かな。


   大鍋へ下る道です かなり急のようです。行けるのかな?

 さて、ここで元来た道を引き返し、道標から右に進むとここに出る、という地点を目指しました。ここを行くと本当に道に合流するの? という荒れた所を、兄さんはどんどん進んでいきます。
 途中、倒れた古い電信柱と白いガイシがいくつかありました。かつてここを河津から下田へと送電線が通っていたそうです。小鍋には水力発電所があって、須原小学校の遠足コースになっていたそうですから、そこから電気が送られてきたのかもしれませんね。


    信柱の古いガイシ 婆娑羅旧峠のそれを思い起こします

 そのうち、峠らしいところに出ました。ここを超えていくと、小鍋の奥に出るというので、とりあえず道があるかどうか、見に行きました。小さな沢を超えて下っていきますと、山肌につけられた道は沢から離れ、斜めに下っていきます。さっき超えた沢は遙か下の方で水音を響かせています。運動靴で来た私は滑らないようにするのがやっとです。これ以上は降りられないな、という所で兄さんに声をかけ、引き返してもらいました。


        小鍋への下り。恐いので引き返しました

 峠に戻り、では帰りましょうかという事にして、八木山の水道タンクへと下りました。

 やはりここでも沢は荒れていて、這々の体で降りていきました。途中、炭焼き釜やワサビ田の跡を見ながら、兄さんの「炭焼き釜は周囲の木を切って落として運ぶため、Y字型になった沢の合流点に作られることが多い。おもしろいことに、人が利用しやすい場所というのは動物にも歩きやすいらしく、しばしば炭焼き釜のある所でシカやイノシシに出くわすことがある。」という話を聞きました。

 炭焼き釜の跡からは道がありましたので、順調に下ることができました。そのうち、八木山の山の神様という祠に着きました。みると、不動明王の像が二つ祀られています。鳥居が新しいのは、近くに熱心な人がいるのでしょう。銘がないので建立年などはわかりませんが、地元の人たちには、山の神様としてあがめられているそうです。

          山の神様であるところの不動明王です

 さて、無事に里に下りてからは、近くに石造物があるというので、案内してもらいました。

 最初に行った小峠から降りるとここに着くよ、という地点に、小さな石仏がいくつかありました。

 みると、石柱や単座像の石仏があります。智拳印を結んでいるところから、大日如来座像と判断しました。やはり山仕事に使った牛馬の供養のために立てられたのでしょう。江戸後期から昭和中期の頃に立てられたのではないでしょうか。


         いまでも静かに祀られているようです

 さて、今回の探索はこれで終わりです。テキストが長くて読み疲れたと思います。この後、さらに兄さんには須郷の秋葉さんを案内してもらい、自宅でお茶をいただいて帰ってきました。ワタナベ先生にも満足してもらえたようだし、山椒の木の土産ももらったので、私も大満足でした。ただし道案内してもらった須郷の兄さんは疲れたそうで、シシを追って歩き回る方がずっと楽だと義父にもらしたとか…。ごめんなさーい。また連れてってね。山歩きは楽しいですー。


                                             
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